「希望の源泉」(10)(譬喩の力)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 10回は、池田思想にちりばめられた 「譬喩の力」であります。 (第三文明・2017‐5月・53P)

 ソ連社会の根底に息づいていたロシア正教
 宗教否定の旧ソ連も、目に見えない形で ロシア正教からの影響があった。その例えとして、レーニン廟(びょう)を引いています。
 ロシア正教には 「聖人は腐らない」 という教えがあって、レーニンの遺体を防腐処理して安置することによって、ロシアの民衆は 「聖人である証だ」 と考えるわけである。
 旧ソ連は、共産主義によって宗教を消し去ろうとしてが、根っ子の部分では宗教色は残っていたわけです。佐藤氏は、ソ連の共産国家について次のように述べています。
 
 佐藤 優  「宗教色がの残っていた」 というよりも、ソ連自体が、それまでにあったロシア正教を置き換えたものだったんですよ。 教会を共産党に置き換え、イエス・キリストを レーニンなり スターリンなりに置き換え、神を共産主義の理念に置き換え、「神の国」 を共産主義社会に置き換えた。 つまり、宗教的 イメージを政治的 イメージに置き換えることによって、ソ連という共産国家が成り立っていたのです。

 旧ソ連は、宗教否定の共産主義国家であったが、ソ連崩壊後は、あっという間に宗教が復興した。革命以来の七十年間に、ソ連では宗教が根絶やしになっている筈なのに実際にはそうなっていなかった。政治体制の如何よりも宗教のほうが、より深い次元では、根を張り息づいているものである。
 宗教の根強さを思っている時、仏教発祥の地 インドで、仏教が滅んでしまったことを、ふと思った。同じ宗教なのに、一方は残り、片一方は滅んだ。しかも、仏教の方が教えは高いにも関わらずである。

 少々余談になるが、滅亡に至る一番の理由は、小乗教の出家僧の堕落に始まる 釈尊の 「神格化」 にあるという。人間釈尊がいつの間にか、「神」 として崇(あが)め奉(たてまつ)られる存在になってしまった。
 ダイアモンドを磨くためには、ダイアモンドでしか磨けない。それと同じように、人間(弟子)の人格を磨くには、人間(師匠)が磨くのである。
 人は神にはなれないけれど、弟子は師匠と同格か、またそれ以上の境涯にもなれる。ここに、仏法が 「師弟不二」 を標榜する謂(いわ)れがある。
 それにしても、人間は自身を変革しょうとするよりも、自分以外の絶対者(神など)を想定して、その力にすがり恩寵(おんちょう)を受けようと願うもののようである。このような 既成宗教の信仰姿勢を、創価思想をもって正してあげなければならないと思う。

 「譬喩の力」 を SGI の世界宗教化に生かす
 「譬喩の力」 について 池田先生は、次のように述べられています。
 もし仏が 「私は十の何百乗年間という昔に仏になった」 と言ったとしても、弟子はそれを 「はい、そうですか」 と、受け身で聞くしかない。
 しかし “三千大千世界を粉々にして、一つの国土ごとに一粒ずづ落として……” と、「物語」 として聞けば、弟子はその長遠さを自分で イメージし、能動的に考えることができる。
 (法華経の智慧2巻・6P)
 つまり、単に知識を 「受け身」 で聞くのではなく、“自分で考える” といいう 「能動的な精神作用」 を促すことになると語られています。
 
 佐藤  「譬喩品」 の章で池田会長も、譬喩という言葉を広く解釈した次のような発言をされています。
 「生活のうえに現れる信心の実証は、妙法の功力を説明する 『譬喩』 です。 現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。
 四条金吾、池上兄弟など、大聖人門下が苦難を乗り越えた実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとって大きな激励となっています。(中略)
 この原理は、私たちにとっても同じです。 私たち一人一人の勝利の体験が、多くの人に勇気と希望をあたえる。 すなわち、その体験は、妙法の力を表す譬喩となっているのです。(中略)
 個別の体験は普遍の妙法の 『譬喩』 です。 体験中心の座談会は現代の 『譬喩品』 であり、現代の 『七譬』 であり、『無量の譬喩』 です」
 (「普及版」上巻・263~264P)
 これは池田会長らしい、実に巧みな説明だと思います。 『聖教新聞』 に日々掲載される信仰体験にみなぎる 「難を乗り越える力」 の源を、見事に浮き彫りにする言葉になっています。 

 佐藤氏は、『新・人間革命』 の中に書かれている譬喩ついて、次のように述べています。
 佐藤  池田会長が書き続けておられる 『新・人間革命』 も、創価学会史であると同時に、日本中、世界中の学会員、SGI メンバーの体験を集めた一大群像劇ですから、あのなかに描かれた多くの体験も、学会員の皆さんにとって “大いなる譬喩” であると言えそうですね。 つまり、さまざまな苦難に直面したとき、今の自分とよく似た苦難を乗り越えた体験を 『新・人間革命』 のなかに見いだせば、「そうか。 私もこんなふうに乗り越えればいいんだ」 と思える。 すなわち、“ごく近い将来、自分が苦難に勝利した姿の譬喩” として、その部分を読むことができるわけです。
 純粋な教科書・理論書からは、そのような体験は生まれにくいでしょう。 生身の人間の体験が集められた書物だからこそ、譬喩として機能し、自らの立場に置き換えて受け止めることができる。 その意味で、「譬喩品」 の章にあるとおり、
「ともすると、現実生活を離れた理論のなかに仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下(あしもと)の現実こそが仏法であるということを、法華経の譬喩は教えてくれている」 (上巻・263P) のです。 (同書・55P)

 以上、佐藤氏の発言の一部分を引用させて頂いているが、「希望の源泉」 等を読んでみて いつも思うことは、外部の方であるにも関わらず、私ごとき下手な学会員よりは、法華経・池田先生・創価学会等について、その本質的なところまで良く理解されていると、つくづく感心させられること大である。
 いまや、「世界広布新時代 拡大の年」 を迎え、諸天善神として “普賢菩薩の威神の力”(780P) を発揮されている方だ と思っています。
 これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。
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「希望の源泉」(11)(人間主義の宗教)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 11回は、「『人間主義の宗教』 とは何か?」 を考える であります。
 今回より 「信解品」 に入りますが、その前に、「森友学園」 の籠池前理事長の 「神道は宗教ではない」 という旨の発言に対して、「これは問題だ」 と感じたと言われています。 (第三文明・2017/6月・53P)

 「森友学園」 問題の背後にある、危険な萌芽
 佐藤 優  「神道は宗教ではない」 という発言の何が問題かと言えば、これが戦前の 「国家神道」 の論理、事実上の国教の論理であるからです。 国家神道体制をつくるにあたって、当時の政府は 「神道は宗教ではない」 とする 「神社非宗教論」 を打ち出し、それに基づいて 「宗教ではないのだから、仏教徒も キリスト教徒も神札を祀(まつ)りなさい」 と宗教統制を推し進めていったわけです。 その果てに創価教育学会も弾圧され、牧口常三郎初代会長が殉教されたことは、学会員の皆さんはよくご存じしょう。………
 「瑞穂(みずほ)の国記念小学校」 の最大の問題点は、国家神道回帰に結びつきかねない危険性にあったのです。
 ところが、籠池氏のこの発言を、大半のマスコミは完全にスルーしてしまいました。…… 日本のマスコミが、「政治と宗教」 をめぐる問題について鈍感であるという、一つの実例がここにあります。
 「神道は宗教ではない」 という考え方を放置し、それが政治の世界まで広がっていったら、その先はどうなるか? 
 森友学園問題の背後には、国家神道の再来につながりかねない危険な萌芽(ほうが)が潜んでいるということを認識しておいていただきたいと思います。


 森友学園が運営する幼稚園で、幼児たちに連日、教育の一環として 「教育勅語」 を暗唱させていたとのこと。時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。
 しかも、「教育勅語」 もよいこと書いているではないか。「靖国参拝」 も追悼のためだからよいのではないかと、可なりの人たちが そのように思っている。その上、時の総理からして、森友学園の教育方針に賛同して応援していたのである。
 このような状況は、佐藤氏の言うように “国家神道の再来につながりかねない危険な萌芽が潜んでいる” と、私も憂慮している一人です。

 「人間」 という最大の共通項に立脚した対話
 佐藤  この章の冒頭に、池田会長と ハーバード大学 「世界宗教研究センター」 所長(当時)の ローレンス・サリバン博士との対談が紹介されていますね。

 ――  ええ。『大白蓮華』 一九九三年五月号に掲載された 「21世紀の 『人間と宗教』 を語る」 という対談ですね。
 池田会長は
「その時、語りあったことが、この 『法華経の智慧』 の一つの底流にもなっている」 (「普及版」上巻・267P) と述べています。
 サリバン博士と池田会長の対談が 『法華経の智慧』 の 「一つの底流」 と言えるのはなぜかと言えば、そのなかで会長が 「人間主義の宗教」 という テーマを前面に出しているからです。
 たとえば、会長は 「何が真理かを決める主体は民衆です」 と述べています。 信ずる宗教を民衆の側が主体的に選ぶ 「信教の自由」 は大前提ですが、そこから一歩踏み込んで、「何が真理かを決める」 のも、聖職者や学者ではなく民衆だというのです。 聖職者・権力者が民衆に信仰を押し付けてきた 「宗教のための宗教」 の時代から、「人間のための宗教」 への転換―― それが 『法華経の智慧』 を貫く テーマの一つですが、サリバン博士との対談も同じ テーマだったのです。

 
 先生は “何が真理かを決めるのも、聖職者や学者ではなく主体は民衆です” と述べられています。
 このことは、御本尊についても同じことが言えると思います。即ち、受持する本尊を決めるのは、民衆の教団である創価学会なのである。
 いくら宗門が、法主の認可のない本尊は、ニセ本尊だと ほざいても、他教団のしかも法主詐称のニセ法主・日顕に、とやかく言われる筋合はないのである。
 創価学会員受持の御本尊は、由緒ある栃木県・淨圓寺の寺宝である、正真正銘の 第二十六世・日寛上人御書写の御本尊を、お形木御本尊にして授与されているのである。
 
 宗教間の 「人道的競争」 の重要性
 佐藤  牧口常三郎・初代会長は、『人生地理学』 のなかで、“世界は「軍事的競争」 「政治的競争」 「経済的競争」 の時代から、「人道的競争」 の時代へと移らなければならない” と訴えました。 宗教と宗教の 「自由競争」は、牧口会長の言う 「人道的競争」 の一典型でしょう。 宗教間対話も、その 「自由競争」 の一つの形です。
 ………
 日本から世界一九二カ国・地域に広がった SGI も、ある意味で 「拡張主義的」 ではありますが、SGI はきちんと多元主義的な価値観を担保し、対話する相手の人格を尊重して、いわば “正しい拡張主義” で 「自由競争」 に臨んできました。
 なぜ そう言えるのか? 一つには、各国の SGI 組織がその国の社会に溶け込み、敵対的になることなく平和共存しているからです。
 そしてもう一つは、過去に創価学会が最も敵対的関係になった相手である日蓮正宗宗門との間で死者が発生していないからです。 これは私から見ると非常に重要なことで、創価学会/SGI が平和団体であるという一つの証左であると思います。
 ………
 日蓮自身も、鎌倉時代という武士たちの時代、暴力が満ちた時代に生きながら、権力や暴力に頼らない平和的な宗教の自由競争に徹しました。……
 創価学会/SGI は、日蓮が布教に臨むこのような姿勢を範として、「人道的競争」 で平和的な布教を進めてきたのです。……
 それは、創価学会が相手の暴力性を無化し(むか)てしまう力を持っているからだと思います。 創価学会の平和主義が本物であるからこそ、そうした 「力」 が生まれるのです。
 「民衆が主体」 の宗教であることの大切さが語られた 「信解品」 の章を読んで、私はあらためて、創価学会の 「平和宗教としての強さ」 を考えさせられました。


 佐藤氏は、過去に創価学会が最も敵対的関係になった宗門との間で、一人の死者も出さなかった。そのことの重みは、もっと強調されて然るべきだ と語れています。男子部の頃、我われの戦いは “慈悲と道理による無血革命である” と よく聞かされていたから、死者が出ていないことは当然で、別段・気付きもしなかった。
 しかし、いまの世界を見ると、リビア・イラクやフイリピンまでも I S がらみの暴力が、世界に広がろうとしている情勢である。このことを思えば 創価学会の 「人道的競争」 において、平和的・非暴力的に徹してきた闘争方針の確かさは称讃に値するものと言えます。
 この仏法の平和的・人間主義の哲理は、「涅槃経」 の 「一切衆生悉有(しつう)仏性」(一切衆生に悉く仏性有り) の経文であります。
 日蓮大聖人は、「法華経」(普賢品第二十八)の 「当起遠迎(とうきおんごう)当如敬仏(とうにょきょうぶつ)」 の文を釈して、「当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」(781P) と仰せです。
 人類はみな等しく、掛けがえのない生命(仏性)を持っています。お互いに尊敬すべきことを説く、創価の 「人間主義」 の思想を、全世界に一刻も早く広めなければなりません。「世界広布新時代」 の拡大を強く祈念するものであります。 

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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