希望の源泉」(13)(慈悲と智慧)

 「希望 源泉」(池田思想を読み解く)の第 13回は、慈悲と智慧は行動のなかにこそ表れる であります。  (第三文明・2017/8月・53P)
 今回から 「薬草喩品第五」 の章になります。 この章は、仏の 「慈悲」 が大きな テーマになっています。仏教の 「慈悲」 と キリスト教の 「博愛」 の違いについて、述べられています。

 「慈悲」 と 「博愛」―― その共通項と差異 
 佐藤 勝  実は、キリスト教に 「博愛」 という概念は希薄です。 「博愛」 とはすべての人間に平等に向けられる愛ですが、個々の キリスト教徒がそのような愛を持つことは、そもそも期待されていません。 「隣人を自分のように愛しなさい」 という教えですから、愛の対象は自分の目の届く範囲なのです。 自分と具体的な関係性を持った相手に隣人愛を向けよ、という教えであって、抽象的な愛、全人類に向けての博愛ではないのです。
 それは なぜかというと、キリスト教は 「世界の終わりは近い」 という危機意識のもとに成り立っているからです。 “限られた時間のなかで、一人でも多くの人を救わなければいけない” ということで、愛の実践も個別具体的にならざるを得ないわけです。


 キリスト教の 「博愛」 は、自分と具体的な関係性を持った相手に対してのみであり、全人類や生きとし生きるものすべてに対するものではないのですね。 勉強になりました。
 
 佐藤  この 「薬草喩品」 の章は、仏教とキリスト教の共通項と差異を考えるうえでも示唆(しさ)に富む内容となっています。 たとえば、『法華経』 「薬草喩品」 では仏を 「一切知者」 ――(一切を知る者) と呼んでいますが、そのことに触れて、キリスト教における神の 「全智」 と比較して、池田会長は次のように語っているのです。
 「キリスト教の場合は、創造神の完全な智慧を全智といっているようだ。 万物は神によって創造されてものであるから、神は一切を知っているというのです。
 仏の一切知はそういうものではありません。 さまざまな解釈があるが、私は、あくまでも衆生を救おうとする慈悲ゆえに、その衆生のことや説くべき法を知り尽くす智慧が、仏の一切知であると思う。 いわば 『慈悲と一体の智慧』 です。
 その点から、『ミリンダ王の問い』 という仏典に説かれている解釈に心引かれる。 それは、仏は知りたいものに 『傾注(けいちゅう)』 するゆえに、一切を知ることができるというものです。 あらかじめ全部を知っているというのではないのです」
 (法華経の智慧 2巻・100P) 
 
 仏法でも、仏の “一切知” を説くが、仏はもともと人間であるから、初めから全知全能であるなんて、そんなことは言っていない。
 ただ、大慈悲心のあるゆえに、衆生を救うことに心を傾ければ、その衆生を救うために必要な一切のことが分かるというのです。すなわち “慈悲と一体の智慧” なのです。

 佐藤  そのように、キリスト教の 「愛」 と仏教の 「慈悲」 には共通項もありますが、大きな違いを挙げるとすれば、キリスト教が立脚するのは、「アンチ・ヒューマニズム」 であるという点でしょう。 これは誤解されがちな点ですが、キリスト教はヒューマニズムと相いれません。 キリスト教では 「原罪を持っている人間には限界があり、弱いものである」 と捉えるので、人間を手放しで肯定する ヒューマニズムは否定されなければならない、と考えるからです。
 つまり、人間そのものは評価しない。 しかし、イエス・キリストと触れ合うことによって、弱いものである人間に変容が起きる、という考え方なのです。 その点が、人間を価値ある存在として肯定する仏法の 「人間主義」 とは、本質的に異なるわけです。


 ヒューマニズムとは、“人間主義・人道主義” などと訳されるが、キリスト教の立脚点が “アンチ・ヒューマニズム” である、とは 私も、誤解するところでした。
 仏法の 「一切衆生悉有仏性(一切衆生に悉く仏性有り)」(425P)「一色一香中道に非ざること無し」(1339P) 等、人間のほかにも、非情の草木や小石等までも生命(仏性)が有ると捉える、仏法哲理の深遠さ・素晴らしさに思いを新たにしました。

 「自力」 と 「他力」 バランスの重要性
 佐藤  私は創価学会と池田会長について学ぶなかで、仏教を 「他力」 の教えと 「自力」 の教えに二分することは間違いではないかと考えるようになりました。 実際は 「他力即自力」 「自力即他力」 であって、自力と他力という分節化を超えていくことが、仏教本来のありようなのではないか、と……。
 慈悲と智慧についてもそれはしかりで、仏が衆生を一方的に救う 「他力」 でもなければ、一方的な 「自力」 でもないんですね。


 日蓮大聖人も 「今の法華経は自力も定めて自力にあらず」 「他力も定めて他力に非ず」(403P) と仰せです。
  参考:「他力と自力」 ―→ ここから

 池田会長は、米ハーバード大学の講演 「21世紀文明と大乗仏教」 で、次のように述べています。
 「そこでは二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう=さそい勧める)されているからであります。
 ………
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。 他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。 しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである」
と。

 念仏宗のような 「他力」 オンリー、禅宗のような 「自力」 一辺倒では、駄目なのである。
 生命は十界互具であり、多様性があります。そこへ片一方へ偏った邪教を信ずると、自己の生命に歪みが生じてきます。その歪みが不幸の現証として現れてくるのである。
 それには、円教、円満経と言われる 「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊」 に南無し、その歪んだ生命を自分自身で、円満になるように正す以外にないのであります。 

 佐藤  それから、「薬草喩品」 の章の池田会長の次の発言は、宗門と創価学会の 「慈悲と智慧」 の違いを考えるうえでも示唆的だと思いました。
 「どんなに 『自分は悟っている』 と言ってみても、振る舞いが無慈悲であれば、ウソ なのです。 智慧は見えない。 その見えない智慧を推し量る目安は行動です。 仏の出世の本懐は、どこまでも 『振る舞い』 なのです」 (同書・103P)

 特に、阿部日顕などは法主という地位にありながら、中啓(ちゅうけい= 親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように作った扇)で、所化小僧の頭を叩く “中啓パンチ” は有名である。
 いくら言葉で慈悲と智慧を説いても、無慈悲であれば むなしい限りである。慈悲がなければ邪智になり、かえって、人を傷つけてしまい、人材育成など思いの外のことである。
 大聖人は 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174P) と仰せです。
 本当の悟りを得た人は、一切衆生の幸福と安穏を願う 無量の慈しみの心を起こすのです。そうでなければ眞の悟りとは言えないのです。
 仏の眞の悟り、真の智慧は、無量の慈悲と一体なのです。 その “「慈悲と智慧」 は、行動・振る舞いのなかにこそ表れる” のであります。
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教育勅語について

 毎年、終戦の 8月を迎えると、戦争の悲惨なる体験が語られ、異口同音に “絶対に、二度と戦争はしてはならない” と決意を披歴しています。戦争を忘れ去らないためにも、戦争体験の継承は、大事なことで絶対・必要不可欠であると思っています。
 しかし一方で、なぜ、無謀なる戦争をしてしまったのだろうか といつも思います。この戦争に至った原因を究明し、断罪せずしては、片手落ちで真の平和教育・学習にはならないと思います。

 思えば日本民族は、もともと農耕民族ですから 狩猟民族と違って、好戦的な民族ではありません。
 江戸時代の約 260年間、一揆の鎮圧を除いて、戦争らしきものは一つも無く 平和な時代でした。この時代に、日本独自の文化が花ひらき、今では、数多くの外国人が、日本文化に魅力を感じて来日しています。

 ところが、明治維新以後、一通り見ただけでも、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、第一次大戦、満州事変・日中戦争、太平洋戦争と、終戦までの約 80年間、戦争をやってやりまくっている。
 平和を愛する民族が、なぜ、これ程までも変わったのでしょうか

 私はその第一の理由は、明治政府が、国家の精神的支柱として 「国家神道」 を護持し、実践したことであると思っています。
 この点は、既に ブログに記しているところもありますので、よろしければご参照ください。

  参考: 「8月15日」――→ ここから
  参考: 「歴史の歯車」―→ ここから
  参考: 「神道の国教化」→ ここから
  参考: 「靖国神社」――→ ここから

 第二に、国の教育方針を、「教育勅語」 に則り、国民を好戦的な軍国主義者に仕立て上げた からだと思います。
 先だって、森友学園関連の幼稚園で、園児に 「教育勅語」 を暗誦させていた とのことです。全国的には、ほかにも教材として使っているところが 結構あるようである。 知らないうちに、じわじわ広がってきているようだ。
 このような状況は、「国家神道」 の再来に繋がりかねない危険な萌芽が潜んでいる と思います。
 ゆえに今回は 「教育勅語」 について考えてみたいと思います。

 教育勅語の読み下し文、途中からです。(抜粋)
 爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。 以下略

 現代語訳です。
 あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友とは信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくし、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳を積み、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。

 はじめに、「爾(なんじ)臣民」 とありますが、「臣」 とは 「主君に仕える者、家来」 という意味で、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の考え方であり、現代の日本国憲法の主権在民とは相いれない言葉なのです。

 次の 「父母に孝行し、兄弟は仲良くし、…… 法律を守り」 のここまでは、国民のなさねばならない徳目である。
 道徳論として当たり前のことだが、これがあるからと言って “勅語も良いこと書いてあるとか、教育方針として取り入れるべきだ” などという人もおるが、教育勅語の一部分ではなく全体を見て、どのような人間を育成しようとするのか、見極めなければならない。

 「もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けよ」 と、この一行の文によって、どれだけの若者が一兵士として、特攻隊員として犠牲になられたか、計り知れないのである。

 教育勅語の目的は、天皇の国家の 「忠良な臣民」 を作ることです。
 本当の国家は 「国民の幸福と安穏のためにある」 はずである。 それがここでは 「国民は天皇の国家のためにある」 という考えになっている。
 「国家神道」 の “八紘一宇(はっこういちう = 世界を一つの家とする)” という思想のもと、天皇を頂点とする “大東亜共栄圏” の構想を正当化し、天皇のために戦うのが正義であり、大義であると教えた。そのためには、他国への侵略戦争も、正義の戦争となり、聖戦と言われたのである。
 特に、満州事変以後の十数年間、ひと時の休みもなく、戦争をやりまくり、挙句の果てに亡国となったのである。

 国民を天皇の 「忠良の臣民」 とみなし、もし危急なことがあったら 「皇室の命運を助ける」 ことを、国民の義務として教える 「教育勅語」 が、主権在民を柱とした日本国憲法の精神に反することは明白であります。
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「希望の源泉」(14)(変わるのが「生きた宗教」)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 14回は、変わり続けることが 「生きた宗教」 の証し であります。  (第三文明・2017/9月・53P)

 はじめに、東京都議選の公明の完全勝利を喜ばれています。氏は 「自民党都連と決別し、都民ファーストとの共闘を選んだとき,快哉(かいさい)を叫びまいた。自民党の驕(おご)りと、『創価学会は多少雑に扱っても協力してくれるだろう』 とでも言いたげな “甘えと緩(ゆる)み” を感じていたからです」 と語っています。

 「成仏へと向かう軌道」 のなかに仏がある
 ――  この章のもう一つのポイントとして、「成仏」 についての考察があります。
 「薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。 この説法を天台は 『述成(じゅつじょう)』 と位置づけています」 という解説を受けて、池田会長は次のように述べています。

 「何のために 『述成』 あるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、『成仏に至る菩薩道に間違いなく入った』 ことを、はっきりさせるためです。(中略) 『間違いなく成仏への道に入った』 ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです」 (法華経の智慧 2巻・85P)
 ………
 要するに、成仏とは、“ゴールに到達してそこにとどまる” ことではなく、“成仏へと向かう軌道に入ったこと” それ自体が成仏なのだ、という捉え方ですね。

 一般的には、成仏を目指して修行し、成仏という ゴールに到達すれば、目的達成で そこに居続けられる、という イメージがあると思います。 じつは、「仏」 という一つの固定された実態があるのではなく、成仏へと向かう菩薩道に間違いなく入ったこと、それ自体が成仏なのである。 言うなれば、菩薩道という “軌道・プロセス” のなかに 「仏」 がある、というのです。

 佐藤 勝  『法華経の智慧』 で展開されている成仏観は、もっと動的で生成的です。 成仏を軌道として捉えるからこそ、そこでいう仏には悩みも葛藤もある。そして、その悩みや葛藤を悠々と乗り越えていく プロセスそのもののなかに、仏としての智慧が躍動するのだという考え方なのだと思います。
 「仏」 というと、現実世界に生きるわれわれとは次元の異なる存在である、という イメージを持つ人のほうが多いのでしょうが、創価学会における 「仏」 はそうではないのですね。 むしろ、衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である、と。
 これは誤解を招きかねないので慎重に言葉を選ばないといけませんが、私のような外部観察者から見れば、池田会長のような方こそまさに 「仏」 だと感じますね。


 佐藤氏は “衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である” とまで言ってくださっています。そして、池田先生を “「仏」 だと感じますね” と。 総じていえば、広宣流布に戦う 我ら学会員は、すべて 「仏」 なのであります。
 日寛上人曰く 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」 と。 (文段集・548P) 

 テキストだけを絶対視する危険性
佐藤  成仏を 「生成の過程」 と捉えることに敷衍(ふえん)して言えば、池田会長の数多い著作もまた、その 「生成の過程」 のなかにあるものとして捉えるべきだと私は考えます。 というのも、何十年も前の池田会長の著作と近年の著作を比較して、細かな差異をあげつらって批判する人が、ときどきいるからです。 その時代時代に応じた文脈というものがあるのですから、部分的に主張が変わったとしても、創価学会は 「生きた宗教」 であるので、むしろ当然です。
 ………
 もちろん、一貫して変わらない根幹の部分はあるにせよ、変わってよい部分は柔軟に変わってきた。 その変化それ自体を 「変節」 や 「迎合」 と捉えて批判する人は、「生きた宗教」 とはどういうものであるかがわかっていないのだと思います。


 「生きた宗教」 の テキストは、時代に応じて変化していくことは当然である。
 氏は キリスト教の テキストの聖書もこれまで何十回も改定を繰り返してきている。 これも 「生きた宗教」 である一つの証である と語られている。
 また、創価学会が会則改正したとき、60年前の戸田先生の “弘安2年の御本尊” に関する指導を引き合いに出して、“今の学会指導は間違いである。けしからん” と批判する者も居たのである。
 戸田先生の時代は、日蓮正宗の教義を受け入れて、宗教法人格を取得し、広布の戦いをしていた。 今は破門され 別団体となっており、当時の状況とは まったく変化しているのである。
 そうであるからには、他教団の本尊や教義を信奉しなければならない謂れは一切ないのである。

 佐藤  また、創価学会には 「人間主義」 が根底にあるからこそ、「目の前の一人に、もっとわかりやすく法を説きたい」 との思いから、テキストを変えてよい部分は柔軟に変えることができる、とも言えます。 信仰においては、人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう。

 “人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう” と。 これこそが、創価の 「人間主義」 の考え方であると思います。
 ゆえに、大聖人の 「御書」 といえども、文字面に執着し、絶対視するのは間違いのもとになる場合がある。
 たとえば 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(328P) とあるからと言って、インド応誕の釈尊を本尊とすることは、大聖人の御正意に反します。

 次元が異なる文献学的真実と信仰
 ――  いわゆる 「大乗非仏説」(法華経などの大乗経典は釈尊の直説(じきせつ)ではなく、後世に作られたものだ、とする説) が仏教界で定説になっていても、そのことによって信仰が揺らぐわけではないのと同じですね。
 佐藤  そうでしょうね。文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから。 そこを混同してしまったら、それは信仰者ではなく学者の目線になってしまいます。

 歴史上の “文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから” と。
 経文なぞ、むしろ 文献学的真実と違ったり、証明ができないのが多々あるのである。これは次元の違う問題であると、心に銘じて、自身の信仰心がふらつかない様に気を付けましょう。
 すでに、この シリーズで “法華経は直説か創作か” という関連ブログがありますので参考にしてください。

  参考: 関連ブログ ―→ ここから
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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