文字曼荼羅 (5)(御本尊と虚空会)

 文字曼荼羅に描かれている相貌(そうみょう)は、日蓮大聖人が法華経の 「虚空会の儀式」 を用いて御図顕してくださいました。
 
 池田先生は、大聖人は、付嘱を受けた地涌の菩薩の導師である上行菩薩の再誕のお立場から、寿量文底の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに示し、私たちが信受すべき明鏡として御本尊を顕してくださったのです。
 その際に、ただ南無妙法蓮華経だけを示しても、その深い意義は分かりにくい。そこで、既に広く知られていた虚空会の意義を用いながら、南無妙法蓮華経の深義を明らかにされたのです。
 ………
 本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が 「本」 で、虚空会は 「迹」 です。迹をもって本を顕すのです。
 (御書の世界第2巻・208P) と指導されています。

 その相貌は、『日女御前御返事』 に 「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用(ゆう)の神豈(あに)もるべきや、宝塔品に云く 「諸の大衆を接して皆虚空に在り」 云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる是を本尊とは申すなり」(1243P) と仰せです。

 「法華経見宝塔品第十一」 から 「嘱累品第二十二」 までの十二品は、「諸の大衆を接して皆虚空に在り」 と言われます様に、不思議なことに十界の衆生を、大神通力をもって虚空に引き上げて説法が始まります。これを 「虚空会の儀式」 と言います。
 
 この 「虚空会の儀式」 に参列した聴衆は、「此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず」 とあるように、全ての 「十界の衆生」 が参列しております。
 この 「十界の衆生」 が、すべて顕わされていることが肝心なのであります。真言宗のように、三悪道・四悪趣の悪を切り捨てて、善のみの仏・菩薩像しか描いて無いようなものは、真の曼荼羅とは言えない。
 大聖人は 「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり」(1244P) と仰せられています。

 「十界の生命」 がことごとく具わっていると言うことは、法華経の哲理・生命の法則からして、それは 「十界互具・百界千如・一念三千」 であります。すなわち 「日蓮大聖人の御生命」 であり、「大宇宙の生命」 とも言うべきものを顕わしているのであります。
 
 大聖人は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P)
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P)
 と仰せられています。
 以上のように、御本尊は 「文字」 によって、「十如実相・一念三千」 即 「生命」 を顕わしています。
 
 このことは、「生命」 こそ、何ものにも換えられない絶対的価値であり、“生命を本尊とせよ” との宣言であります。
 混迷せる二十一世紀を切り開く希望の哲理は、“人間主義” “生命尊厳主義” “平和主義” “文明主義” を標榜する、日蓮大聖人の大生命哲学・以外にありません。

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テーマ : 仏教・佛教
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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