夏季大学講座(B)

 午後からの講義は、恒例になっている質問会です。
 * 釈迦仏法の成仏の境涯とはどういうものかという趣旨であった思う。
 法華経の迹門では、二乗の未来の成仏を説いている。これらは所詮歴劫修行である。
 また、提婆達多品では、竜女が直ちに成仏したことが説かれている。
 釈迦仏法では、娑婆世界は穢土といわれている。三悪道は想定外として、人界以上を浄土としている。

 * 釈迦仏法は、どうして西方の中東やヨーロッパに広まらなかったのでしょうか。
 一つには、交通の便・不便という問題があるのではないか。
 釈迦仏法が、世界へ広まったのは大乗仏教の時代になってなってからである。その時には、イエス・キリストも出現している。

 その他、多くの質問があり、時間も 30分以上に亘った。概して、質問の内容が難しかった。(聞き取り難かった点も含めて)
 質問者は信仰者の立場で問い、先生は仏教学者として答えられ、その間において多少の ズレが感じられた。
 時間の制約もあるでしょう、日蓮仏法との関連性についての解説がありませんので、質問者によっては、回答が腑に落ちないと感じられた方も居られるのではないかと思われます。

 〔観世音菩薩普門品〕
 普門品は、独立単行されて 『観音経』 と呼ばれる。観世音菩薩の名を唱えるならば、観世音菩薩はすぐにその衆生の唱える声を聞いて、衆生を苦難から救済してくれることを説く。すこぶる現世利益的な内容なので、中国・日本において、広く観音信仰が流行した。
 観世音の語源は、Avalokitesvara であり、直訳的には、後に玄奘が訳したように 「観自在」 が正しい。
 では、なぜここでは観世音と訳されたのであろうか。 これには、Avalokitasvara (svara は音の意) が原語だったのではないかとする説 (この場合 Avalokita が観世と訳されたことになり、lokita が loka = 世間と混同された可能性があるとされる)。
 観世音菩薩は衆生の苦しみの音声、救いを求める音声を観察して、救いの手を差し伸べるという働きを持つことから、観世音と訳したのだという説などがある。


 観世音菩薩の名号受持の功徳について、
 ① 大火に入っても、観世音菩薩の名を心にとどめれば、火も焼くことができない。
 ② 大水の流されても、観世音菩薩の名を唱えれば、浅い所にたどり着く。

  ………
 等々の九つの功徳を説いている。
 このように、観世音菩薩の名を唱える偉大な功徳を列挙した後に、釈尊は無尽意菩薩との問答によって、六十二億恒河沙の菩薩たちの名を受持(記憶する意)し、一生涯、飲食物・衣服・寝具・医薬を供養する功徳はとても多いが、観世音菩薩の名を記憶し、短い間でも礼拝・供養する人の功徳はこれとまったく等しく、百千万億劫という長い時間でもなくならないほどであることを明かす。
 
 『御義口伝』 に、観音妙の事について、
 「妙法の梵語は薩達摩(サダルマ)と云うなり、薩とは妙と翻(ほん)ず此の薩の字は観音の種子なり仍(よっ)て観音法華・眼目異名と釈せり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」(776P) と仰せです。

 『法華経の智慧』 を参照いたしたいと思います。

 斉藤 大聖人は 「観音法華・眼目異名」 という天台宗の言葉を挙(あ)げておられます。
 観音と法華は名前は違っているが、その眼目は同じであり、妙法そのものであるということです。

 名誉会長 じつは、観音菩薩とは、寿量品で示された久遠の本仏の生命の一分です。 宇宙と一体の本仏の 「限りない慈愛」 を象徴的に表したのが観音です。 だから久遠の本仏を離れては、観音菩薩の生命はない。 魂のない抜けがらのようなものです。

 遠藤 妙法を信受しないで、観音を拝んでも本末転倒であるということですね。

 名誉会長 久遠の本仏の生命――御本尊はのなかに、観音菩薩も含まれている。
 御本尊の――妙法の功力の、ごく一分が観音菩薩の働きなのです。
 古来、観音品ほど多く論じられてきた品もない。 「観音経」 として独立して信仰されてきた歴史もある。 今なお、各地で 「観音菩薩像」 が次々に建立されている。 また日本では特に人気のある 「般若心経」 も、観音が説法する経典です。
 しかし、その割には、「観音」 の力の源を多くの人が誤解している。 その 「力の源」 とは 「妙法」 です。 妙法を釈尊滅後に弘めていきなさいというのが法華経の 「流通分」 であり、観音品もその一つです。
 観音品は、あらゆる仏典の中で、観音菩薩が登場した一番古い経典です。 ここで、ちゃんと位置づけられている。 観音菩薩も妙法――寿量文底の南無妙法蓮華経――によって、人を救う 「力」 を得ているのです。


 遠藤 根源の 「妙法」 を離れて、「観音」 を拝んでも、意味がない。 かえって観音の願いに背いてしまうということですね。  (法華経の智慧6巻・98P)   

 〔陀羅尼品〕
 薬王菩薩と勇施菩薩、毘沙門天王、持国天王が順にそれぞれ呪文を説いて 「法華経」 を読誦する法師を守護することを誓い、最後に十羅刹女が鬼子母とその子、仲間たちとともに呪文を説いて、「法華経」 を読誦する法師を守護することを誓う。
 陀羅尼は dharani の音写で、総持と漢訳される。もともと経典を記憶する力、善を保持する力を意味するが、ここでは仏の教えの エッセンスで、神秘的な呪力があるとされる、比較的長い呪文の意である。


 『御義口伝』 に、陀羅尼の事について、
 「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり、其の故は陀羅尼は・諸仏の密語なり題目の五字・三世の諸仏の秘密の密語なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり捨悪持善の故なり」(777P) と仰せです。

 陀羅尼とは、呪文と訳する。三世諸仏の秘密の中の秘密の言葉とは、“南無妙法蓮華経” のことである。
 南無妙法蓮華経と唱え、折伏していくのは、この陀羅尼の意義(捨悪持善)を、事実の上で弘めていることになるのである。ゆえに、何も意味は分からなくても、自然のうちの護られて、幸福境涯になっていくのである。 
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希望の源泉(2)(すべての思想を生かしていく)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 2回 は、〔すべての思想を生かしていく 「法華経の智慧」〕 であります。
 はじめに、宗教の悪魔的な一面について述べられています。

 〔多文化主義を再生させる 「人間主義」
 佐藤 優  「序論」 で、池田会長は次のように述べています。 
 「宗教は、使い方によっては “悪魔” となる。 人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断をあおっている。 これほどの不幸はない。
 どこまでも 『人間のための宗教』 が根本とならねばならない。 『宗教のための人間』 では絶対にない。 『二十一世紀の宗教』 の、これは根本原則です」
 (「普及版」上巻・19P)

 そして、宗教が 「悪魔」 となってしまった例として、キリスト教徒は指で十字を切って祈るが、二本指(カトリック教徒・クロアチア側)か、三本指(正教徒・セルビア側)かの違いによって人々を分断し、ボスニア紛争期には、相手の捕虜の指に針金まで入れて強制したとのことである。
 現在の I S (イスラム国)が行っている残虐な テロ行為にも、同じような ファナティズム(狂信)が感じられます。 I S のような反・人間主義的な宗教集団の跋扈(ばっこ)が、21世紀に入ってからも起きてくることを、『法華経の智慧』 は予見していたと言えるかもしれません、 と述べられ、宗教の ドグマ(教条主義)による不幸な民族間分断の実態を語られています。
 そして “多文化主義” について、多文化といってもすべての文化を無条件で認めることではない と述べています。

 ――  池田会長の 「人間主義」 が異なる宗教を結び付ける役割を果たすといっても、単なる 「多文化主義」(マルチカルチュラリズム=異なる文化の価値を等しく認め、その共存を推進していこうとする考え方) ではないと思います。……

 佐藤  そのとおりです。 多文化主義が異なる文化の価値を等しく認めるものであるなら、たとえば ナチズムのような思想にも価値を認めていいのか?  いいはずはないわけです。 では、尊重すべき異文化と、認めてはならない悪しき異文化を分かつ基準を、どこに置くべきか?  池田会長は、その基準を 「人間のため」 という一点に置かれたのだと思うのです。 多様な文化は尊重すべきだが、ナチズムや現在の I S が陥(おちい)っている ファナティズムのように、人間の価値を軽んずる思想は決して認めるわけにはいかない……という一線をを引いた。
 創価学会と日蓮正宗宗門の決別 以来、池田会長が一貫して宗門と戦ってきたのはなぜかと言えば、宗門にはびこる “思想” ―― たとえば僧俗差別主義や法主絶対主義 ―― が、人間主義に反しているからでしょう。 反・人間主義的な宗門の価値観を放置していたら、創価学会全体の価値観・生命観・人間主義にも、大変な悪影響を与えかねない。 だからこそ、池田会長は宗門を批判し続けざるを得なかった。 創価学会と宗門の対立を、単なる権力闘争のように捉えている人が多いですが、実は人間主義と反・人間主義の闘争であり、「人間のための宗教」 と 「宗教のための宗教」 の闘争であったのです。
  (第三文明・2016-9月・53P)
 
 現代は、むしろ宗教が人々の幸福に寄与するどころか、不幸の原因になっている。現に シリア内戦によって大量の難民が発生し、悲惨な状況下に置かれている。
 紛争の原因は、いろいろ複雑多岐にわたり一概に言うことはできない。単なる宗教戦争でもないようだが、当事者の心の奥底には、一神教の影響があるように思われる。 

 キリスト教・イスラム教等は、天地創造の唯一絶対神を信じている。唯一絶対神とは、他の一切の神の存在を許さないと言うことになる。それゆえか、もともと同じ思想から発生した同根の宗教であるのに、各々宗派が異なると言うだけで対論ができず、往々にして殺し合いの抗争になるのである。不倶戴天の仇のように見るのは、一神教の弊害であると思う。

 一方、仏教は多神教であり、多くの仏・菩薩や神を認めています。特に法華経は、一切衆生に仏性有りとして、人びとを仏と見る思想である。宗派間の論争で武力を使ったことはないのである。
 創価学会と日蓮正宗との対立も、学会側は話し合いを求めたが、宗門側はそれには一切応じず、一方的に、学会と広宣流布の破壊を企てたので、決別に至ったのである。
 その真因は、佐藤氏の言われるように “実は人間主義と反・人間主義の闘争であり、「人間のための宗教」 と 「宗教のための宗教」 の闘争であった” のであり、悪思想の邪義は、徹底して闘い撲滅しなければならないのである。

 ――  ドイツの アンゲラ・メルケル首相が、2010年に 「多文化主義は完全に失敗した」 と発言して大きな話題となったことがあります。……

 佐藤  多様な文化の尊重だけでは ダメで、普遍的価値に基づく確固たる線引きがなければならない。 その線引きになり得るのが、池田会長の人間主義でしょう。 メルケルの発言が象徴するように多文化主義が行き詰まっている昨今ですが、池田会長の人間主義と結びつくことによって、多文化主義も再生すると思います。
 「異なる宗教の平和的共存」 という二十一世紀社会の重要な課題に、『法華経の智慧』 は一つの答えを提示していると思います。
  (同誌・54P)

 〔法華経が 「諸経の王」 である理由
 ――  法華経は 「諸経の王」 と呼ばれていますが、この呼び方には少し誤解されている面があると思います。 「法華経だけが優れていて、ほかの諸経は無価値である」 という独善とは似て非なるものだからです。 池田会長は 「序論」 で、その点について次のように述べています。
 「法華経は 『経の王』 です。 王とは、他を否定するのではなく、一切を生かしていく立場です」 (上巻・23P)
 つまり、法華経という フィルターを通すことによって、ほかのあらゆる宗教や思想も正しく生かされていくからこそ、法華経は 「諸経の王」 だというのです。

 佐藤  わかります。 確かに 『法華経の智慧』 には、キリスト教や イスラム教などの他宗教、マルクス主義などの思想、科学の先端的知見などが自在に織り込まれ、その意義が法華経の視座から再解釈されています。……   (同誌・56P)

 ――  アインシュタインが 「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である」 と言ったように、一流の科学者は往々にして宗教の意義も認めているものです。 また、無神論者であったとしても、「生命への畏敬の念」 は抱いているものだと思います。

 佐藤  私もそう考えます。 その点、法華経は生命の尊厳を根底に置いているからこそ、生命軽視、人間軽視には決して陥らない。 だからこそ、宗教・政治・科学など、あらゆる分野の思想を統合しゆく中心軸になり得るわけですね。  (同誌・57P)

 行き詰まっている多文化主義 や その他 すべての思想を生かしていけるのは、「諸経の王」 である 「法華経」 以外にはありません。生命尊厳主義・人間主義・文化主義・平和主義を根底として、あらゆる分野の思想を生き生きと活用させていけるのであります。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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