法華経の心(5)(種・熟・脱)

 「法華経の心」 と言うことでありますが、日蓮大聖人が 「法華経の肝心」 と仰せられた御書があります。
 それは 『秋元御書』 に、「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072P) の御金言であります。
 
 「種・熟・脱」 とは、下種・調熟・得脱のことで、仏が衆生を悟りに導く化導の始終を三段階に分けたものである。
 『曽谷殿御返事』 に、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056P) と仰せられていますように、植物の生長過程になぞらえて、どのようにして調熟し成仏していくのか、その過程を明らかにしたものです。

 「種」 とは、衆生の心田に仏になる種子を植える(下種) ということで、仏法に縁した最初をいう。
 「熟」 とは、その下種された種子に手を入れて、次第に生長させ機根を調えさせることをいう。
 「脱」 とは、種子が生長してきたら実を成らせて、得脱させるということで、成仏に至る化導の終わりを言います。

 この 「種・熟・脱」 すなわち、化導の始終は、爾前経では明かされていないのである。
 『観心本尊抄』 に、「設(たと)い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ化の始終無しとは是なり」(249P) と仰せられています。
 この 「化の始終無し」 とは、化導がいつ始まって、いつ終わるのか、如何なる仏が、どのような法を説いたのか、そういうことが明らかにされていなければ、どんなに立派そうに成仏の姿を説いても、その根拠が・プロセスが、明らかになっていないのですから、その成仏は空虚な抽象論であり、単なる観念論にしか過ぎません。
 
 初めて 「種・熟・脱」 が明かされたのは法華経だけであり、ここにおいて、迹門・本門・文底の三釈があります。
 「迹門の種熟脱」 は、『法華経化城喩品第七』で、三千塵点劫の過去に、大勝智勝仏という仏がいて、法華経を説法した。その十六番目の王子(釈迦) が、もう一度法華経を説くわけです。これを大通覆講と言います。その時が 「下種」 になります。
 その後、いろんなところで化導を受け、その間ズートと爾前経の段階までが 「熟」 になります。
 法華経迹門に入ると、舎利弗等の二乗に未来成仏の記別が与えられる。提婆達多という悪人、竜女という女人にも成仏の記別を与える。これが 「脱」 になります。

 「法華経本門」 では、『如来寿量品第十六』 で、五百塵点劫という久遠を明かします。この時点が 「下種」 になります。
 これによって、三千塵点劫の大通智勝仏及び四十二年間の爾前経と法華経迹門までが 「熟」 になります。
 寿量品に至って、釈尊は自身の五百塵点劫・久遠実成の境地を明かし、霊山の聴衆はこれを信受することによって得脱する。これが 「脱」 になります。
 このように釈尊の法華経は、久遠に下種を受けながら (本已有善)、大乗から退転して小乗に堕ちた衆生(退大取小)を 「得脱させるため」 のものであり、これを 「脱益の法華経」 という。

 日蓮大聖人の 「文底独一本門」 では、久遠元初のときが、ことごとく 「下種」 となります。「熟・脱」 はこの 「下種」 のなかに含まれています。「下種」 と同時に 「熟・脱」 も完成する訳です。ここら辺のところが、解かり難いところであります。
 大聖人は、“南無妙法蓮華経” を 「因果倶時・不思議の一法」(513P)・「因果一念の宗」(871P) と仰せになられています。この点に関しては 「久遠即末法」 ということも、あわせて考えなければならないと思います。

 このように、大事な成仏の プロセスを説いている法華経は、「一切の諸の教法の中に於いて、最も為(こ)れ第一なり。…… 諸経の中の王なり」(薬王品) と呼ばれている。その外には、
 『法師品第十』 に、「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 とあります。
 伝教大師は、「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に、此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」(991P) と述べられ、ここでも、一切経の中で法華経が最高の教法であることが明かされています。 
 したがって、「已・今・当」 の三説をもって、諸経・諸宗は成敗されたのである。然るに、権宗諸派の開祖たちは、無惨にも 「皆成仏道の法華経」 を捨てさせているのである。

 “浄土宗” の法然は、「捨・閉・閣・抛」 の四字をもって、法華経を蔑(ないがし)ろにした。
 “真言宗” の弘法は、最上第一の法華経を第三・戯論(けろん)の法と下し、そのうえ正覚房は、教主釈尊を無明の辺域、大日の牛飼い、草履取りにも及ばないと、口汚く罵(ののし)っている。
 “禅宗” は、「教外別伝・不立文字」 といって仏典を否定しながら、経文を読誦している。祖師無用と言いながら、達磨を禅祖としている。言っている事とやっていることが、全てバラバラで自語相違も甚だしい。
 
 『如来寿量品第十六』 に、「飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地」(他の毒薬を飲む 薬発し悶乱して 地に宛転す)・「毒氣深入。失本心故」(毒気深く入って 本心を失えるが故に) とあります。
 これらの開祖たちは、第六天の魔王から魂を打ち抜かれ、仏弟子でありながら、祖師釈尊の金言に悉く叛逆する様は、本心を失える狂子の様だとしか言いようがない。

 同じく 『寿量品』 に、「如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者」(如来諸の衆生の 小法を楽(ねが)える徳薄垢重の者をみては) とあります。
 権宗・権教の “厄除けだとか、◯◯安全とか” このような小功徳を願う衆生は、「小法を楽える徳薄垢重の者」と、仏は戒められています。
 
 大聖人の 「文底下種仏法」 には、即身成仏という、永遠にして “絶対的幸福境涯” を獲得することが出来る道を教えています。
 『顕仏未来記』 に、伝教大師云く 「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(509P) と仰せです。
 「丈夫の心」 とは、仏の心ということです。浅き爾前・権教の小功徳を去って、遠大な広宣流布という大目的に向かって、前進していくのが 「丈夫の心」 であり、「法華経の心」であります。

 したがって、「種・熟・脱」 の化導すら説かない権教、すなわち古今東西の数ある宗教・思想・哲学の中で、日蓮大聖人が御図顕された 「十界の文字曼荼羅御本尊」 が最高峰であることを確信し、「不受 余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)(譬喩品) の人のみが、「法華経の心」 を知る人であります。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR