三代会長を語る(下)

 三代会長を語る(下)には、〔世界宗教への飛翔と三代会長〕 という サブ・タイトルが付いています。  (第三文明・2015-12月・56P)
 松岡氏は対談のなかで、戸田先生は戦時中、逮捕された獄中において、「われわれは、法華経に説かれた地涌の菩薩である」 という自覚に達しました、と述べられています。
 
 〔創価学会は 「国家の枠」 を初めから超えていた〕 という項目には、
 松岡  「地涌の菩薩」 とは、混迷を極める末法の世に、大地から湧き出てくるように世界中に無数に現れ、人々を仏にするために闘う菩薩です。世界中に現れるということは、すでに国家の枠を超えていて、「仏教的コスモポリタニズム」 の萌芽(ほうが)が見られるわけです。そのような戸田会長の自覚が戦後創価学会の出発点であるからこそ、世界の SGIメンバーは、「自分はアメリ人である」 「日本人である」 などという アイデンティティーよりも先に、「自分は地涌の菩薩である」 という共通の アイデンティティーを持っています。 

 戸田先生の 「獄中の悟達」 が、創価学会の原点であり出発点である。ゆえに、会内各員は 「自分は地涌の菩薩である」 という共通の アイデンティティーを持つことができたのである。
 この創価思想は、国家の枠を超えて、宗教的な コスモポリタニズム(全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義)を形成していくのである。そして、日蓮仏法は 「世界宗教」 として、今や、世界 192ヵ国にまで拡大し、“世界広布新時代” を将来しているのであります。
 さらに松岡氏は、「SGI のなかに実現した 『宗教的コスモポリタニズム』 は、戦争に対する現実的な抑止力として機能している」 と述べられています。

 〔「仏」 を初めて肯定形でとらえた戸田会長〕 という項目で、
 松岡  世界に通用する普遍的宗教としての スタイル、また、多種多様な SGI メンバーがそれぞれの立場から少しずつ世界を変えていくというありようが、どこから生まれたのか? そのことをあらためて考えてみると、やはり戸田第二代会長の 「仏とは生命なり」 という 「獄中の悟達」 が、決定的な重要性を持っていたと思います。というのも、戸田会長以前には、仏という存在は否定形でしか語られてこなかったわけです。
 たとえば 「無量義経」(法華経の開経) には、「其身非有亦非無(その身はあるものでもなければないのでもない)」、「非方非円非短長」(四角くも丸くもなく、短くも長くもない) などと、謎かけのような 「三十四の非」 によって仏という存在が表現されています。戸田会長は獄中でこの 「三十四の非」 について思索し抜き、最後に 「仏とは生命なり」 という結論に達したわけです。


 佐藤  否定形でしか語られてこなかった 「仏」 という存在を、戸田会長が初めて肯定形で語ったわけですね。

 松岡  ええ、仏教の長い歴史のなかでも画期的な出来事だったと思います。そのとき初めて 「仏教の存在論」 が成り立ち、「存在論的平和主義」 の核ができたのです。

 佐藤  なるほど、その点に戸田会長の 「生命論」 の真価があったわけですね。牧口初代会長の 「価値論」 と戸田二代会長の 「生命論」 には当然連続性もあるわけですが、一方では断続性もある。その断続性――言い換えれば戸田生命論の何が画期的であったのかが、今のお話でよくまかりました。

 松岡  三代会長の思想の 「連続性」 ないし共通性は、合理主義的思考にあると思います。牧口会長は入信するときに、“日蓮仏法は現代の科学に照らしても何の矛盾もない” と、その合理性に感銘して入信を決意しています。
 ………
 松岡  戸田第二代会長も、数学者でもありましたし、その合理主義的思考を受け継いでいます。もちろん、池田第三代会長にも受け継がれています。創価学会は一貫して、理性を重んじる仏教団体であり続けてきたわけです。しかし、宗教団体である以上、理性だけでは成り立たないわけで、どこかで理性を超えた究極の立場を会得しないといけません。それが成し遂げられたのが、戸田会長の 「獄中の悟達」 であり、そこに端(たん)を発した生命論だったのだと思います。

 佐藤  「心」 というと主観的になりますが、「生命」 であれば客観的になりますね。また、生命は全人類に共通であるから、創価学会の世界宗教性の土台にもなる。そう考えると、戸田会長の 「獄中の悟達」 が決定的に重要だったという松岡さんのお話が、すんなり理解できます。それと同時に、学会と宗門の決別はやはり決定的だったのだと、今のお話であらためて思いました。

 松岡  戸田会長の生命論が仏の悟りを万人に開いていこうとするものであるのに対し、宗門は逆に仏という存在を自分たちが独占しょうとしていますね。ベクトルが逆なんです。

 佐藤  牧口初代会長の 「価値論」 と戸田二代会長の 「生命論」 を アウフヘーベン(止揚)して、世界宗教にふさわしい形で日蓮仏法のなかに再編していったのが、池田第三代会長であった。しかしその プロセスのなかで、相容れない考え方を持った宗門との決別は、必然的に起きた。そう言えるのではないでしょうか。
 ………
 佐藤  ともあれ、結果として宗門との決別が池田会長の時代に起きたのは象徴的ですね。前回論じたとおり、池田会長こそ 「創価思想の完成者」 であり、創価学会の世界宗教化の 「実現者」 なのですから……。世界宗教への飛翔の過程で必然的に起きた宗門との決別は、池田会長の歩みのなかでも重要な出来事だったのだと思います。 

 経文には、「仏」 という存在は否定形でしか説かれていない。それを、戸田先生は初めて 「仏とは生命なり」 と肯定形で語ってくださいました。このことにより、始めて仏法を見聞きする海外の方々にも、日蓮仏法や池田思想を容易に理解することができたのだ と思います。
 それは創価学会が、牧口初代より合理主義的思考を受け継ぎ、一貫して理性を重んじる仏教団体であり続けてきたからである と。
 佐藤氏は、“生命は全人類に共通であるから、創価学会の世界宗教性の土台にもなる” と。
 松岡氏は、“戸田会長の生命論が仏の悟りを万人に開いていこうとするのに対し、宗門は逆に仏という存在を自分たちが独占しょうとしている。ベクトルが逆なんです” と。
 したがって、その方向性が真逆の宗門とは、決別に至るのは必然的なことであったのである。
 この対談を通して、戸田先生の 「獄中の悟達」 が、どれほど偉大な、尊貴な、仏教史上未曽有の画期的な業績であったのか と、改めて感慨を深めました。
関連記事

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

「新・人間革命」第4巻〔春嵐の章〕(村八分事件)

 〔春蘭〕
 民衆のなかへ。
 この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、新しき歴史は生まれゆく。

 民衆ほど、偉大な力はない。
 民衆ほど、確固たる土台はない。
 民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。
 民衆の前には、いかなる権力者も、富豪も、名声も、煙のようなものである。

 一九六一年(昭和三十六年)二月十四日、アジア訪問から帰った山本伸一は、早くも十六日には、愛知県の豊橋市で行われた豊城支部の結成大会に出席した。
  (新・人間革命4巻・7P)

 池田先生の会長就任以来、その喜びは新たな弘教の波となって広がり、広宣流布は飛躍的に進展して、新しい支部が次々と誕生していました。
 この頃、旧習深い農漁村地域において、学会員への村八分事件が、各地で起きていた。
 これら事件は、いずれも、寺院や神社の行事への不参加や、寄付の拒否であったが、それを口実に、その家との交際や、なかには水道の栓まで止めるという、基本的人権を脅かすこともあったのである。
 このような事になったのは、それぞれの地域で寺院や村の有力者たちが、本格的な折伏が始まったことへの “恐れ” を懐いたことにあったと思う。
 村八分事件について、先生は次のように述べられています。

 地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の意識の傾向は、いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、培(つちか)われてきたものといえよう。
 戦後、日本国憲法によって、信教の自由が法的には完全に認められても、国民の意識は旧習に縛られたまま、依然として変わることがなかった。そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、地域の寺院や神社を崇(あが)め、寄付や宗教行事への参加が、すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。

 では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、無批判に共同体の宗教を受け入れ、旧習から脱することができなかったのか。
 それは、民主主義の基本となる 「個」 の確立がなされていなかったからにほかならない。一人ひとりの 「個」 の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属は免れない。
 さらに、日本人には、「個」 の自立の基盤となる哲学がなかったことである。本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなりえなかった。

 たとえば、日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、とらえていることの表れといえる。
 もし、個人の主体的な意思で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの内実を探求し、検証していかざるをえないはずである。
 こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、日本人は、自分の宗教について尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、あるいは、無宗教であると答える場合が多い。それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。

 宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、信念の骨髄といえる。その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、はなはだ異様なものといわざるをえない。そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。そして、同志は 「個」 の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。
 いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆(きざ)した 「民主」 の萌芽(ほうが)への、「個」 を埋没させてきた旧習の抑圧(よくあつ)であったのである。
  (同書・62~64P)

 池田先生は、“一人ひとりの 「個」 の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属は免れない” と。それは、“「個」 の自立の基盤となる哲学がなかった” すなわち、宗教を信じないがゆえに、自立した信念が育たないのである。
 今では、50年以上前の村八分事件のようなものは、人権意識や社会状況も開けてきているから、もう起こらないと思います。
 だがしかし、国民の宗教的な意識は、旧態依然として少しも変わってないようである。

 それにつけて思い出すことは、一国を代表する首相が毎年、初詣に伊勢神宮に参拝することを慣例としている。そのうえ、ここ2回ほど、記者団を招いて首相の年頭所感を発表している。
 首相の年頭所感といえば、公的なものである。公的な首相官邸で行うのが当たり前である。それを一宗教法人の管轄する神社施設内において行うことは、政教分離原則を定めた憲法に違反している。
 首相自らが 「憲法違反」 を犯しているのに、マスコミはこの点を、なんら問題視することなく報道している。国民は初詣に行くことは、我が国の慣習であるとして、むしろこれを歓迎しているようである。

 宗教の正邪を正さずして 「国家神道」 を用いて、亡国の憂き目を見た歴史の真実を忘れてはいけない。これが 「立正安国論」 の誡めである。ただただ、宗祖日蓮大聖人の “お叱り” を畏れるものである。
 『安国論』 に曰く、「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」(33P) と。 
関連記事

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

創価学会の未来展望

 「創価学会とは何か」 というテーマの “佐藤・松岡対談” は、第12回の 〔創価学会の未来を展望する〕 という サブ・タイトルで、最終回となりました。
 あっ という間の一年間だったという感がします。  (第三文明・2016-1月・52P)

 〔今は創価学会の大きな転換期〕 という項目のところで、
 佐藤氏は、“学会がいよいよ本格的に世界宗教として離陸する時期だと、また、池田SGI 会長一人が指揮を執る時代から、ある種の合議制、「集団指導体制」 への移行期だという意味でも” 、今は学会の大きな転換期だと思いますと、その転換期だからこそ、会則の改正などの変化についていけない人も現れる と語られています。

 佐藤  私には二つの不協和音が表裏一体のものに見えます。学会員で教義条項改正に反発している人と、平和安保法制に反対している人――両者には共通して 「今の学会執行部は暴走して、池田先生のお心に反したことを行っているに違いない」 という言い方をする人がいました。そういう論法は問題を孕(はら)んでいると思います。「私は学会員だが、安保法制には反対だ」 と政治的意見を表明するのは自由ですが、そこに池田会長うんぬんを持ち込むのは筋違いだと思います。
 ………
 佐藤  そのような微妙な時期に政治的異議申し立てをするにあたって、何を主語にして語るべきなのか? たとえば、キリスト教徒が政治的異議申し立てをすることも当然あるわけですが、その場合に 「それはキリストの教えに背いている」 などと言うのは、信仰のぎりぎりの問題以外に使ってはいけない論法です。たかだか安保法案程度の話に、信仰の核にある大切なものを持ち出すべきではない。私は一人の宗教人として、安保法案反対に軽々しく池田会長の名を持ち出す人たちに、強い違和感を覚えました。

 佐藤氏は、“「私は学会員だが、安保法制には反対だ」 と政治的意見を表明するのは自由ですが、そこに池田会長うんぬんを持ち込むのは筋違いだと思います” と言われてます。まったくその通りだと思います。
 御書に、「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(869P) とあります。
 我らにとっては、仏法・信仰等は 「本」 であり、変わらない、変えてはいけないものである。
 一方、会則や政治・経済等は、時代やそのときの状況によって変化する 「迹」 である。批判する人たちは、この問題の 「本・迹」 が分からず、ごっちゃ混ぜにして同等に考えているから、おかしくなってしまうのである。
 たとえ、先生の言葉でも過去のご発言を持ち出して、“今の執行部は池田先生のお心に反している” 等と言うのは、往々にして、単なる幹部批判が、組織批判になり、先生並びに学会批判になり、遂には退転してしまうという危険性があるのである。心しなければならない。

 〔「資本主義の論理」 とどう向き合うか?〕 の項目では、「世俗内禁欲」 という用語が出てきます。  
 佐藤  「世俗内禁欲」 とは、裏返せば、ビジネスやお金儲け自体は肯定しているということですね。「お金儲けを否定はしない。しかし、世俗の倫理に染まり切ってしまうのではなく、きちんと歯止めをかけますよ」 というのが世俗内禁欲です。
 
 松岡  ……創価学会は 「此岸性の宗教」 ですから、欲望は否定するのではなく 「活用」 しょうとします。消費社会に背を向けるのではなく、消費社会のなかに入って、内側から浄化しょうとする指向性と言いますか。
 ……… 
 松岡  そのように、「世俗内禁欲」 志向が組織全体に浸透していることと関連するのですが、創価学会/SGI には強制的な道徳律がありません。……
 ではなぜ、SGI が強制的道徳律を持たないかといえば、それは日蓮の考え方に由来しています。「今は、欲望が盛んで機根の低い衆生が生まれてくる末法の世である。ゆえに、戒律を科してもその欲望を消すことはできない。戒律で押さえつけるのではなく、仏の生命を保つことによって、おのずと道徳的な生活を送らせるようにすべきだ」 というのが、日蓮仏法の基本的な考え方なのです。


 「末法無戒」 と言われますように、今どき戒律を持している者なんか 一人もいないのである。伝教大師は、 「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」(341P) と言われています。
 松岡氏は、“戒律で押さえつけるのではなく、仏の生命を保つことによって、おのずと道徳的な生活を送らせるようにすべきだ” と、唱題行による仏界の湧現、すなわち、人間革命することが、自然体のままで人倫の道に達することになるのである。
 
 〔世界宗教にふさわしい教学の完成を目指して〕 の項目に、
 佐藤  創価学会の場合は池田会長という卓越した指導者がいて、池田氏による日蓮解釈がきちんと整理されているわけですから、その意味では世界宗教として飛翔するための教学的準備はすでにできているとも言えます。

 松岡  そうですね。仏教には 「知者の教えに従って経典を読む」 という伝統があります。日蓮が天台の教えに従って正しく仏典を読み、創価学会は日蓮の教えに従って 『法華経』 を読んだ。そして今、学会員は池田会長の教えに従って正しく日蓮の御書を読んでいると言えます。「智者」 である池田会長が認めた日蓮の御書は、すべて真正 テキストと認めてよいというのが、私の考えです。

 佐藤  ええ。神学の行き詰まりを突破するために発達してきた 「解釈学」 の教えるところによれば、「解釈者」 というものは、原 テキストをより深く解釈することができるのです。池田会長は、まさに日蓮のよき 「解釈者」 と言えるでしょう。

 佐藤氏は、“文献の科学的真贋と教義との距離関係というのは、非常に難しい問題です” と言われています。
 例えば、開経の 『無量義経』 は偽経であるという説もある。しかし、大聖人は 「四十余年 未顕真実」 の文を用いて、法華経真実の証明とされている。しかも、『法華経』 自体、釈尊滅度 4~500年後の成立であると言われている。
 要は、誰が編纂したものであれ、釈尊の精神・法華経の哲理を、正しく展開したものであれば 「宗教的真実」 として、信じ持って行かねばならないのである。
 
 〔創価学会に対する期待と注文〕 の項目には、お二方のご意見があります。
 佐藤  私は、創価学会の今の方向性は正しいと考えていますから、今歩んでいる道を自信を持って進んでほしいと思います。そのうえで、今の創価学会の問題点はただ一つ――これは前から言っていることですが、自分たちの力の過小評価です。過大評価も危険ですが、過小評価にも危険性があります。学会が自らの力を等身大で正しく評価をすることが、今後いっそう重要になってくるでしょう。
 それと、学会に対する注文を言うなら、外部から 「池田教」 などと揶揄(やゆ)されたとしても、もうそんな輩を相手にしている段階ではないのですから、池田会長をしっかりと中心に据えて進んでいってほしいですね。組織的にも、世界広布においても、教学的にも、……。


 松岡  私自身の期待としては、創価学会の 「人間主義」 をもっと世界に広めてほしい、ということに尽きます。「人間主義」 とは一言で言えば 「人間の生命を究極と見る思想」 ですから、あらゆる文化の基底にあるものです。したがって、人間主義は イデオロギーや文化の壁を越えて、諸文明を統合し得る思想であると言えます。人間主義による世界の統合という一大事業に向けての歩みを、創価学会/SGI には着実に進めてほしいと思います。
 
 以上のほかに、佐藤氏の奥様が 「あなた、創価学会の人と会う日は楽しそうね」 と言われたそうです。氏は 「新たな世界宗教が生まれていく過程を間近に見ることができるのですから、こんなに胸躍ることはない」 と、その楽しみを語っています。
 我らは池田先生の弟子として、「世界広布新時代」 の当事者として、歓喜と決意をもって、明年の 「拡大の年」 をお迎えしたいと思います。


にほんブログ村
関連記事

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR