戸田先生の悟り (10)(末法の悟り)

 戸田先生の悟りを通して、成仏とは 「虚空会の儀式」 に参加したことを、思い出すことであると学びました。それはまた、そこに “自身の根源” “生命の故郷” “永遠の宇宙生命” という、万人に共通する生命の基盤があり、それを悟ることになるわけです。

 しかし、末法の我ら衆生、普賢・文殊の智慧もなく、理即・但妄(たんもう) の凡夫が、どうして久遠を思い出すことが出来るのでしょうか。
 そこで日蓮大聖人は、大慈悲を起し 「虚空会の儀式」 を用いて、その内証のご境地を 「御本尊」 としてご図顕なされました。

 『本尊抄』 に 「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめ給う」(254P) 
 『経王殿御返事』 に 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P) 
 『阿仏房御書』 に 「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、……出世の本懐とはこれなり」(1304P) と仰せです。

 上記のように、大聖人は末法の衆生を哀れみて、たとえ智慧や能力がなくても、直ちに 「霊鷲山の会座」 に参加できるように、「御本尊」 を顕わしてくださいました。
 しかし、“親の心、子知らず” で、これほどの大御本尊を 「而謂不美」〈美(うま)からずと謂(おも)えり〉(寿量品) といって、信じようとはしないのである。それもその筈、このような重大な意義が、理解できないのである。

 『法華経譬喩品』 に 「汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以って入ることを得たり 況や余の声聞をや 其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず」 とある。

 そもそも法華経は、仏自身の内証の悟りをそのまま説き示した “随自意” の経なるが故に、あの智慧第一と謳われた舎利弗でさえ、迹門の諸法実相の理を理解することはできなかったのである。況や、本門の久成や文底秘沈の大法など、思いも寄らないことである。

 しからば、どうすれば良いのか。それは舎利弗のように、「信」 をもって入り 「慧解」 を得る以外にないわけです。このことを 「以信代慧」〈信を以って慧に代(か)う〉 とも言います。
 『四信五品抄』 に 「慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」(339P) と仰せです。
 この 「信解」 ついて、池田先生は次のように述べられています。

 名誉会長 法華経が 「信」 を強調する理由を、生命次元でいえば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち 「元品の無明」 を断ち、「元品の法性」 すなわち “本来の自己自身を知る智慧” に目覚めることにある。この法性を “仏性” “仏界” と言ってもよいでしょう。
 
 ところが、これは生命のもっとも深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて “仏性” “仏界” は、自身の生命に顕現してくるのです。

 大聖人は 「此の信の字元品の無明を切る利剣なり」(725P) と仰せです。「信」 は 「開」 であり、「疑」 は 「閉」 です。
 妙法に対して自身を開けば、妙法が自身に開かれるのです。だからこそ 「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人) なのです。「信」 も仏界、その結果の 「智慧」 も仏界です。

 宇宙根源の 「法」 を、その宇宙の一部である人間の小さな頭でつかむことはできません。その 「法」 が自身の生命に顕(あらわ)になるように心身を整える以外にないのです。
 そのための妙法への 「信」 であり、「帰命」 です。大聖人は 「信は不変真如の理なり」 「解は随縁真如なり」(725P) と仰せです。帰命でいえば、信は 「帰」、解は 「命」 です。

 妙法を信じ、妙法に 「帰する」 ことによって、妙法が自身の上に顕現し、妙法に 「命(もとづ)く」 生命となるのです。妙法が躍動する生命になった証が、隨縁真如の 「智慧」 であり、信解の 「解」 です。
 「信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」(725P) と仰せの通りです。

 その意味で、信と解は対立するものでないことはもちろん、信が解を支えるというだけの静止的なものでもない。
 本来、一体のものであるが、あえていえば、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める 「解から信へ」 ―― この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが 「信解」 の本義といえるでしょう。

 そう考えれば、梵語の 「アディムクティ」 が 「志」 とも訳せることは興味深い。成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯、―― それが仏界です。人間として限りなき向上へ。その 「志」 に進む両輪が 「信」 と 「解」 なのです。
 (法華経の智慧第2巻・77P)

 『日女御前御返事』 に 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」(1244P)
 『御義口伝』 に 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」(740P) と仰せです。

 このように、御本尊に帰命し “南無妙法蓮華経” と唱え奉ることが、日々瞬時に “此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり” と同じことで、「虚空会の儀式」 に参加していることになります。
 そう考えれば、“三大秘法の大御本尊を信ずる” ことが、我ら衆生の 「末法の悟り」 となるわけであります。

  「法華経の悟り」 について、池田先生は次のように指導されています。
 名誉会長 「悟り」 というと、前世がわかるとか、未来世が見えるとか、何か神秘的なことを思い浮かべるようだが、決してそうではない。そんなことを軽々しく言う人は、まやかしと思って間違いない。戸田先生は、おっしゃっていた。「末法の悟りとは何か。それは御本尊を信じきるということだ」 と。
 どんなことがあっても御本尊を疑わない。いちずに信じきっていく。これが 「末法の悟り」 です。「信心」 即 「悟り」 なんです。

 ………
 名誉会長 もちろん戸田先生には戸田先生の不可思議の境地があられた。しかし、それは、だれよりも強い 「御本尊への絶対の確信」 と一体だったのです。大確信そのものだったのです。  (法華経の智慧第四巻・27P)

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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