戸田先生の生命論 (4)(生命の連続)

 最後の 「生命の連続」 の章は、「生命は永久であり、永遠の生命であるとは、人々のよく言うところであるが、この考え方には、いろいろの種類がある」 と述べられ、2~3の例題をあげられて、それらはみな不正確な生命観であるので、「こんな観念論的な永遠は吾人のとらないところである」 と述べられている。

 寿量品の自我偈には 「方便現涅槃」 とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない。
 
 『観心本尊抄』 では、十界について、次のようにのべられている。
 「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平(たいら)に或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は謟曲(てんごく)なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・謟曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり (乃至) 世間の無常は眼前に有り豈(あに)人界に二乗界無からんや、無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し」云云。(241P) 

 われわれの日常生活における心の状態を、よくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪りとか、よろこびとか怒りである。そして、二つの念が一時に起こることは、けっしてありえないのである

 このように、本尊抄の十界の文を引かれて、我われの日常生活上に起きる種々の生命情況を、仏法の 「空観」 をもって、次のように解かりやすく説明されています。

 われわれの心の働きをみるに、よろこんだとしても、そのよろこびは時間が立つと消えてなくなる。そのよろこびは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへとけこんで、どこをさがしてもないのである。

 しかるに、何時間か何日間かの後、また同じよろこびが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。

 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないとすれば、あらわれてくる。

 このように、有無を論ずることができないとする考え方が、これを空観とも妙ともいうのである。この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索してこれを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

 前にものべたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみの間に何もなかったように、よろこびと、よろこびの間に、よろこびがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であると言いきれないのと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。

 この死後の大生命にとけこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に写る生命活動となってあらわれてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。

 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永遠の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人おのおの、ことなっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない。ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を信ずるもののみが、永久の親子であり、同志である大功徳を、享受しているのである。


 池田先生は、『法華経の智慧』 の中で、次のように述べられています。
 名誉会長 戸田先生はよく 「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶けこむんだ」 と言われていた。霊魂ではなく、色心不二の生命そのものが大宇宙に帰っていく。
 
 大宇宙そのものが、一つの大生命です。大生命の海です。あらゆるものを育み、あらゆるものを生かし、働かせ、死せるあらゆるものを、再び、その腕に抱きとって、新たなエネルギーを与えていく。満々とたたえられた大生命海がある。その海は、常に動いている。動き、変化しながら 「生」 と 「死」 のリズムを奏でている。

 私たちの生命も、大宇宙という大海から生まれた 「波頭」 のようなものです。波が起これば 「生」、また大海と一つになれば 「死」 です。永遠に、これを繰り返していくのです。人間の生命だけではない。 

 日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」(1336P) と仰せです。
 「天地・陰陽・日月・五星」 とは、いわゆる天体の世界でしょう。星にも誕生があり、死がある。寿命がある。一つの銀河にも誕生がありい、死があり、寿命がある。生死の二法です。ミクロの世界も同様です。また地獄界から仏界という 「法界」 にも生と死がある。あるときは生の地獄界となり、あるときは死の地獄界となる。
 また大聖人が門下の南条時光のお父さんについて、「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504P) と仰せのように、即身成仏の仏果は死をも超えて続く。全宇宙のありとあらゆるものが 「生死の二法」 の永遠のリズムを織り成しているのです。
  (法華経の智慧・4巻・331P)

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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