「生の仏」 と 「死の仏」

 聖教新聞の連載小説 「新・人間革命」 には、いま “厚田” の章が載っています。
 厚田とは、戸田城聖先生の故郷である厚田村(現在の石狩市厚田区) のことである。この厚田の地に、1977年(昭和52年)、恩師の名を冠した 「戸田記念墓地公園」 が完成した。9月30日、その式典の出席とその後の一連の行事のようすが載っている章であります。

 10月3日、園内の戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。追善法要のあいさつで、先生は、日蓮仏法の死生観について指導されています。

 『上野殿後家尼御返事』 に、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』云云」(1504P) と仰せです。

 大聖人は、「生死ともに仏」 であると述べられています。この点について池田先生は、
 「なぜか ―― それは、広宣流布のために、この世に馳せ参じた私どもは、御本仏・日蓮大聖人の真の弟子であり、地涌の勇者にほかならないからであります。大聖人と同じく法華弘通の大願を起こし、友の幸福のために広宣流布に奔走してきたことは、自身が仏であり、地涌の菩薩であることの証明であります。広宣流布は、仏、地涌の菩薩のみが成し得る聖業だからです。
 そして、“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない。折伏が大好きである。唱題するのが嬉しくて仕方ない。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる。生きていること自体が喜びである” というのが、成仏の境涯であり、『生の仏』 の姿なんです」

 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就くようなものです。時が来れば、また生まれてきます。
 死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩の境涯のまま、『死の仏』 となるんです。
 生きている時は、『生の仏』 であり、亡くなってからも 『死の仏』 となる ―― それを日蓮大聖人は、『即身成仏と申す大事の法門』 といわれているんです。
 さらに大聖人は、法華経見宝塔品の 『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』 の文を引かれています。正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ、一生成仏の根本要件なんです」
 (聖教2012年8月・厚田・42・43)
 
 以上、「生の仏」・「死の仏」 につて述べられていますが、一般の方々は 「生の仏」 について、なかなかスッキリと納得がいかないのではないかと思います。それは、貪・瞋・癡の三毒の煩悩にまみれ、罪障深き我が身が、とうてい 「仏」 だとは思えないからである。

 それどころか 「死の仏」 の方は、“死ねば極楽浄土に往生して仏に成る” という浄土宗の邪見に、日本の民衆は長い間、命の中にすり込まされてしまっている。
 死ねば仏に成るのならば、仏道修行も何もやらなくてよい。今世で苦悩にあえいだ者が、死んだら直ちに来世で仏に成るなんて、因果の理法に反する邪見である。邪宗邪義に騙されてはならない。
 死して 「死の仏」 となるには、今世において 「生の仏」 とならなければならないのである。

 大聖人は 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P) と仰せです。
 「本仏」 すなわち、本当の・真実の・実在する仏とは、「凡夫」 すなわち、生きている・実在する人間以外にいないのである。
 「迹仏」 すなわち、影の・仮の・用の仏とは、「仏」 すなわち、一般の諸宗が本尊としている、阿弥陀・大日・薬師仏などである。これらは、衆生を導くために説かれた理論上の仏たちで、権仏とも言われている。
 
 したがって、拝む対象物であるそれらの 「本尊」 には、真の仏の生命(仏界・仏性) はないのである。では、どこにあるのかと云えば、他ならぬ我が身(生命) の中にあるのである。

 ゆえに大聖人は、「都(すべ)て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり」(383P) と仰せられている。
 この一点を外して、成仏も得道もないわけである。これを知るを 「法華経の心」 を知るというのである。

 それでは 「仏の生命」 は、どこに現れるのかい云えば、それは何か、今までと別な姿かたちになるものでもなく、特殊な通力のような能力を発揮するものでもありません。

 池田先生は、「“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない (歓喜)。折伏が大好きである (慈悲)。唱題するのが嬉しくて仕方ない (智慧)。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる (生命力)。生きていること自体が喜びである (成仏の境涯)” というのが、『生の仏』 の姿なんです」 と指導されています。

 それは、日常の生命活動の中で、智慧や慈悲や歓喜等となって、わが身の振る舞いの上に現れるものなのです。ゆえに、「一生成仏」・「即身成仏」 といわれる訳であります。
 このように、「生の仏」 なくして 「死の仏」 はないのである。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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