神について

 神を信ずる宗教の 「神」 は、唯一神・多神・自然神・人間神・機能神・理念神・魂・等々多種多様にあり、一概に述べることは出来ません。ゆえに、大雑把に次の三点に分けて、簡単に述べてみたいと思います。

 第一に、全知全能の神です。
 代表的なのが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の神です。人間をはじめ一切の動植物・大宇宙にいたるまで、全てを創造したと考えられている全知全能の唯一絶対神である。
 ゆえに、神と人間との間には越えがたき断絶があり、人間はただ、神の恩寵(おんちょう)を願い、罪の許しを請うだけのものに過ぎなくなります。
 唯一絶対神とは、他の一切の神の存在を許さないと言うことであり、この思いがこうじてくると、不倶戴天の他の神を撲滅することが、わが神の喜びであり、恩寵に与(あずか)ることになります。
 このことは、西欧における二千年来の宗教戦争の歴史が、証明するものである。
 ところで、全知全能・宇宙創造神なる神は、実在するのか・しないのか。いくら実在証明に理論的精密さを以ってしても、所詮は、観念の所産であり、幻想であり、架空のものである。
 近世以後、人格神としての性格はなくなって、宇宙・自然現象の奥底にあって、これを動かしている 「法」 を神と名づけているようである。

 第二に、宇宙・自然力を人格化した神である。
 太陽神や雷電・火・風・地・海・山・川などがその代表で、とくに各民族に共通して多いのは太陽神信仰で、古代エジプト、インカの神などはその例である。
 わが国も八百万(やおよろず)の神と言われるように、神代から宇宙、自然の様ざまな力を人格化した神々が多数存在します。皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)も太陽神であります。

 第三に、民族の祖先や英雄を神格化した神々である。
 わが国では、菅原道真を祀った天満宮、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の東照宮、等々です。また、戦没兵士を祀った靖国神社も、この部類に入ります。
 今までは、偉人や英雄を神として崇拝していましたが、靖国神社は一般庶民の兵士を祭神としたところに、古神道と異なるところがある。
 これによって明治政府は、富国強兵策のために徴兵(ちょうへい)制度を施行した。もし、この中で戦死者を出したとしても、忠君愛国の士として称え、靖国神社の 「祭神」 として祀られ天皇の礼拝を受けることは、一家・一族の名誉であるとして、遺族並びに国民の不平・不満を抑えたのである。
 そして、「祭神」 として崇められると教えることで、あたら前途有望な若者を神風特別攻撃隊員として、爆弾になれ・魚雷になれと諭して死地に送り込むことができたのである。
 このように 「靖国神社」 は、軍国主義の精神的支柱であり、戦争を美化し、正当化するための施設であります。
 何故、美化し正当化しなければならないのかと言えば、祭神として崇める以上、お前たちの死は決して “犬死に” では無いとしなければならない。そこから侵略戦争は自衛戦争であり、欧米列強の植民地支配からの解放であり、大東亜共栄圏構築の聖戦としなければならなかったのである。

 「神と仏」 について、池田先生の御指導を学びたいと思います。
 
 仏教で説く “仏” とは、宇宙、生命の根本の法を悟り究めた人をいいます。この法とは、大宇宙それ自体も、一切の生命現象も、全てを包含し、貫いている根源の法です。それを悟り究めた仏とは、なにも特別な力をもって生まれた “英雄” でも、“豪傑” でもありません。ただ、その悟り究めた法と、すばらしい叡智のゆえに尊貴なのです。

 つまり、仏法の仏とは、生まれながら、特別な力をもっている、いわば “特殊” な人格ではなく、最も円満な、普通の人格者です。しかし、その悟り究めた法が宇宙・生命の本源の法であり、その法と合致した生命活動をしていく人であるが故に、何ものもかなわない、すばらしい力を発揮していくことができるのです。

 ここに、“力” を根本とした、神の信仰と、“法” を根本とした、仏教の教えとの決定的な相違があります。神の “力” は、その人格だけに特有のものですから、人格の死と共に失われてしまいます。仏の “法” は、宇宙に本然のものですから、人格の生死には左右されません。また、神の力は、その神にだけあるもので、他の普通の人間は、それを真似ることができませんが、仏の法は、万人が平等に会得することができるのです。

 そこで、問題は、この仏と神との関係です。これまで述べてきたことから、冷静に考えていただきたい。宇宙、自然の様々の力といえども、大宇宙それ自体からみれば、その一分の働きに他ならない。つまり、そうした神々は、妙法という大宇宙のなかの、ほんの一部の “力” を神としてあらわしたものに過ぎないといえるでしょう。宇宙を創造したとされている、ユダヤ教やキリスト教の唯一絶対神も、その例外ではありません。宇宙空間にただよっていた物質が互いの引力によって凝集し、星や星雲を形成した。そこに、やがて生命が誕生し、様々の動植物を生み出していった。それは、宇宙自体のもっている “法” にしたがって現出されていったことであって、したがって全知全能神といっても、所詮、この法を “擬人化” して表現したものと考えるべきでしょう。
  (『現代文明と宗教』・18P)

 靖国神社に祭神として祀られた戦没兵士たちも、どんなに知恵や能力を持っていたとしても、所詮、人生の根本の法を究めた人ではない。
 したがって、死して神になれば衆生を救う力が出てくるなんて、そんな不合理なことはあり得ないのである。ゆえに、神として祀り、崇拝することは、道理に反することであります。
 押しなべて神道には、もともと思想的・哲学的な教義はありませんでした。とうてい、高等宗教と呼べる代物ではないのである。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

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靖国にまつる人がただの戦没者とすれば、慰霊としてまいるのはべつに構わないと思う。
宗教に正しいも正しくないもない。所詮は、どこも一人間が説いたものにすぎない。各宗教が互いに批判し、価値観をおしつけるから、争いが起こる。
各個人で信じたいものを信じればいい。
だが、どの宗教にもいえるが、他人や自分、命をおびやかしてはいけない、これが前提だと思う。

Re: タイトルなし

> 靖国にまつる人がただの戦没者とすれば、慰霊としてまいるのはべつに構わないと思う。

 靖国神社は、慰霊すなわち、霊をなぐさめる所ではないのである。
 戦死して、神に成らせてもらって、おめでとうと称讃・顕彰する所である。
 顕彰を慰霊と思う、はき違えてはならない。

> 宗教に正しいも正しくないもない。所詮は、どこも一人間が説いたものにすぎない。各宗教が互いに批判し、価値観をおしつけるから、争いが起こる。

 宗教には、正邪・高低・浅深があるのである。人間が説いたものだから、間違いが多いのである。
 争いを起こしているのは、低級な外道(仏教以外)の者たちである。
 宗教は何でも一緒だというのは、色や形が似ているから、味噌も糞も一緒と言ってる様なものだ。

> 各個人で信じたいものを信じればいい。

 何を信じようが個人の自由であるけど、間違ったものを信じれば、損(反価値)するのである。
 人生は、幸福(価値創造)を求めて生活しているのである。

> だが、どの宗教にもいえるが、他人や自分、命をおびやかしてはいけない、これが前提だと思う。

 全く仰る通りだと思う。
 しかし、国家神道という宗教は、天皇・帝国のために死すれば、神様に成れるという教えを作って、生きながらにして爆弾になれ、ミサイルになれと言って、若者たちを戦争に駆りたてたのである。
 こういう歴史的事実があるのである。これも宗教のなせる業なのである。
 よくよく宗教の正邪を、弁えねばならない。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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