三代会長を語る(中)

 三代会長を語る(中)には、〔三代会長と創価思想の広がり〕 という サブ・タイトルが付いています。  (第三文明・2015-11月・52P) 

 そして、〔池田会長は 「創価思想の完成者」〕 という項目には、 
 松岡  創価学会の三代会長――牧口常三郎初代会長・戸田城聖第二代会長・池田大作第三代会長――は、それぞれの時代に応じた役割を担ってこられました。その役割を 「時代への応答」 とlとらえるなら、牧口会長は戦時下の忍耐の時代に 「罰論」 として、戸田会長は戦後の復興期に 「利益論」 として、池田会長は成熟社会の時代に 「生き方論」 として、創価思想を展開したと見ることができます。
 ………
 松岡  そして、三者とも基本線としては、創価思想を 「生き方論」 として展開したといえるでしょう。その意味で、池田会長は 「創価思想の完成者」 と見ることができます。

 牧口先生は、“美・利・善” という価値論を用いて折伏されました。御本尊を信ぜずして、「罰」 という反価値の現象に苦しまぬよう警鐘を鳴らしました。
 戸田先生は、戦後、広く庶民が塗炭の苦しみに喘ぐ中、その一切の苦しみ等の克服の道が、仏法にあると訴え、御本尊の 「功徳」 をもって折伏されました。
 池田先生は、成熟社会の時代には、自分自身をつくる、つまり、人間革命することを 「生き方論」 として、広く社会に、世界に展開されました。つまり、永遠の生命を説き明かした仏法の生死観が、クローズアップされる時代が来ているのだと。
 そして、SGI が世界に広がったという事実が、池田会長は 「創価思想の完成者」 と言えるのであります。

 佐藤  池田会長の人物としての スケールは、「一国のリーダー」 などという レベルの話ではないですからね。私は自著 『地球時代の哲学』(潮出版社)のなかで、「池田氏は悟りを得たという点では仏であるが、すべての衆生を救うためにわれわれの世界にとどまっている菩薩なのである」 と書きました。つまり、一国の リーダーたちがむしろ教えを乞うべき相手だと思うのです。 

 その他に、佐藤氏は、“「池田会長は創価思想の完成者である」 という視点を、はっきりと前面に打ち出すことではないでしょうか”
 “「個人崇拝と見られるんじゃないか」 などと気にすることなく、堂々と池田会長の重要性を打ち出すべきだと思います”
 “「池田教」 などという言葉で学会を揶揄(やゆ)する輩は、もう相手にすべき段階ではないでしょう”
 等々と。
 上記のように、創価学会の正義を、堂々と宣言すべきであると語られています。

 〔「存在論的平和主義」 の基本に立ち返れ〕 という項目に、
 「三代会長論」 という テーマから少し外れますが、この 「存在論的平和主義」 という言葉は、あまり聞いたことがありませんので、どのようなものか、聞いてみたいと思います。

 佐藤  私は、「公明党は安保法制に反対して連立政権を離脱すべきだ」 という意見は的外れだと感じています。「今いる立場で平和のために闘う」 というのが、松岡さんが名付けられた創価学会の 「存在論的平和主義」 のありようだと思うので。

 松岡  そうですね。「存在論的平和主義」 とは何かを一言で説明するなら、「『平和を叫ぶよりも、平和を生きる人が増えていくこと』 を重視する平和主義」 ということになるかと思います。「平和を叫べば平和がやってくる」 と考えるような、理想論的平和主義とは似て非なるものなのです。

 佐藤  「公明党は自民党に対する ブレーキにならず、むしろ アクセルになっているのではないか」 との意見もありますが、私は今でも十分 ブレーキになっていると思います。……
 
 松岡  日蓮仏法の平和に対する考え方は、「ダメなものでもよく変えていく」 「悪をもよく味方につけていく」 ということが基本だと思うんです。日蓮の御書にも、「法華第三に云く 『魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る』」(1242P) との一節があります。「十界互具」 である以上、善と悪は不可分ですから、相手が今は悪人であろうと、魔の働きであろうと、仏法を護り、平和を守る働きに少しずつ変えていこうとする――その姿勢が 「存在論的平和主義」 です。マックス・ウエーバーが 『職業としての政治』 で言う 「責任倫理」(「心情倫理」の対義語)を果たすべく、公明党は政権のなかで、あの手この手で闘っていくしかないと思います。

 佐藤  そうですね。公明党の頑張りで 「新三要件」 などの歯止めはかかっていますし、近未来において自衛隊が出動するような事態は、まず考えられません。安保法制の問題は、反対派が言うほど重大な問題ではないと私は思います。この程度のことで公明党・創価学会から離れていく人は、それだけの人ですよ。むしろ今は、「本当の味方かどうか?」 を見極めるいい機会と言えるかもしれません。

 佐藤氏は、“この程度のことで公明党・創価学会から離れていく人は、それだけの人ですよ” と言われています。
 安保法制のこともそうですが、「学会会則の教義条項改正」 についても、会則が改正されたと言っても、我々の家庭の御本尊が変わるわけでもなく、実際の信心修行上において、何一つ変わったものは無いのである。
 それを、日顕宗の者が、「変えた、変わった」 と言いがかりを付けてきたものを真に受けて、学会から離れていく人は、佐藤氏の言われるように、ただ “それだけの人ですよ” になります。
 そのようにならない為にも、「師弟の道」 を説いている 『人間革命』 『新・人間革命』 を、シッカリと研鑚しましょう。
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「新・人間革命」第3巻〔仏法西還の章〕(東洋広布インドへ)

 〔仏法西還〕
 「時」 は来た!
 待ちに待った、悠久の歴史の夜は明け、遂に船出の太陽は昇った。
 帆を上げよう。好機は一瞬にして過ぎ去り、再び帰ることはない。

  元朝に
     祈るアジアの
         広布かな


 会長 山本伸一のアジアへの旅立ちとなる、一九六一年(昭和三十六年) 「躍進の年」 の元旦、彼は自宅でこう認め、妻の峯子に贈った。

 
 池田先生は、大聖人の御遺命である 「仏法西還」 への “「時」 は来た!” と決意をなされました。
 正法・像法時代、釈尊の仏法がインドから東方の日本へと伝わったのを 「仏法東漸(とうぜん)」 と言うのに対し、「仏法西還(せいかん)」と言うのは末法では、日蓮大聖人の仏法が日本から西方のインドへと還り、全世界に広宣流布しゆくことをいう。
 前年(昭和35年)10月の世界広布開拓のための アメリカ指導に旅立たれてから、席の暖まる暇もなく、「躍進の年」 の元旦の新年勤行会に出席なされ、新年のあいさつをされました。

 「ただいま、皆様とともに、勤行いたしました御本尊様は、昭和二十六年(一九五一年)五月三日に戸田城聖先生が会長に就任され、人類の救済への決意をもって立ち上がられて間もなく、日昇上人より授与された、創価学会常住の御本尊様であります。
 この御本尊の脇書には、『大法弘通慈折広宣流布大願成就』とお認(したた)めでございますが、ここに学会の使命は明白であります。
 私どもの目的は、どこまでも、人類の平和と幸福のために、広宣流布を実現していくことです。事実、この七百年の間に、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布を現実に成し遂げてきたのは、創価学会だけであります。
 その使命を果たしゆくには、まず皆様方ご自身が、物心ともに幸せになりきっていくとともに、友の幸福を願う、強き慈愛の心をもたねばなりません。人々の幸福を祈り、願う心こそ、学会の精神であります。
 戸田先生は 『一家和楽の信心』 『各人が幸福をつかむ信心』 『難を乗り越える信心』 の三つを、学会の永遠の三指針として示されましたが、そこに広宣流布の道があります。
 どうか幹部の皆さんは、この指針を深く胸に刻んで、全同志の幸福のために献身しゆく一年であっていただきたいと思います」
 それから、代表の人が、戸田城聖の和歌を朗詠した。


  雲の井に 月こそ見んと 願いてし
     アジアの民に 日(ひかり)をぞ送らん


 この和歌を聞くと、伸一の心は躍(おど)った。それは、一九五六年(昭和三十一年)の年頭に、戸田が詠(よ)んだ懐かしい和歌であった。
 ――雲の切れ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遥(はる)かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
 ここでいう 「月」 とは釈尊の仏法であり、「日(ひかり)」 とは日蓮大聖人の仏法をさすことはいうまでもない。戸田は、「諫暁八幡抄」 などに示された、大聖人の 「仏法西還」 の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
 そして、今、伸一は、その実現のために、この一月には、インドをはじめとする アジアの地に、東洋広布の第一歩を印(しる)そうとしていたのである。


 創価学会の使命と目的は、“どこまでも、人類の平和と幸福のために、広宣流布を実現していくことです” と述べられています。
 それを実現するためには、学会員の皆様方ご自身が、“物心ともに幸せになりきっていく” という実証を示していく必要があります。
 それゆえに戸田先生は、各人の信仰の指針となるものを 「学会の永遠の三指針」 として示してくださいました。
 その後、2003年12月、池田先生は、新たに2項目の指針を示されました。したがって、

  「学会永遠の五指針」 は、以下のようになります。
 
  1) 「一家和楽の信心」
  2) 「各人が幸福をつかむ信心」
  3) 「難を乗り越える信心」
  4) 「健康長寿の信心」
  5) 「絶対勝利の信心」

 創価学会が、これほどまでに大発展をしてきたその理由の一つとして、ウィルソン博士(オックスフォード大学名誉教授)は、「学会が人間の幸福を第一義とする」 点を挙げておられます。
 「各人の幸福」 は、全部、広宣流布に連動しているのである。ゆえに、“そこに広宣流布の道があります” と指導されています。
 この五指針を深く胸に刻んで、広宣流布の戦いに邁進していきたいと思います。
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池田先生の「生命の話」

 池田先生の 「東洋広布」 の第一歩は、香港の地に印(しる)されました。早速その夜、少人数の座談会が開かれた。
 入信して間もない一人の婦人から “生命が永遠であると聞きましたが、人は死んだあと、どうなるでしょうか。また勤行の時に、先祖供養をしますが、それはどんな意味があるのでしょうか” という質問がありました。
 先生は、生死という人生の根本のテーマを、明確に解かりやすく説明されています。全ての人に関係する問題ですので、是非ともご紹介したいと思いました。  (同書・62P) 

 「これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。……
 現代人のなかには、生命というものは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。
 日本の国に生まれる人もいれば、香港に生まれる人も、アメリカに生まれる人もいる。あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。
 さらに、金持の家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生まれてくる子供もいます。生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。
 また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨(うら)み、無気力にならざるをえません。あるいは、何をしょうが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥(おちい)ってしまうことになる。
 この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるをえません」

 ………
 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿命の転換の道を示しているのが仏法なんです。
 では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると、説いているのか――。
 自分以外のものによってつくられたものではなく、過去世において、自分自身がつくり出したものだというんです。少し難しくなりますが、身・口・意の三業の積み重ねが、宿業となるのです。つまり、どのような行動をし、何を言い、何を思い、考えてきたかです。
 たとえば、人を騙(だま)し、不幸にしてきたり、命を奪うといったことが、悪業をつくる原因になります。さらに最大の悪業の因は、誤った宗教に惑(まど)わされて、正法を誹謗(ひぼう)することです。これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。

 さて、人間は、死ねばどうなるのかという問題ですが、生命は大宇宙にとけ込みます。
 戸田先生は、その状態を、夜になって眠るようなものであると言われている。さらに、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。これが来世にあたります。生命は、それを繰り返していくのです。
 ここで大事なことは、死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。たとえば、一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。
 今世で、七転八倒の苦しみのなかで死ねば、来世も同じ苦を背負って生まれてきます。人を恨み抜いて、怨念(おんねん)のなかで死を迎えるならば、来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。死んでも、宿命から逃れることはできない。ゆえに、自殺をしても、苦悩から解放されることはないんです。
 反対に、幸福境涯を確立し、喜びのなかに人生の幕を閉じれば、来世も、善処に生まれ、人生の幸福の軌道に入ることができます。

 こう言うと、なかには、来世も宿業で苦しむなら、生まれてこないで、ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、そうはいきません。生まれる前の、大宇宙にとけ込んだ状態であっても、生命は苦しみを感じているんです。ちょうど、大変な苦悩をかかえている時には、寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 ………
 現代の思想や哲学は、今世のみに目を奪(うば)われている。それは、地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。ゆえに、人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。
 ………

 「それでは、その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。
 あります。それを、末法の私たちのために説いてくださったのが日蓮大聖人です。そして、その方法こそ御本尊への唱題であり、折伏です。それが、生命の法則に則(のっと)った最高の善の生き方であり、歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する唯一の道なんです。

 こう申し上げると、初代会長の牧口先生は、牢獄で亡くなったではないか。不幸ではないかと言う人がいます。
 しかし、一番大切なことは、死を迎えた時の心であり、境涯です。苦悩と不安と恐怖に怯(おび)えて息を引き取ったのか、獄中であっても、安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。牧口先生は獄中からの便りに、経文通りに生き抜いた大歓喜を記(しる)されている。
 また、学会員でも、病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、思う人もいるでしょう。その場合でも、信心を全うし抜いた人は転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)であることが、仏法には明確に説かれております。
 つまり、本来、何度も生死を繰り返し、長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているんです。その証明の一つが臨終の相です。
 大聖人は御書のなかで、経文のうえから、体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。戸田先生も、微笑むような成仏の相で亡くなりました。私は数多くの同志の臨終を見てきました。

 ともあれ、広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない。経文にも、千の仏が手を差し伸べ、抱きかかえてくれると説かれている。臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なんです。まさに、生きている時は、『生の仏』 であり、死んだあとも 『死の仏』 です。さらに、その証明として、残された家族が、必ず幸福になっています。
 だから、信心をし、難に遭い、いかに苦労の連続であったとしても、退転してはならない。難に遭うことは宿業を転ずる チャンスなんです。永遠の生命から見れば、今世の苦しみは一瞬にすぎない。未来の永遠の幸福が開けているんです」


 日蓮大聖人は 「されば先(まず)臨終の事を習うて後に他事(たじ)を習うべし」(1404P) と述べられている。
 「死とは何か」 の正しい究明がなければ、人間として 「なんのために死ぬか」 「いかに死ぬか」 を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」 という答えも導き出すことはできない。生と死とは、本来、表裏の関係にほかならないからである。
 現代人は、葬儀の形式などには、強い関心をもち始めているが、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している、根本的な要因が潜んでいるといえよう。


 引き続いて、先祖供養についてお話をされました。

 「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、どうしているかというと、既に生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、まだ、生まれてていない場合もあるでしょう。
 あるいは、生まれていても、人間に生まれているとは限りません。宿業のいかんによっては、畜生、つまり動物に生まれることもある。これは、経文に明確です。むしろ、人間に生まれることの方が、はるかに難しい。 
 しかし、先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。
 ましてや、畜生などに生まれれば、自分では題目を唱えることはできないわけですから、私たちの唱題だけが頼みの綱になります。また、先祖が人間として生まれてきている場合には、私たちの贈る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、仏法に縁(えん)し、信心をするようになるんです。したがって、先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません。お金を出して、塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。もし、そうだとするなら、金の力で成仏できることになってしまう。
 一方、信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる。
 そして、先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、先ほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります」


 人間は、過去世も未来世も見ることはできない。しかし、三世にわたる生命の因果の理法を知る時、いかに生きるかという、現在世の確かなる軌道が開かれる。そして、それが未来世を決定づけてゆく。
 ………

 「私たちは今、人間として生まれてきた。しかも、大宇宙の根本法を知り、学会員として、広宣流布のために働くことができる。これは、大変なことです。
 たとえば、森に足を踏み入れると、その足の下には、数万から数十万の、ダニなどの小さな生物がいるといわれています。さらに、細菌まで含め、全地球上の生命の数を合わせれば、気の遠くなるような数字になります。
 そのなかで、人間として生まれ、信心することができた。それは、何回も宝くじの一等があたることより、はるかに難しいはずです。まさに、大福運、大使命のゆえに、幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。
 ところが、宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、人間として生まれて信心ができた素晴らしさがなかなかわからないで、退転していく人もいます。残念極まりないことです。私たちにとっては、この生涯が、一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。どうか、この最高の機会を、決して無駄にしないでいただきたい。
 永遠の生命といっても、いっさいは 『今』 にあります。過去も未来も 『今』 に収まっている。ゆえに、この一瞬を、今日一日を、この生涯を、感謝と歓喜をもって、広宣流布のために、力の限り生き抜いていってください」


 現代人は、葬儀や先祖供養などには関心をもっているが、その本当の意味はあまり知られていない。
 「供養」 とは、仏法僧の三宝、父母、師長、死者などに真心や諸物を捧げて、報恩感謝申し上げることで、また、回向するとも言う。
 「回向」 とは、回転趣向(えてんしゅこう)ということで、自らが仏道修行して得たところの功徳を、回し転じて、衆生に向けて施すことを言う。日本では、冥福を祈るという意味に使われることが多い。
 ゆえに、供養する、回向する と言っても、正法 すなわち、宇宙の根本法である “南無妙法蓮華経” を信じ持って、即身成仏を願い、唱題していかなければならないのです。
 大聖人は、「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し・いわうや他人をや」(1429P) と仰せです。
 ゆえに、自らが仏道修行して得たところの功徳が肝心要なことであって、自身は何もせず、他人(僧侶など)に祈って貰っても無意味なのである。況やその僧らが、邪法の堕落僧であっては尚更である。
 以上のことをよくお考えくださって、常に正しい法で、正しい三宝に南無し、先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養をいたしましょう。
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「聖人御難事〈下〉」を拝す

 前号に引き続き、池田先生の講義は 『聖人御難事』 であります。副題に “師子王の心――「一人立つ」 心に創立の精神” であります。
 前回の10月号は、本抄の前半部分を拝し、熱原の農民門下の不惜身命の戦いによって、「民衆仏法」 の基盤が確立されました。これこそが、大聖人の 「出世の本懐」 の成就になるのです。
 今回の後半部分は、難に打ち勝つための 「師子王の心」 について教えられています。 

 「皆が 『師子王の心』 を持つ」 という項目には、
 その上で大聖人は、「各各師子王の心を取り出して」(1190P) と仰せです。……
 これこそが、日蓮仏法の精髄です。「各各」 とあるように、一人一人、誰人の胸中にも、本来、「師子王の心」 が必ずある。それを 「取り出す」 源泉こそ、師弟不二の信心なのです。
 広宣流布のために、恐れなく道を開いてきた師匠の心が 「師子王の心」 です。その心と不二になれば、わが生命に 「師子王の心」 が涌現しないわけがない。
 ………
 戸田先生は、「蓮祖の御遺命である広宣流布に勇猛に戦い続けた人が、菩薩であり、仏である」 と、よく言われました。
 「師子王の心」 とは、「不退の心」 です。「負けじ魂」 「学会魂」 であるといってもよい。難と戦えば仏になれる。そのために 「師子王の心」 を取り出すのです。信心とは、絶えず前進し続ける 「勇気」 の異名なのです。
  (大白・11月・32P)

 “誰人の胸中にも、本来、「師子王の心」 が必ずある” と指導されています。自分にはそのような力は無いんだと、自身を卑下することは全くありません。
 信心とは、勇気の異名です。先ずお題目をあげれば勇気が出ます。そして、周りの一人の人に、新聞啓蒙でも折伏でもよい、何か一言でも声をかけるのです。それが、もう既に 「師子王の心」 を取り出しているんです。
 先生は、「一ミリでも、一歩でも、進んだ人が勝利者です」 と。「信心の世界は、どこまでも真面目に信心を貫いた人こそが、最後は必ず栄冠を勝ち取るのです」 と指導されています。 

 「御本尊は 『法華弘通のはた(旌)じるし』」 という項目で、
 戦後の学会再建の中で、恩師は叫ばれました。「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚しました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」 と。
 この広宣流布への自覚が学会の中心思想となって会内に広がり、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」 「創価学会常住」 の御本尊を奉戴(ほうたい)し、戸田先生は 「発迹顕本せる学会」 となったと語られています。
 御本尊は 「法華弘通のはた(旌)じるし」(1243P) です。大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布を遂行し、民衆を幸福にしていくための御本尊です。しかし、700年余りの間、その根本の大願を真に実現しゆく弟子は現われませんでした。
 20世紀になって、初めて牧口先生・戸田先生が日蓮大聖人の御遺命のままに、地涌の菩薩の自覚に立って、広く庶民に慈悲の折伏を展開し、広宣流布の大進軍が開始されたのです。そして、192ヵ国・地域へと妙法は広まり、今、大聖人の仏法の功徳は、世界の隅々にまで流れ通っています。
 私たちは、日々、広宣流布を請願して行動しています。宗祖の一閻浮提への大法弘通、すなわち世界広宣流布を大願成就する団体は、事実のうえで創価学会しか存在しないのです。
  (同誌・40P)

 熱原の農民信徒の不自惜身命の殉教から “700年余りの間、その根本の大願を真に実現しゆく弟子は現われませんでした” と述べられています。
 その間、出家者・個人では、何人かは居られたようであるが、在家の身では、熱原の三烈士以来、約700年間、殉教者は牧口先生が、はじめてであった。
 このことは、末法の 「民衆仏法」 の広布実現への主体者は、出家者ではなく、在家の地涌の菩薩が担うということ物語っている。
 『本尊抄』 に、「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責(かいしゃく)し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(254P) と仰せです。まさに、 賢王とは在家者である。

 事実、戦時中、軍部政権から神札を祀らないといって弾圧を受け、日蓮仏法は滅亡の危機に瀕(ひん)した。この一大事に、出家者の宗門は弾圧に屈し、本山に神札を祀るという謗法を犯し、法主は焼死するという仏罰を受けたのである。
 一方、在家教団の創価学会は、神札を断固拒否したがゆえに、牧口・戸田両先生は逮捕・入獄され、牧口先生は獄中にて殉教なされました。
 戸田先生は大難に耐え、“獄中の悟達” という大功徳を得られ、危機に瀕した日蓮仏法を見事に再建なされました。そして、広宣流布の師匠である 戸田・池田両先生のご指導により、今や世界192ヵ国までに広布拡大を成し遂げることができました。

 以上の事実が示すように、出家は世情にうとく、世間知らずの僧らには、世界の広宣流布を実現させるだけの力はないのである。
 したがって、今回の 「御祈念文」 の制定におきましても、現時代の在家の広宣流布の永遠の師匠である 「三代会長への報恩感謝」 へと改定されたことは、時宜に適ったものであると思います。
 池田先生は “宗祖の一閻浮提への大法弘通、すなわち世界広宣流布を大願成就する団体は、事実のうえで創価学会しか存在しないのです” と。
 創価学会だけにしか、日蓮大聖人の御精神を体して実践している教団は無いのだ、と肝に銘じていきましょう。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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