「聖人御難事〈上〉」を拝す

 大白蓮華10月号の名誉会長講義 「世界を照らす太陽の仏法」 は、第6回 『聖人御難事』 です。副題に “民衆仏法――「人間の宗教」 の時代の開幕” とありました。
 この御書は、大聖人の 「出世の本懐」 が説かれている重要な御書であると位置づけられております。
 「出世の本懐」 とは、仏が “この世に出現した真実究極の目的” のことで、それは、一切衆生を一人も残らず成仏させるという大目的であります。
 宗門は日寛教学に基づき、「弘安2年の御本尊」 の御図顕をもって、日蓮大聖人の 「出世の本懐」 としています。
 創価学会は、昨年11月、会則の教義条項を改正し、“大謗法の地にある 「弘安2年の御本尊」 は受持の対象とはいたしません” と発表しました。
 そして、今年の1月、“教義条項改正に関する解説” が発表され、「出世の本懐」 についての説明がありました。

 上記の件に関する拙ブログ記事 ―→ ここから

 弘安2年(1279年)の10月1日の御著作となる 『聖人御難事』 は、「熱原の法難」 の渦中で認められました。
 「熱原の法難」 とは、富士方面の熱原郷(静岡県富士市)で農民信徒 20人が、直接、権力から無実の罪で捕らえられた法難である。念仏を唱えれば許すとの強要にも屈せず、最後まで題目を唱え続けたという。
 首謀者と目された、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人(熱原の三烈士)は斬首され、残る17人は追放となった。権力の不当な迫害と断固、戦って勝利したのである。

 池田先生は、「熱原の法難」 の意義について、
 この法難こそ、偉大なる使命に生きる民衆が、権力の魔性と対峙した大闘争なのです。
 いわば、「熱原の法難」 とは、大聖人の獅子吼を継承した弟子が、正義の精神闘争によって 「魂の勝利」 を打ち立てた歴史でもあったのです。
 熱原の農民門下が、大難に負けない信仰を示したことこそ、師弟不二の信心に基づく 「死身弘法の実践の模範」 です。これは、後世万代のために、民衆仏法の凱歌を轟かせた大偉業であったといえるでしょう。
と、指導されています。

 民衆仏法とは、法華経の万人成仏に基づき、全ての人々の尊厳性・尊極性・平等性を十全に開花する思想です。その主役を担うのは、人間から離れた超越者ではなく、現実の世界の中で、社会の中で、地域の中で実践を繰り広げる法華経の師弟です。弟子も、師と同じ実践を共有し、目覚めた民衆を一人でも多く誕生させていく。いわば、民衆仏法とは、使命を自覚した民衆自身が主役となり、民衆の勝利を開きゆく 「人間の宗教」 なのです。

 民衆仏法について指導されています。その主役は、現実の世界・社会・地域の中で活動する人間自身である。決して、人間から離れた超越者などではないのである。
 超越者といえば、外道で説く 全知全能唯一絶対神、権大乗教の 阿弥陀や大日如来等の権仏は、人間ではなく架空のものなので、“弟子も、師と同じ実践を共有” する 「師弟の義」 は成り立ちません。
 ゆえに、このように人間を疎外する宗教は、民衆が主役の 「人間の宗教」 には、成り得ないのであります。

 無名の庶民である熱原の農民門下は、正法の信仰のゆえに大難を受け、三世永遠の魂の自由を勝ち取る戦いをしました。法華経の精神である三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、御本仏と共に戦う偉大な民衆が遂に登場したのです。まさに、民衆仏法の基盤が確立しました。ここにこそ、大聖人の出世の本懐の成就があるのです。不軽菩薩を模範とする民衆、深き使命の地涌の菩薩そのものである民衆の出現こそが、日蓮仏法の魂です。
 まさしく、大聖人一門にとって、この熱原の農民に代表される不惜身命の弟子の涌現は、万年に輝きわたる不滅の礎となったのです。
 (2015-10月・大白・38P)

 御本仏と共に戦う偉大な熱原の農民門下の出現こそが、民衆仏法の基盤が確立したことになります。
 “ここにこそ、大聖人の 「出世の本懐」 の成就があるのです” と指導されています。
 では何故、“不惜身命の弟子の涌現” が必須の条件となるのかと言うと、それは、日蓮大聖人は 「本因妙の教主」 で あらせられるからであると思います。
 釈尊は 「本果妙の教主」 で、万人に仏界が具していることを明かした “法華経” を説くことが、釈尊の 「出世の本懐」 となります。
 正法・像法の時代は 「本已有善(本と已に善有り)」 の上根・上機の衆生なるが故に、あとは自身の力で成仏することができた。
 一方、末法の時代は 「本未有善(本と未だ善有らず)」 の下根・下機の衆生なるが故に、自身では成仏することはできません。
 大聖人は、根源の一法たる “南無妙法蓮華経” を顕し、凡夫身のまま、仏になる本因の菩薩道を説き、行じられた。ゆえに、「本因妙の教主」 と申し上げます。
 大聖人は、大慈悲を起こされて竜の口等の大難を忍ばれ、万人成仏の プロセスを、ご自身の体験を通して教え諭してくださいました。したがって、成仏や宿命転換を成すには、難や苦しみは必須の要件なのである。まさに 「難即悟達」 であります。
 したがって、熱原の三烈士の如く “不惜身命の弟子の涌現” があって、はじめて 「令法久住」 が証明され、「民衆仏法」の基盤が確立され、大聖人の 「出世の本懐」 も成就するのであります。
  
 池田先生は、弟子たちに呼び掛けられています。
 さあ、人間勝利の黄金時代へ 本格的な弟子の戦いの本舞台が始まりました。
 一人一人が見事に栄光の創立85周年を勝ち飾り、さらなる一閻浮提広宣流布の拡大に向かって、力強く朗らかに、師弟共戦の凱歌の大行進を開始していきましょう
 と。 (同大白・41P)
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「新・人間革命」第2巻〔先駆の章〕(“なんのため” に)

 第1巻の(はじめに)のところで、“自身が感じたところを、書き留めてみようと思いました” と書きました。しかし、小説 「人間革命」 を読んでいつも感ずることは、大事なところだ と思うところが多々あり過ぎるということである。ゆえに、甲乙付けがたく、どれを選んでよいのか苦慮するのである。
 したがって、その 「巻」 の最初の 〔章〕 から、一つ二つを選んで引用させて頂こうと思いました。

 〔先駆〕
 歴史的偉業というものは、必ず苦難があり、道は険しく、時間がかかるものである。広宣流布という未聞の絵巻も、また同じであるといってよい。
 ともあれ、正法流布とは、人類の幸福という大海原を開いていくものだ。
 そこには、嵐があり、うねりがあり、怒涛もつきまとうにちがいない。
 そこに身を投じて戦うところに、偉大なる人間革命の法理が存在する。
 (同書・7P)

 小説 「人間革命」 には 〔章〕 の冒頭に、上記のような比較的短い文章があります。すべての 〔章〕 に有るものではありませんが、中には韻文的なものもあります。
 この文章は、その 〔章〕 で言わんとする 核心・精髄が説かれていると思います。丁度、「大白蓮華」 に “巻頭言” というものがありますが、それになぞらえれば “章頭言” とでも言い得るものではないかと思いますので、併せてご紹介いたしたいと思いました。

 人間は “意味に生きる動物” である。人は “なんのため” かが明らかにならなければ、本気になって力を注ぎ込むことはできない。それは、広宣流布の活動においても同じである。皆が、なんのための運動か、なぜ、今、それを行うのかを、よく納得、理解するならば、自主的に行動を開始していくものだ。そして、そこから、さまざまな創意工夫も生まれていく。それが、“現場の知恵” である。知恵は知識を動かす力でもある。
 いかなる運動も、絶えず “なんのため” かという根本目的に立ち返ることがなければ、知らず知らずのうちに、手段や方法が独り歩きし、本来の目的から外れてしまうものだ。そうなれば、一時期は華々しい前進を遂げたように見えても、結局は空転し、最期は停滞する。
 また、皆が、意義、目的を心の底から納得していないにもかかわらず、目標の数や方法ばかりが強調されれば、押しつけられているような思いをいだくにちがいない。すると、皆の活動に取り組む姿勢は受け身になる。受け身の行動には歓喜も躍動もなくなる。それでは、いかに高邁(こうまい)な運動も、やがては行き詰まってしまうにちがいない。
 意義、目的の理解と合意ができたならば、目標の設定である。目標は、組織としても、個人としても、より具体的でなければならない。目標があれば、張り合いも出るし、達成できた時の喜びも大きいものだ。
 そのうえで、いかにしてそれを達成するかという、方法の検討が大切になってくる。そして、その達成の道は、座談会の充実にあることを訴えていった。
 (同書・22P)

 広布の活動も、絶えず “なんのため” かという根本目的に立ち返ることがなければ、手段や方法が独り歩きし、本来の目的から外れてしまう と指導されています。
 かつて、折伏や法戦活動の場において、地区・世帯数の何倍までやろう とか言って、目標の数や方法ばかりが強調されるようなことが、まま見受けられました。
 活動の意義、目的を納得するためには、教学の研鑚が必要であると思います。
 大聖人は、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」(1361P) と仰せです。
 教学を学ばなければ、仏法の本義を理解することは出来ないし、自身の正しい人生観・生死観を確立することも出来ない。ゆえに、間違いのない人生を処することも出来なくなってしまう。

 〔民衆の旗〕
 民衆!
 あなたこそ、永遠に社会と歴史の主人公だ。
 いかなる理想も、民衆の心を忘れれば、観念と独断と偽善になろう。正義も、真理も、民衆の幸福のなかにある。
 (同書・266P)

 この 〔民衆の章〕 の冒頭の文章である。 “民衆” を、端的に示されています。民衆の幸福に、正義も、真理も寄与すべきである。すなわち、“人間のために、宗教はある” のである。これを 「創価思想」 というのであります。
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三代会長を語る(上-1)

 月刊誌 『第三文明』 に連載中の 「創価学会とは何か」 という テーマの “佐藤・松岡対談” は、いま 〔三代会長を語る(上)――三代会長が成し遂げたこと〕 という項目のところである。   (第三文明・2015-10月・52P)

 囲碁について “岡目八目” という俚諺(りげん)がある。これは、当事者よりも第三者の方が、かえって物事の本質・是非が分かりやすいという譬えである。
 佐藤氏は、同志社大学院神学研究科を修了した、筋金入りの プロテスタントの キリスト教徒である。外務省国際情報局で主任分析官として、対ロシア外交を担う。鈴木宗男事件に連座し失職。現在、作家・評論家として活躍している。
 松岡氏は、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士。大石寺で得度し僧侶となる。その後離脱し、青年僧侶改革同盟を結成。現在、東日本国際大学教授、同大学東洋思想研究所所長である。
 上記のような異色のお二人が、三代会長をどのように評するのか、興味深く感ずるものである。

 まずはじめに、〔「師弟」 のなかにこそ、生きた信仰が流れ通う〕 という項目があります。そのなかで、
 松岡  ……生きた仏法というものは、生きている師のなかに超越性――すなわち仏を見て、自らも仏を目指すという 「師弟不二」 の信仰に立ちます。つまり、三代会長を単に 「指導者」 としてのみとらえてしまうと、大切な何かがこぼれ落ちてしまう気がします。
 ………
 松岡 幹夫  信仰において、ただ単に法や教義を学べばよいというのは抽象論であって、真の信仰は生身(なまみ)の人間のなかにこそ躍動しているものです。それを師の姿を通じてつかみとることが、法華経における信仰のありようだと私は思うんです。

 佐藤 勝  ……「創価学会には、真実の宗教性がある。この宗教性は、池田大作創価学会名誉会長という一人の人間の人格に体現されている」 と、……創価学会の信仰と池田会長という人格は分かち難く結びついていて、分離して論ずることはできません。池田会長、ひいては三代会長を理解せずに、創価学会を理解することは不可能なんです。
 
 つぎの 〔三代会長は仏教の実現者〕 の項目には、 
 松岡  まず、「仏教史のなかに三代会長をどう位置づけるべきか?」 を考えてみます。
 釈尊が説いた仏教の確信は、「すべての物事は互に関わり合い、支え合って存在している」 とする 「縁起の理法」 です。それを大乗仏教では 「空」 という形で理論化し、竜樹などがさらに精緻化した 「中論」 を説いた。そしてそれが、天台に至って、「一念三千」 という存在論として結実します。その 「一念三千」 の理論を、「三大秘法」(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)からなる 「救済のシステム」 として大成したのが日蓮でした。

 ………
 松岡  そして、日蓮が作り上げた三大秘法という 「救済のシステム」 を、広く日本中、世界中に流布していったのが、三代会長であり創価学会でした。釈尊は仏教の創始者、日蓮は完成者、三代会長は実現者であると言えましょうか。三代会長は、釈尊から日蓮に至る仏教史の、いわば 「総仕上げ」 の役割を担ったのです。

 松岡氏は、釈尊は仏教の “創始者”、大聖人は三大秘法という 「救済のシステム」 の “完成者”、三代会長はそれを広く世界中に流布していった “実現者” であり、仏教史の いわば 「総仕上げ」 の役割を担った と述べられています。

 佐藤  「総仕上げ」 を担ったのが出家者でないという点が興味深いですね。

 松岡  もちろん、日蓮宗や日蓮正宗といった僧侶集団がずっといたわけですが、彼らは七〇〇年の歴史のなかで日蓮の教えを形骸化させました。時の権力に迎合したり、聖職者とは呼べないほど世俗化したりして、三大秘法が 「救済のシステム」 として機能しなくなっていた。その システムを現代において再生させ、実際に民衆救済のために広く用いていったのが、三代会長でした。私が 「仏教史の総仕上げの役割を担っていた」 というのは、そういう実現者の意味です。

 佐藤  よくわかります。私も 『地球時代の哲学』 のなかで、「池田氏の出現によって、日本と世界の仏教の歴史は質的に変化したのである」 と書きました。その 「質的な変化」 を別な言葉で言い換えるなら、松岡さんが言われるように、「形骸化してしまっていた日蓮仏法の救済 システムを、現代に再生させた」 ということになると思います。
 そして、三代会長による 「仏教史の総仕上げ」 とは、「日蓮仏法の世界宗教化」 とも言えます。私は 『地球時代の哲学』 で、「池田氏は、『西洋の危機も東洋の苦境もともに救いきれる宗教、現在から未来にかけての一切の問題に、人類が一体となって取り組むのに役立つ宗教』 を創価学会の ドクトリンに体現した」 とも書きました。日本に生まれた宗教である日蓮仏法を、世界中どこでも通用する形に普遍化していったのが池田会長だと思います。
 もちろん、世界宗教的な側面は日蓮仏法そのもののなかにもあったし、牧口会長、戸田会長も、世界宗教化を視野に入れていたでしょう。しかし、それが具体的に実現されていったのは池田会長時代です。池田会長はたとえば、「人権」 とか 「自由」 などという ヨーロッパ由来の概念を、日蓮仏法の観点からとらえ直し、普遍化していったのです。
 (ドクトリン……教義)

 佐藤氏は、“「仏教史の総仕上げ」 とは、「日蓮仏法の世界宗教化」 とも言えます” と。
 日本に生まれた日蓮仏法を、世界中どこでも通用する形に、“言い換えれば、池田先生が仏法的観点から光を当てることによって、「人権」 や 「自由」 といった価値は普遍性を獲得したのです” と述べられています。

 佐藤  そして、三代会長による 「仏教史の総仕上げ」 が、「此岸(この世)性」 の追求のなかで成し遂げられてきたことは、大きな意義があると私は思います。
 創価学会/SGI は、「彼岸(あの世)性」 よりも 「此岸性」 を重んじる教団です。現実のなかでわれわれが直面するさまざまな苦難――病気や経済苦、家庭不和など――に対して、具体的な解決を与える。……
 現世において御利益がないような宗教は、来世のことに関わる “入場券” すら持っていないのです(笑)。悩み苦しんでいる人々を具体的に救うことを何よりも重視し、「此岸性」 を追及してきた点でも、三代会長は 「仏教史の総仕上げ」 を担ったと評価するにふさわしいと思います。

  
 彼岸の本来の意味は、生死・煩悩の迷いの世界を 「此岸」 とし、解脱・成仏の悟りの境涯を 「彼岸」 という。この此岸から彼岸に到ることを 「到彼岸」 といい、そのためには仏道修行が必要とされる。
 浄土宗では、西方極楽浄土を彼岸とし、死んで彼岸にゆくことを願うのである(欣求浄土)。
 このような浄土思想によって、一般世間では、死んだら成仏するという 間違った考えが広まり、彼岸を “あの世” のことと、間違った認識をしてしまった。この悪思想こそが、社会を害する根源の一凶である。
 日蓮仏法では、現実のこの世界、この身のままで、即身成仏(到彼岸)することができるのであります。 
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三代会長を語る(上-2)

 前の ブログの続きで、〔三代会長の哲学の根底にある 「因果俱時」〕 の項目には、
 松岡  「創価学会は現世で解決を与えられる宗教である」 と……仏教はもともと、因果――原因と結果の関係性をとことん追求してきた宗教でした。
 ………
 松岡  牧口初代会長は、その点に仏教の魅力を感じたようです。原因と結果の探求によって人を苦しみから救おうとする点に、科学の研究にも通ずる合理性を見いだしたのです。しかも、科学は現世だけの原因・結果を追求しているのに対し、仏教は過去世と来世までも視野に入れて原因・結果を追求している。したがって、仏教は最も包括的な因果論であり、仏教の視座に立ってこそ科学などの因果論も正しく活かすことができる、というのが牧口会長の結論でした。  
 ……来世の救いを待たずとも、現世で苦しみを解決できる。「此岸性」 を創価学会が重んじている背景には、この 「因果俱時」 の教理があるのです。
  (第三文明・2015-10月・56P)

 「因果俱時」 とは、原因と結果が同時に生ずるということです。我われの生活感覚からいえば 「因があって果がある」 という、その上に、過去になした業因は変えることができないと思っています。
 このような見方に対して、佐藤氏が大学受講の時の挿話(そうわ)についてお話をしています。 

 佐藤  私は同志社大学で 「阿毘達磨」(仏教の注釈書)の講義を受けた時、そのなかに出てくる一つの挿話に強い印象を受けました。それは、“ある船が嵐で難破した際、一人だけ死なずに助かった。なぜ助かったかといえば、将来、悟りを開いて仏となる人だったからだ” という話です。つまり、未来において仏になるという 「結果」 が、現在において命を救われる 「原因」 となっているわけで、因果の時系列が逆転しているのです。それを教えてくれた教授は、「仏教における因果というものを、単純に時系列で考えてはいけないということだ」 と解釈してくれました。

 松岡  そうですね。因果俱時は、「因果は一体であり、時間を超越している」 ということでもあります。だから、因果の時系列が逆転していても矛盾ではないのです。そのような因果俱時の教理が、三代会長の哲学の根底にある。だからこそ、世界を単純に時系列でみることに慣れた世間の人からは、時に理解しにくい面もあるわけです。

 “因果一体であり” とは、「仏因」 自体が 「仏果」 であるということです。すなわち、南無妙法蓮華経が 「因」 でもあり、「果」 でもあるということになります。ここにおいては、因と果の間に時間の経過は有りませんので “時間を超越している” といっている訳です。
 御書に、「此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり」(808P) と仰せです。
 したがって、「因果俱時不思議の一法」 の “南無妙法蓮華経” を唱え奉れば、過去世の業因さえも変えられ 「人間革命」 することができるのである。

 〔牧口会長の獄中闘争を支えた信念〕 という項目には、
 佐藤氏は、牧口初代会長の 「尋問(じんもん)調書」(不敬罪および治安維持法違反の容疑で逮捕され、獄中にあった時の特高警察による調書)をあらためて読み直したと言われています。

 佐藤  牧口会長について……獄中でも動じなかったその強さは、現世だけでなく過去世・来世までも見据える賢者であったがゆえなのだと、今回の対談であらためて感じました。
 たとえば 「尋問調書」 には、「憲法は現世に於ける処の日本国を統治する法でありまして……政体が変わって将来憲法も改正されたり廃止される様な事があるかも知れません。憲法は大法の垂迹であります。然るに法華経の法は宇宙根本の大法でありまして過去・現在・未来の三世を通じて絶対不変・万古不易の大法であります」 という一節があります。


 松岡  「国家を相対化する視点」 が見て取れますね。

 佐藤  ええ。“憲法は現世だけの、一国・一時代だけのものだが、自分はそれよりもはるかに包括的な、三世を貫く宇宙の不変の真理に従って生きているのだ” と、特高に向かって堂々と宣言しているわけです。すごいことだと思います。

 松岡  「憲法は大法の垂迹」 という言葉は、憲法を軽んじていたわけではなく、法華経の真理を根底に据えることによって憲法を活かしていけるという意味だと思います。

 佐藤  そうですね。安保法制をめぐる憲法論議のなかでも、公明党議員の皆さんには、ぜひ牧口初代会長のこの姿勢を範として頑張ってほしいと思います。

 戦時中の過酷な獄中にあって、牧口先生は “憲法は大法の垂迹であります” と自らの信念を堂々と披歴し、その信仰に殉じたお姿は学ぶべきであります。牧口先生は “現世だけでなく過去世・来世までも見据える賢者であった” と佐藤氏は語られています。
 政治や憲法という相対的な移ろい易きものに心を奪われることなく、絶対的な日蓮仏法の 「宇宙根源の一法」 を信じ奉り、それを生活の規範として行かねばならないと思います。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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