法華経の心(4)(三毒の煩悩)

 次に、功徳を消す信心の姿勢としては、愚痴や言いわけが、ついつい出てしまうことである。
 この “愚痴” とは煩悩の一つで、その中の根本的な三毒の煩悩、すなわち 「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」 の中の癡(おろか) にあたります。
 
 『観心本尊抄』 に、十界のなかの六道を説明しているところで、
 「瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(241P) と仰せです。

 「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生」 と、この “三毒” は、即・「地獄・餓鬼・畜生」 の “三悪道” に対応しています。
 したがって、愚痴は畜生の命から起こると言うことです。畜生の心は、強きものには卑屈になり、弱きものには傲慢となり、そのうえ、ものの道理を弁えず本能ままに行動する 等のことです。

 『御義口伝』 に、この三毒の煩悩から三災が起こることについて、
 文句四に云く 「相とは四濁増劇(ぞうぎゃく) にして此の時に聚在(じゅざい)せり、瞋恚(しんに)増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍(ますます)隆(さか)んに諸見転(うた)た熾(さか)んなり」(718P) と仰せられています。

 怒りの心から争いごとが起こり、欲望の心から飢餓が起こり、愚かな心から病気が起こると言うことです。
 愚かさが病気になるとは、例えば、肉が好きだから肉ばかり、甘いものが好きだからケーキばかりと、好き勝手に食べれば、病気になるのは必然である。食事一つをとっても、理知的であらねばならない。
 そうであるのに、偏見や邪見の愚かな心で事に処すれば、そのものの生命が本来の正しいリズムの軌道から外れ、歪みが出てくる。これゆえに、愚痴が病気の原因となるのである。

 『御義口伝』 に、三毒の煩悩の病を治す方法について、
 「されば妙法の大良薬を服するは貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲(とんよく)の病を除くなり、法華の行者は罵詈(めり)せらるれども忍辱(にんにく)を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡(ぐち)の煩悩を治するなり」(755P) と仰せです。

 このように、根本的には 「三大秘法の大御本尊」 に帰命する以外には無いわけです。
 御本尊を信じる者は、謗法の供養を受けることはない。このことは金儲けのために、法を犯したり無節操であってはならないと言うことである。これは “貪欲の病” を除くことになるのである。
 いかに悪口罵詈されても、忍辱の鎧を着て折伏を行ずることは、“瞋恚の病” を除くことになるのである。
 『如来神力品第二十一』 に、「是人於仏道 決定無有疑」(是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん) とあります。御本尊を信ずることによって、即身成仏が出来ることを覚知することは、“愚痴の煩悩の病” を治すことになるのである。
 しかしながら、御本尊を持っていながら愚痴がでることは、まだまだ、確信が足りないというものであろう。「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と仰せであります。

 池田先生の 『一生成仏抄講義』 の 「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(383P) のところの講義のなかに、「愚痴・不信」 についての御指導がありますので、ご紹介させて頂きます。

 さらに、「漠然たる不信」 「グチ」 「文句」 も排していきたい。
 妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある。この不信の根底には 「元品の無明」 があります。
 現実の信心のあり方において言えば、「仏性といっても理想に過ぎないのではないか、現実は変わらないのではないか」 との不信感は、確信なき祈りや漠然とした祈りとして現われてしまう。中途半端では、当然、一念の転換も、生命の変革もありません。
 
 本抄に 「深く信心を発(おこ) すべきなり」(383P) と仰せのように、一生成仏のためには、信心と祈りを深化させていく必要があります。そして、信心の深化は確信ある具体的な祈りとして現われてきます。
 一生成仏の信心における唱題行にあっては、我が一念を定めることがどこまでも重要となります。
 弓で矢を射る時に的を定めなければ、弓を引く力もこもりません。同じように、「…… したい」 という漠然たる思いから、「必ず …… するのだ」 という確信ある祈りを決定してこそ、祈りは成就するのです。

 この 「漠然たる不信」 に通じる門として 「グチ」 や 「文句」 があります。グチと文句は、よくないと分かっていても、つい出てしまう場合があります。グチや文句が自分の習性となれば、絶えず自身の成長のブレーキとなって、前進を忘れてしまう。それは、自分自身の可能性を自ら閉ざすことになり、結局は、「己心の外に法あり」 の姿勢になっていまいます。
 凡夫にとってグチや文句を消すことは難しいかもしれませんが、それを上手に操り、前進へのバネとすることが、妙法の智慧です。
  (一生成仏抄講義・72~74P)

 先生は、“妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある” と、仰っています。
 “自他の生命に仏性が内在する” という 「法華経の心」 を、知らなかったり・信じなければ、自身の一生成仏は叶いません。
 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751P) と、この 「愚痴・無明の心」 を断破すべく、南無妙法蓮華経の智慧を持って、信行に励んで参りましょう。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

岡本さま

 ご質問について、私の考えをに述べさせて頂きます。
①の件ですが、お題目の時間や早さについては、御書の中にも御指導はありません。
 時間が限られているからと、数上げるために早口で唱える必要はありません。
 時間内で普通通り、一念こめて唱えればそれで良いと思います。

②の件ですが、車中で誦の題目を唱えているそうですが、大変良いことですので、そのまま続けて下さい。
 勤務状態にもよりますが、日ごろお家の御本尊様に、お題目をあげておりますならば、別に「お守り御本尊」をお願いする必要はないと思っています。
 
 以上、簡単ですが、ご参考になれば幸いに存じます。        
                              谷
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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