学会永遠の五指針②(幸福をつかむ信心)

 創価学会永遠の五指針② は、「幸福をつかむ信心――自他共に遊楽の人生を」 であります。  

 日蓮大聖人の仏法の目的は何か――。
 人間は、幸福になるために、この世に生まれてきました。不幸になりたくて生まれてきた人は誰一人としていません。ゆえに 「幸福」 は、古来、哲学の根本命題でした。
 そして、宗教は、本来、人間の幸福のためにこそ存在するのです。


 〔「つかむ」 という能動の姿勢〕 という項目には、
 先生(戸田)は、「幸福をつかむ信心」 と言われました。この 「つかむ」 という一言には、深い深い哲学があります。
 幸福は、他の誰かから与えられるものではない。自分の意志や努力とは無関係に、いつか突然やって来るのを待つのでもない。究極は、各人が、自分自身で 「つかむ」 しかありません。必ず 「つかむ」 ことができる信心なのです。


 先生は、「幸福をつかむ」 という一言に、各人が自発能動の信心で 「つかむ」 以外にないと指導されています。
 その 「つかむ」 べき幸福とは、相対的なものではなく 「絶対的幸福」 という幸福感である。そして 「常楽我浄の人生」 を築いていきなさいと呼び掛けられています。
 もう一つは 「衆生所遊楽」 とあるように、遊楽するには、強い生命力を発揮しなければならない。どんな苦難も悠々と楽しみながら上って行き、こうした人生の醍醐味を、味わってほしいと指導されています。

 そして、「祈り」 について、
  祈りとは、負けじ魂です。
  祈りとは、無限の希望です。
  祈りとは、絶対の安心です。
  祈りとは、不屈の前進です。
  祈れることが最大の幸福であり、人間としての最高の尊厳なのです。
 次に 「自受法楽」 とあります。法楽(法の楽しみ)を自由自在に自ら受けきっていける、まさに仏の境涯です。
 絶対の法に則り、ゆるぎない確信に立った幸福な人生を歩める。他の誰でもない、自分自身が必ずそうなるのです。

 “必ずそうなるのだ” と、絶対の確信に立てと呼び掛けられています。

 〔自他共に喜ぶ事なり〕 の項目には、
 法華経に説かれる 「随喜」 について 「御義口伝」 に、「喜(き)とは自他共に喜ぶ事なり (中略) 然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり」(761P) の御金言を用いて指導されています。
 「喜とは自他共に喜ぶ事なり」 と。自分も、他者も共に喜ぶ。そこに真の歓喜が、幸福があると言われるのです。
 幸福とは、各人が自らつかむものであり、自身の生命で感得するものです。しかし同時に、自分一人だけの幸福もありません。自分さえ幸せならあとは関係ない――それでは、利己主義です。だからといって、“自分はいいから、他の人が幸せに” というのも、十全ではない。そうではなく、“自分も人も一緒に!” というのが、本当の幸福でしょう。
 ………
 幸福もまた、「自他共に」です。

 先生は、“苦楽を分かち合う関係の中で、幸福はより大きくなるのです” と指導されています。

 〔全ての人の幸せを願う〕 という項目には、
 幸福は、誰かから奪い取ったり、誰かを踏み台にして得るものではありません。どこまでも 「自他共に」 です。ゆえに私たちは 「他人の不幸の上に自分の幸福を築かない」 という生き方を目指してきました。

 次に、「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」 ―― 「智慧と慈悲」 とは、仏の境涯そのものです。どんな困難に直面しても、決して負けずに、すべてを乗り越える智慧、人々を救う慈悲の精神が湧いてくるのです。
 さらに、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり」 と仰せです。
 三身とは、法報応の三身です。
  自他ともに本来、尊極の仏であり、妙法の当体である――これが法身です。
  その深き自覚に立って、自他共の幸福を創りゆく智慧――これが報身です。
  そして、自他共の幸福のための具体的な慈悲の振る舞い――これが応身です。
 妙法を唱えゆく時、私たち凡夫の身がそのまま偉大な三身具足の仏となると明かされているのです。


 「つかむ」 べき幸福とは、「絶対的幸福」であり、それは、信心をもって仏界の生命を涌現させることに尽きます。
 先生は、この幸福すなわち、仏界・仏の境涯について説明されていますが、なかなか難しいです。“仏とは何ぞや” というのは、仏法の永遠のテーマだと思いますので、これからも、うまず弛まず研鑽していきたと思います。 

 〔幸福と勝利の波動を世界に〕 という項目には、
 大聖人は、「随喜する声を聞いて随喜し」(1199P) と仰せになりました。
 今、「幸福をつかむ信心」 の歓喜の波動が、国境を越え、民衆や言語などの差異を越えて、グローバルに拡大しゆく 「世界広布新時代」 を迎えました。
 それは、全人類がともに幸福をつかむ、民衆凱歌の世紀を開く挑戦です。
 幸福とは、日々の着実な積み重ねです。
 そして、私たちが幸福を目指す人生の根幹には、日々最高の 「祈り」 があります。
 私は今日も真剣に祈り抜き、そして、いつまでも祈り続けます。
  大切な皆様が健康・長寿であるように
  所願満足で、現世安穏であるように
  使命を成就し、後生善処であるように
  一人も残らず、幸福であるように
  大勝利の人生を勝ち飾れるように


 なんとあり難きことか、先生は “今日も真剣に祈り抜き、そして、いつまでも祈り続けます” と仰って、祈ってくださっています。我らは弟子として、世界の平和と一切衆生の幸福のために、世界広宣流布の大願成就と、池田先生・奥様の御長寿と御健康を御祈念申し上げます。
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聖教連載の「新・人間革命」を読もう

 聖教新聞連載中の 「新・人間革命」 第29巻・常楽三十九の章から、いよいよ 「第1次宗門問題」 についての、池田先生のご指導が記載されるようになりました。
 宗門問題とは、日蓮正宗とその信徒団体であった創価学会との間に生じた軋轢である。
 本来ならば、日蓮大聖人の御精神を体して、共々に仲良く、広宣流布に邁進すべきである。しかしながら、広宣流布に挺身し、不幸の民衆を救済したのは創価学会であり、一方の宗門は、旧態依然とした日本仏教界の悪弊から脱しきれず、「徒らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は法師の皮を著(き)たる畜生なり」(1386P) と仰せの通りの姿である。
 このような実態からして、早晩、別れなければならないことは必然のことであった。

 日蓮門下を名乗る僧が、宗祖の御遺命たる広宣流布に、死身弘法の実践をもって取り組んできた創価学会への攻撃を繰り返す。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」(957) と大聖人が仰せ通りの事態が出来したのだ。
 魔の蠢動(しゅんどう)は広宣流布の時の到来を物語る。
  (聖教・2016-2/17・常楽39)

 先生は、宗門問題の本質・実態を明らかにしてくださると思います。今まで、我々が知らなかった事柄もあるのではないかと楽しみにしています。
 そして、広宣流布を破壊せんとした日顕の “第六天の魔王” の本性を、深く認識しなければならないと思います。広布に魔はつきものです。これからも魔の蠢動(しゅんどう)は起こります。魔を知らなくては、魔から誑(たぶら)かされて仕舞うからである。

 本日の新聞には、御本尊の謹刻問題について述べられています。
 彼らの言う謹刻問題とは、学会が日達法主の了解を得たうえで、創価学会常住の 「大法弘通慈析広宣流布大願成就」 の御本尊をはじめ、山本伸一が願主となって総本山に正本堂を建立寄進したことを讃え、「賞本門事戒壇正本堂建立」 と認められた賞与御本尊など、八体を謹刻したことである。
 伸一は、信心の根本である御本尊を、未来永遠に、大切に伝え残していくために、紙幅の御本尊を板曼荼羅にする必要があると考え、一九七四年(昭和四十九年)一月、謹刻について日達に尋ねている。
 板曼荼羅にするのは、御本尊を大切にするためだからよい――とのことであった。
 さらに、九月二日、宗門との連絡会議では創価学会常住の御本尊謹刻を、あらためて伝え、法主了解のもと、謹刻を進めた。
  (同・2/18・常楽40)

 謹刻問題は、こと御本尊のことであるので、先生は法主の了解を得て、ことを慎重に進められたのである。創価学会側に、いささかも瑕疵(かし)はないのである。
 それを、悪僧らは、“池田大作が御本尊を偽作した” “大謗法だ、大謗法だ” と、大袈裟に騒ぎ立てて、先生と学会員との師弟関係の分断を企てたのである。
 御本尊のことが、あまり解らない会員の中には、悪僧らに騙(だま)されて脱会した人も多少なりともいたのである。
 今後、このような事にならないように、新聞連載の 「新・人間革命」 を、シッカリと研鑽して参りたいと思います。 
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「政教分離」の原則

 『新・人間革命』 第5巻の 「獅子の章」 に、「公明政治連盟」(公明党の前身) の結成当時の模様が記されています。
 創価学会が、政界に有能な人材を送り出して以来、常に 「政教一致」 ではないかとの批判がなされてきました。公明党も発足してすでに 50年が過ぎ、自民党と連立を組んでいる故か、この頃は、かかる 「政教一致」 等の批判も少なくなっています。
 しかし、純真に民衆のため、国のため、世界の平和を願い務めている創価学会に、何か政治的な野心があるのではないかと邪推する人も、少なからず居ると思いますので、この際、参議院選挙も近づいていますので、確認のためにも 「政教分離の原則」 を学んでみたいと思います。

 1962年(昭和37年)1月17日、参院本会議場での開会式の終了後、記者クラブで 「公明政治連盟」 という政治団体を発足させる旨の発表があった。その席上、公明政治連盟の “基本要綱” と “基本政策” が発表され、このなかで 「参議院の自主性確立」 という政策があった。
 本来の二院制の使命である、衆議院の行き過ぎを是正し、不足を補充する役割を果たすための政策である。ところが現状は、どの党も党利党略に走り、あたかも衆議院の延長のようになっていたのである。
 先生は、政治団体結成に踏み切った理由について述べられています。

 山本伸一が 「公明政治連盟」 という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。いわば、学会として自主的に、組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。
 本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。宗教団体であるからといって、政治に関与することを制限するなら、「表現の自由」 「法の下の平等」、さらには 「信教の自由」 をも侵害することになる。

 憲法第20条には 「政教分離」 がうたわれているが、ここでいう 「政」 とは国家のことであり、「教」 とは宗教、または宗教団体をいい、国と宗教との分離をうたったものである。つまり、国は、宗教に対しては中立の立場を取り、宗教に介入してはならないということであり、宗教が政治に関与することや、宗教団体の政治活動を禁じたものではない。
 憲法にうたわれた 「政教分離」 の原則とは、欧米の歴史をふまえつつ、戦前、戦中の、国家神道を国策とした政府による宗教弾圧の歴史の反省のうえに立って、「信教の自由」 を実質的に保障しようとする条文にほかならない。
 したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。

 宗教も、政治も、民衆の幸福の実現という根本目的は同じである。しかし、宗教が大地であるならば、政治はその土壌の上に繁茂する樹木の関係にあり、両者は次元も異なるし、そのための取り組み方も異なる。
 たとえば、核兵器の問題一つをとっても、核兵器は、人類の生存の権利を脅(おびや)かすものであり、絶対に廃絶しなければならないという思想を、一人ひとりの心に培(つちか)っていくことが、宗教としての学会の立場である。それに対して、政治の立場は、さまざまな利害が絡み合う国際政治のなかで、核兵器の廃絶に向かい、具体的に削減交渉などを重ね、協調、合意できる点を見出すことから始まる。

 また、宗教は教えの絶対性から出発するが、政治の世界は相対的なものだ。
 そうした意味から、やはり、宗教団体のなかでの政治活動と宗教活動との、組織的な立て分けが必要であると伸一は結論したのだ。そして、政治活動は政治団体が主体的に行い、学会は、その支援をするという方向性を考えてきたのである。
   (新・人間革命5巻・302P)

 創価学会が、直接、議員を選出させても、憲法で保障された自由であり、権利である。しかしながら、「政教分離の原則」 を勘違いして誤認識している人や、あるいは、あえて意図的に誹謗中傷する人も中には居るのである。
 したがって、学会組織内から直接的に選出させれば、紛(まぎ)らわしくなり 「政教一致」 との批判がなされるようになるであろう。ゆえに、政治活動は別団体にして、宗教活動との組織的な立て分けが必要になるのである。

 「学会の目的は、民衆の幸福の実現です。そして、そのためには、世界の平和を築き、社会を繁栄させていかなくてはならない。すると、必然的に私たちは、政治、経済、教育、平和運動など、広い意味での文化を推進する活動を展開していかざるをえない。

 それらの文化を創造する主体である人間を育み、社会建設の土壌を開拓していく母体が、宗教団体である創価学会です。この学会という母体から育った人材が各分野で、必要であれば、それぞれ団体や機関をつくり、社会に貢献していくべきであるというのが、私の考えです。それは、何も政治の分野だけでなく、音楽・芸術や学術の分野でも、また、教育や平和研究の分野でも同じです。
 今回、政治団体を結成するということは、その突破口を開くことになる」
 ………
 「ただ、勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。
 私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです。
 私の願いは、政治団体がスタートしたならば、一日も早く自立し、民衆の大きな信頼と支持を得るものにしていってほしいということです。

 学会は、その母体として今後も選挙の支援はしていきます。しかし、具体的な政策については、皆でよく話し合い、すべて決定していくんです。やがては、学会が支援などしなくても、この政治団体の政策と実績に、多くの国民が賛同し、また、一人ひとりの議員が幅広い支持と信頼を得て、選挙でも、悠々と当選するようになってもらいたい」
   (同書・308P)

 池田先生は、“この政治団体は、学会のためのものではない。私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです” と仰っています。
 この先生の思いを、今回の公明党への支援活動を通して、広く国民の皆様にお伝えして参りたいと思います。よろしくお願いいたします。
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「新・人間革命」第6巻〔宝土の章〕(イスラム教関係)

 『新・人間革命』 第6巻は、1962年1月、先生は初めて中東を訪問し、“平和と友情の橋” を架けるところから始まっています。まず、冒頭の文章は、

 〔宝土〕
 新世紀の大舞台は、世界である。そこには、戦火にあえぐ友がいる。悲嘆に暮れる母がいる。飢えに泣く子らもいる。
 泉が砂漠をオアシスに変えるように、人間の生命からわき出る慈悲と英知の泉をもって、この地球を平和の楽園へ、永遠の宝土へと転じゆく ヒユーマニズムの勝利を、我らは広宣流布と呼ぶ。

 一九六二年(昭和三十七年)一月二十九日、山本伸一は中東へ出発した。
   (新・人間革命6巻・7P)

 中東歴訪の第一の訪問地は、イランの首都 テヘランであった。昼間は、一人の現地会員のためにわざわざ家庭訪問をして、信心激励をなされ、それから博物館の視察など、一日は瞬く間に過ぎていった。
 夜は ホテルの先生の部屋で、同行の青年幹部たちと、イランの感想を語り合いました。
 対話は、イスラム教・その創始者である マホメットの人間像などにも及び、ここのところは、イスラム教を概略知るうえで参考になると思います。

 話のなかで、仏教とキリスト教・ユダヤ教・イスラム教などとの宗教間対話の必要性が語られました。
 同行の一人から 「しかし、イスラム教は、神の唯一絶対性を、極めて強烈に打ち出しているように思います。それだけに、イスラム教との対話は、最も難しいのではないでしょうか」 との質問がありました。
 先生は、諭すように言われました。

 「黒木君、なぜ、そう決めつけてしまうんだい。実際にやってみなければ、わからないじゃないか。自分の先入観にとらわれてはいけないよ。
 それに、イスラム教との対話といっても、宗教上の教義をめぐって、語り合わなければならないということではない。同じ人間として、まず語り合える問題から、語り合っていけばよいではないか。
 文化や教育のことについてでもよい。あるいは、人道的な立場から、平和への取り組みについて語り合ってもよい。文化の向上や平和を願う人間の心には、皆、一緒だよ。
 また、そうした問題を忌憚(きたん)なく話し合っていくならば、自然に宗教そものもについても、語り合っていけるようになるにちがいない。

 いずれにしても、対話の目的は、どうすれば、みんなが幸福になり、平和な世界を築いていけるかということだ。それにイスラムは、偶像は認めないが、文字は大事にしている。これは、大聖人の仏法に近い側面といえるのではないだろうか。
 また、唯一神アッラーについては、イスラム神学上の難しい議論もあると思うが、全知全能にしても天地万物の創造者という考え方は、宇宙の根源の法則である妙法を志向しているようにも思える。それは、ユダヤ教も、あるいは、キリスト教も同じかもしれない。そうだということになれば話は早い。
 私は、対話を重ねていくならば、イスラム教の人びとも、仏法との多くの共通点を見いだし、仏法への理解と共感を示すにちがいないと確信している」
 ………
 「よく戸田先生は、こう言われていた。
 ――大聖人をはじめ、釈尊、イエス・キリスト、マホメットといった、各宗派の創始者が一堂に会して、『会議』 を開けば、話は早いのだ、と。
 たとえば、企業でも、トッフ同士だと、話は通じやすいし、決断も早い。自分が責任をもって、あらゆることを考えているからね。

 同じように、世界宗教の創始者は、それぞれ時代の状況は異なっていても、迫害のなかで、民衆の幸福を願い、戦い抜いてきている。いずれも時代の改革者であり、聡明な “勇気の人” “信念の人” だ。
 だから、お互いに会って、語り合えば、仏法の深さもわかったであろうし、これからの人類のために何が必要であり、何をなすべきかも、すぐに結論を出すことができたと思う。
 残念ながら、この会談は実現することはできないから、現在の人びとが、民衆の救済に生きた創始者の心に立ち返って、対話を重ねていく以外にない」
   (同書・59P)

 上記の語らいのなかで池田先生は、第二次世界大戦終了後も 、ズ~と今日まで戦火の休むことのない、中東地域の問題解決の方途を示してくださっています。
 「対話を重ねる」 といえば、何か迂遠で生ぬるく、役に立たないもののように思われますが、では、武力で相手(テロリスト)を撲滅させることができるのか? 答えは “否” である。
 このことは、皆よく解っているけれども、人間の命の濁り・無明とでも言いましょうか、どう仕様もない宿業みたいなものを感じます。結局、「人間革命」 する以外に道はないわけです。
 我われは、数多くの 「地涌の菩薩」 を糾合し、“民衆の救済に生きた創始者の心に立ち返って、対話を重ねていく” べき戦いを開始しましょう。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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