夏季大学講座(2015年)

 創価大学の夏季講座を受講しました。昨年に引き続き、菅野教授の 「法華経」 を読む(10) ―如来神力品・嘱累品・薬王菩薩本事品― であります。
 教授はこの講座も、後 2~3回で終るだろうと、丁度その頃、御自身も定年を迎えると言われていました。 
 来年私は、80歳になりますので、どうしょうかなぁ と、一瞬思ったこともありましたが、上京の車中で読んだ大白蓮華の池田先生の御指導のなかに、
 「人生、最後の最後まで戦いきった人は、美しい。
 ですから、生涯、青春の心と行動が大切なのです。“自分は年をとったから、ほどほどにしてもいいだろう” などという逃げの人生であってはならないのです」
とありました。  (大白・2015-9月・100P)
 この “ほどほどにしてもいいだろう” というのが、なかなかの曲者であるようで、この弱い心に妥協しないようにしなければ成りませんす。私は途中からの受講でしたが、最後まで受けたいと思っています。

 まずはじめに、『法華経』 の中心思想についてのお話がありました。
 1、一仏乗の思想。
  「開三顕一」(方便品)。三乗方便、一乗真実を顕す。三乗とは声聞・縁覚・菩薩のことで、
  声聞は四諦の法を修行し、阿羅漢の境地を。縁覚は十二因縁を修行し、壁支仏を目指す。
  菩薩は六波羅蜜を修行し、仏果を目指す。三乗は一仏乗に統合されて、共に仏果を目指す
  菩薩として、平等の存在であることが明かされた。
  このほか、「一大事因縁(開示悟入)」 「常不軽菩薩の礼拝行」 等のお話がありました。

 2、久遠の釈尊の思想。
  「開近顕遠」(寿量品)。始成正覚を開いて久遠実成を顕す。
  「五百塵点劫」 何回も繰り返すことで久遠を教えている。
  「方便現涅槃」 生命は永遠であるが、方便して涅槃を現ず。一種のショック療法である。
  このほか、「良医病子の譬喩」 等のお話がありました。

 3、地涌の菩薩の思想。
  願生の菩薩。願生とは過去世の誓願によって、今世に生まれること。「願兼於業」。
  「自ら清浄の業報を捨てて……衆生を愍むが故に……此の経を演ぶるなり」(法師品)。

  人を救うために、使命を自覚して出現したのが地涌の菩薩である。

 〔1〕 如来神力品 21 (別付嘱) 
 1、地涌の菩薩の 『法華経』 弘通の誓い
  涌出品の地涌の菩薩の出番がこれまでなかったが、この品では、釈尊に
  「私たちは仏が涅槃に入った後に、世尊と分身仏のいる国土の中の(仏が)涅槃に入った
  場所で、この 『法華経』 を敷衍して説くでしょう。その理由は何か。私たちも自らこの真実・
  清浄で偉大な法を得、受持し、読み、誦し、解説し、書写して、これを供養しょうと思うから
  です」
と地涌の菩薩の弘通の誓いを申し上げる。

 2、釈尊と分身仏の神通力
  地涌の菩薩たちが誓いを述べたとき、釈尊は昔から娑婆世界に住む大衆の前で、偉大な
  十種の神通力を示す。
  はじめに、広長舌を出して梵天まで到達させる。仏の説く内容に虚妄のないことを示す。
  その他、毛穴から光を放って、十方世界を照らすとか、通常我々の考えの及ばない現象で
  あるが、これも、妙法の偉大さを示して、その当体を地涌の菩薩に付嘱せんがためである。

 3、地涌の菩薩への 『法華経』 の付嘱  
  『法華経』 を付嘱するために、この経の功徳を説いても、まだ説き尽くすことはできない。
  『法華経』 の内容を 「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法と、如来の一切の
  自在の神力と、如来の一切の秘要の藏と、如来の一切の甚深の事とは、皆な此の経に
  於いて宣示顕説す」
という四句の要法にまとめて、地涌の菩薩に付嘱するのである。

 〔2〕 嘱累品 22 (総付嘱) 
  嘱累品においては、一切の菩薩たちに対して、総じて 『法華経』 を付嘱する。
  この品より後は、学会教学では馴染の薄い品ですので、省略させて頂きます。
  ただ、法華経の品の構成に異論があるとのことですので、テキストを引用させて貰います。
  「嘱累品は一般的には、経末に置かれるものなので、鳩摩羅什訳においてこのように中途
  に置かれることは奇妙な印象を与える。ただし、多宝如来の塔もここで本の場所に帰るよう
  勧められているが、後の妙音菩薩品や観世音菩薩普門品にも また登場している。
  嘱累品がこの位置に置かれてことに関して、『法華経』 の成立史を推定する場合、嘱累品
  がここにあることは、『法華経』 の発展のある段階においては、『法華経』 はここまでしかな
  かったのではないかと推定された」

  このことは、嘱累品より後の六品は、後人の付加したものであろうとのことである。

 〔3〕 薬王菩薩本事品 23  
  この品に有名な広宣流布の文証があります。
  「我が滅度の後、後の五百歳の中(うち)に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、
  諸天竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便りを得せしむること無かれ」
の文です。
  この 「薬王菩薩本事品」 は、もともと独立したものであるとの説があるそうです。                     
  「この品の中には 『薬王菩薩本事品』 という品名がしばしば出てきて、奇妙な印象を与え
  る。というのは、建前としては品名は後の経典編集者が付けたものとされるからである。
  ところが、この品では釈尊の説法の中に品名が出ているのである。そこで、『法華経』 の
  成立を推定する研究者の中には、このように自らの品名を出す品は元来は独立単行されて
  いたもので、後に 『法華経』 の中に組み込まれたのであろうと推定する者もいるが、真偽の
  ほどは未確定である」
ということでありました。 
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「第三の人生」は「第三の青春」

 9月号 『大白蓮華』 の 「幸福と平和を創る智慧」 には、「第三の人生」すなわち、人生の総仕上げの年代についての指導が掲載されています。  (2015-9月号・97~113P)
 私もこの年代になって、身につまされる問題であります。ただ単に読むだけならば、いずれは忘れ去ってしまうでしょう。それよりも書き取る方が、より記憶にとどまるのではないかと思いますので、ブログにて発表させて頂きます。

 池田先生は、
 「第三の人生」 は 「第三の青春」 でありたい。青春は、年とともに消え去っていくものではない。自分がどう思うかです。いくつになっても、前向きの挑戦の心があるかぎり、ますます深みを増し、ある人は黄金に、ある人はいぶし銀に輝いていくのです。
 人生の総仕上げの年代を、生涯青春の気概で生きゆけとの指導であります。

 御書に 「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740P) とあるように、仏法ではさらに一重深く、四苦そのものが 「一身の塔」、すなわち 「生命の宝塔」 を荘厳する宝に変わる、と説いているのです。
 「愚者にとって、老年は冬である。賢者にとって、老年は黄金期となる」 という言葉もある。

 生老病死の四苦そのものが、わが生命の宝塔を荘厳する宝に変わるのだと、これほど、素晴らしく・有り難い大哲理が他にありますでしょうか。
 「しかし残念なことに、『死』 という根本問題から目を背けた現代社会は、そうした 『老い』 のもつ黄金の価値まで見失ってしまったように感じます」 と先生は戒められています。

 そして先生は、認知症の父親の介護に奮闘する、ある一家を激励されました。
 「心配することはありません。たとえ脳に刻まれた記憶が消えたとしても、生命に刻まれた福徳は消えない。広宣流布に尽くした功労は永遠に消えないのです。
 今、お父さんは、一家一族の宿命転換を担い、偉大な総仕上げの戦いをしてくれている。そう捉えて、題目を送り、温かく見守って差し上げてください。どうしてだろうと思い煩ったり、世間体を気にしたりする必要などありません」

 「業」 とは行いのことで、善業の記憶は消えても、生命に刻まれた福徳は消えない。これを確信し、悠々と、堂々と、家族や同志と共に生き抜く、これが信心である、と指導されています。

 長寿社会とは、競争よりも協調が、効率よりもゆとりが、物の豊かさよりも心の豊かさが、求められる時代です。自分が 「してもらう」 のではなく、わずかでもいい、自分には 「何ができるのか」 を考える時代です。いくつになっても、わが身を律しながら、貢献の道を探っていく。それが、「価値創造」 の生き方です。
 「価値創造」 といえば、学会活動そのものであり、ゆえに先生は、
 「人生の最高の誉れは、学会活動です。人のために祈り、動くことで、自分も幸福になる。これほどの価値ある人生はないのです」 と指導されています。

 「長生き」 の秘訣は何か、唱題行が根本であるが、そのうえで、一般的に、心のもち方が大きく関係する といわれていますので、その項目だけを取り上げてみます。
 ① 「くよくよしない」 ことが大切とされる。
 ② 「目標をもって生きる」 ことである。
 ③ 「ユーモア、笑いを忘れない」 ことも大切である。
 ④ 「何らかの仕事、使命に励む」 ことである。


 ハーバード大学のガルブレイス博士は 「健康法」 を、こういわれました。
 「何よりも大事なことは――朝起きた時、『きょう一日計画が決まっていない、考えていない』 といったことが、ないようにすることです!」
 朝を 「さあ、きょうも!」 と元気に出発することである。
 その意味で、みずみずしい一日の出発をする 「朝の朗々たる勤行・唱題」 が、どれほどすばらしい健康法か――。
 勤行・唱題は、小宇宙である自分自身を、大宇宙の根本のリズムに合致させゆく崇高な儀式である。
 ………
 博士は言われた。
  
 「年配者の最大の誤りは、仕事から引退してしまうことである。やるべき仕事がなくなれば 『肉体的努力』 と 『精神的な努力』 を、しなくなってしまう。とくに 『精神的な努力』 をやめることは、非常によくありません」
 いわんや、信心に 「引退」 はない。広宣流布への学会活動は、生命力をを増す 「最極の精神の努力」 であり、生命の根本的な健康法なのである。
 “信心に 「引退」 はない” と、また、遠慮もいらないと思います。

 アメリカの女流画家 グランマ・モーゼスの生き方を通して指導されています。
 人生の年輪が増すごとに、創造の輝きを一段と強く放ちゆく人には、“老い” はない。それは、常に人生の 「現役」 であることを、自負しているからではないだろうか。
 「生きる」 ということは、生涯かけて学ぶことである。また 「人生とは、私たち自身が創るもの」 なのである。そのスタートが何歳であっても遅くないこと、さらに、それには学歴などは要らないことも、モーゼスおばあさんは教えている。
 私はそこに、たぐいまれなる 「自律」 と 「自立」 の魂をみる。自らを律しつつ、自ら立つ。このとき人は、人生という名の舞台の上で、いつも “主役” を演じ続けることができるにちがいない。

 “「人生とは、私たち自身が創るもの」 である。そのスタートが何歳であっても遅くない。また、それには学歴などは要らない” との指導です。

 以上、断片的で中途半端な感は拭いきれませんが、他に ナイチンゲールの生き方 や 「不老不死」 等の指導もありますので、あとは 「大白蓮華」 の方を、熟読玩味して頂ければ幸いに存じます。
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「新・人間革命」第1巻(はじめに)

 「人間革命池田塾」 では、いよいよ 『新・人間革命』 の研鑚が始まりました。今回からの 『新・人間革命』 は、一巻全部を研鑚することにことになりました。
 あらためて読みなおして見て、自身が感じたところを、書き留めてみようと思いました。全部に亘ることは量が多くなりますので、月に1~2度ほどになると思います。
 『第1巻』 には、「はじめに」 と 「あとがき」 があり、池田先生の思いが綴られていますので、この部分を中心に学びたいと思います。

 〔はじめに〕
 戸田先生は、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、あの原水爆禁止宣言を発表され、遺訓の第一として、その思想を全世界に弘めゆくことを、門下の青年に託された。
 ………
 「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」
 それは先生の願いであり、ご決意であられた。師弟は不二である。不二なればこそ、私もまた、恩師の心を抱きしめて、世界を駆け巡り、「平和と幸福の大河」 を切り開いてきた。「源流」 の偉大さを物語るものは、壮大な川の流れにほかならない。
 私が、『人間革命』 の続編として、『新・人間革命』 の執筆を思いたったのは、先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたからである。また、恩師の精神を未来永劫に伝えゆくには、後継の 「弟子の道」 を書き残さなければならないとの思いからであった。
 しかし、それには、どうしても自分のことを書かなければならないことになる。そこに大きなためらいもあった、
と 述懐なされています。
 だが、私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければわからない真実の学会の歴史がある、 と 述べられています。

 「魂の力」 は原子爆弾よりも強い――それがマハトマ・ガンジーの叫びであった。人間のもつ、無間の 「生命の力」 の開拓が、「戦争の世紀」 を 「平和の世紀」 へと転じゆく――それが 「人間革命」 であり、この小説を貫く一本の水脈となろう。
 ………
 『新・人間革命』 は、完結までに三十巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない。しかし、自身のこの世の使命を果たし抜いてこそ、まことの人生である。
 ………
 私も、『新・人間革命』 の執筆をわが生涯の仕事と定め、後世のために、金剛なる師弟の道の 「真実」 を、そして、日蓮大聖人の仰せのままに 「世界広宣流布」 の理想に突き進む尊き仏子が織りなす栄光の大絵巻を、力の限り書きつづってゆく決意である。正も邪も、善も悪も、勝者も敗者も、厳しく映し出しながら――。
 戸田先生も、その生き方を、じっと見ているように思えてならない。


 先生は “『新・人間革命』 は、完結までに三十巻を予定している” と仰っています。現在の聖教新聞連載は、昭和53年1月、「広布第二章」の支部制が発足した頃のことで、第28巻目にあたります。 
 そうしますと、あと2巻余の予定となりますが、忘れてはならないことは、第1次宗門問題の最中、昭和54年4月24日、第3代会長を勇退されたことである。
 この宗門問題の本質、すなわち、宗教がその ドグマ(教条主義)を発揮し、人を幸せにするどころか、地獄の底に叩き落とす作用もあるのである。現今の I S (イスラム国)の独善と狂信の姿を見れば、納得していただけると思います。
 このような宗教のもつ恐ろしさ、負の遺産の断面をえぐり出して、解明し論じていただきたいと願っています。
 “その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない” と述べられています。
 池田先生は、いま、壮絶な闘争をなされています。
 心から、先生と奥様のご健康とご長寿をお祈り申し上げます。

 『新・人間革命』 第1巻は、恩師の遺訓である 「世界広宣流布」 への旅を、一九六〇年(昭和三十五年)十月二日、日米開戦の地である ハワイのホノルルに向って旅立つところから始まっています。
 その冒頭の文章は、『人間革命』 の文章とよく対比されますので、併せて引用させていただきます。 

 『新・人間革命 第1巻』 の 〔旭日〕 の章の文、
 平和ほど、尊きものはない。
 平和ほど、幸福なものはない。
 平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。


 『人間革命 第1巻』 の 〔黎明〕 の章の文、
 戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた。
 愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである。
 人びとは、八年に及ぶ戦果に、親を失い、子を失っても、その苦しみに耐えてきた。
 しかし、一九四五年(昭和二十年)七月ごろには、いつ米軍が本土に上陸するかわからないという重苦しい空気が、人びとの心を締め付けていた。
                  
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「新・人間革命」第1巻(あとがき)

 〔あとがき〕
 生命の続く限り、私は書き続ける。
 正しい仏法とは何か。
 正しい人生とは何か。
 そして、何が歴史の 「真実」 か。人間にとって 「正義」 の戦いとは何かを。
 そこに、人類の未来を開く、一筋の道があるからだ。
 日蓮大聖人の御聖訓にいわく、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」(1087P)。
 迫害は仏法の 「正義」 の証明である。


 “あとがきの” の冒頭から、池田先生は、『新・人間革命』 を “生命の続く限り、私は書き続ける” と 述べられています。
 “はじめに” のなかに、“限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない” と 仰っているように、いま、お命を懸けて戦われております。
 人類の未来を開くために、何が真実か、何が正義かを証明せんとして。先生のこの思いに、襟を正さずにはおられません。

 日本は、民主主義の時代となった。しかし、明治の民権思想家・中江兆民が 「日本に哲学なし」 と嘆いたように、民衆の自立のための、確かな哲学・宗教がなかった。ゆえに、たやすく国家の権力や世の中の大勢に迎合する付和雷同の風土も、なんら変わることがなかったといってよい。
 創価学会は、その 「哲学なき社会」 のなかで、民衆の時代を築くために、仏法の生命の哲学を掲げ、「正義」 と 「良心」 の叫びをあげたのである。民衆のなかへ、人間のなかへ分け入り、人間の自立と復権と幸福の道を説き続けたのである。その運動が、民衆の支配を企てるあらゆる勢力から圧迫を受けるのは、むしろ当然の帰結であったといえよう。
 何も行動しようとせず、ひたすら傍観者を決め込むならば、批判されることはあるまい。しかし、民衆のため、平和のために生きることは、信仰者の使命である。また、そこに創価の仏法の不滅の精神がある。
 私は、その 「真実」 を書き残すために、小説 『人間革命』、そして、『新・人間革命』 の筆を執ってきたのである。


 中江兆民の言うように、確かな哲学・宗教を持たなかった日本の民衆は、たやすく国家権力や世の中の大勢に迎合してしまい、先の大戦への道を阻止できなかった。
 創価学会は、“人間の自立と復権と幸福の道を説き続け” そして、“民衆のため、平和のために生きることは、信仰者の使命である。また、そこに創価の仏法の不滅の精神がある” とありますように、これを実践し続けてきたのである。

 先生のペンネームが 「妙悟空」 であることから、私のペンネームは 「法悟空」 とさせていただいた。二つが合わされば、私どもが流布する 「妙法」 となる。
 仏法では 「妙」 は本源、「法」 は現象。「妙 」は仏界、「法」 は九界。「妙」 は法性(悟り)、[法」 は無明(迷い)である。いわば、「妙」 は師、「法」 は弟子ということになる。


 先生は、“「妙」 は師、「法」 は弟子ということになる” と、甚深なる仏法の 「師弟の道」 を教えられています。
 『人間革命』 では、執筆の途中、「諸般の事情から十年半にわたる長期の休載もあり、結局、九三年(平成五年)二月の全十二巻の連載終了までに、二十八年余を費やしていまった」 と 述べられています。
 先生は、“諸般の事情から” と仰っていますが、私はこれは、宗門による理不尽な執筆妨害であると認識しています。
 第一次宗門問題の件で会長勇退に至ったとき、先生に対して、会員に会ってはいけない。指導してはいけない。聖教新聞等に載せてもいけない 等々と、これが 広宣流布の大指導者・大功労者に対する、宗門の仕打ちなのである。
 結局、日顕はじめ宗門の坊主たちは、大聖人の遺訓たる広宣流布を破壊せんとする、第六天の魔王の眷属である。この事実を決して忘れてはならないのである。

 師の偉大な 「構想」 も、弟子が 「実現」 していかなければ、すべて幻となってしまう。師の示した 「原理」 は「応用」 「展開」 されてこそ価値をもつ。ならば、師なき後の弟子の生き方を書きとどめてこそ、広宣流布の永遠の方程式を記すことができると考えたからである。
 ………
 『人間革命』 も、『新・人間革命』 も、そのテーマは、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」 ことにあり、それが戸田先生が示された平和建設の原理であった。
 私は、恩師から受け継いだ、このテーマを実現しゆくために、生命の続く限り、動き、語り、そして、遺言の思いで、『新・人間革命』 を書き続けていくつもりである。


 “師の示した 「原理」 は「応用」 「展開」 されてこそ価値をもつ” と、所詮、創価の歴代会長が実践して示された “平和建設の原理” は、弟子たちの 「師弟不二」 の戦いに極まるのである。
 したがって、『人間革命』 『新・人間革命』 は、壮大な 「師弟不二論」 が説かれた実践の書であると思います。
 不肖の弟子と言われないよう、シッカリと 研鑚・実践して参りたいと思います。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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