昭和天皇に学べ

 明治維新のときの倒幕運動で、尊皇攘夷論は偉大な力を発揮した。その過程に於ける戦で、戦い散った者を褒め称えるために、その霊を祭神として祀り、顕彰するための施設として、建設されたのが靖国神社である。
 ゆえに、“天皇主権国家” とその精神的支柱である “国家神道” と具体的施設である “靖国神社” は、本来、一体不二のものである。そこから、天皇と靖国神社は、切っても切れない縁があることが想起される。しかし、その天皇があることを境にして、参拝しなくなりました。それは、「A級戦犯の合祀」 以後である。

 昭和天皇は戦後、国家の命により戦死した者の霊をなぐさめる為に、1945年・1952年・1954年・1957年・1959年・1965年・1969年・1975年に計8度、靖国神社に参拝しました。だがしかし、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、その後は参拝していません。今上天皇も行幸されていません。

 その理由は、1978年(昭和53年)10月17日に、A級戦犯が昭和殉難者として靖国神社に合祀されたことにあると言われていた。その後、富田メモ(元宮内庁長官・富田朝彦)が発見され、A級戦犯の合祀が天皇の参拝を妨げていることが明らかになった。富田メモには、

  「私は或る時にA級が合祀され
  その上松岡・白取までもが
  筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
  松平の子の今の宮司がどう考えたのか
  易々と
  松平は平和に強い考えがあったと思うのに
  親の心子知らずと思っている
  だから私あれ以来参拝していない
  それが私の心だ」


 松岡は、元・外務大臣の松岡洋右、日独伊三国同盟を締結し、白鳥と共に、戦争への道を開いた。
 白取は、元・駐イタリア大使の白鳥敏夫
 筑波は、1966年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった、宮司の筑波藤麿
 松平は、最後の宮内大臣で合祀に慎重であった、宮司の松平慶民
 松平の子は、長男でありA級戦犯を合祀した際の宮司だった、松平永芳

 靖国参拝を推進する面々は、この富田メモを “ねつ造だ・天皇のお心と違う・私的なメモを発表する事すらおかしい” 等々、とやかく批判しておるようであるが、私はこのメモが出ようが出まいが、有ろうが無かろうが、A級戦犯の合祀以後、昭和天皇が参拝していない事実の重みを、噛みしめなければならないと思います。

 昭和天皇は国の主権者として、先の戦争を阻止できなかったことに、悔恨の情を持たれ、深く反省なされていたと思われます。それは終戦直後、マッカーサー元帥との会見の時のお言葉に見ることができます。マッカーサーの回想記によれば、

 天皇は、「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」
 元帥は、「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」 と記されている。
 
 天皇は命乞いに来たのではなかった。軍部に踊らされていたご自分の責任を、自ら負おうとされる勇気に接して、マッカーサー元帥は、深く感動したのである。
 
 敗戦による国土の荒廃と人心の混乱により、当時、1000万人の餓死者が出るであろうと予測されていた。昭和天皇の国民を思いやる捨て身の会見は、その後、米国による大量の食糧援助となって、国民は本当に救われたのである。この歴史的事実と受けた御恩を、わが国民は決して忘れてはならない。

 『日本国憲法第一条』 に 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、……」 とあります。
 
 この 「日本国民統合の象徴」 であらせられる天皇が、御自ら “だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ” と仰せになられている。このご発言の重きことを考えれば、私は “昭和天皇の御心に学ぶべきである” と申し上げたいのであります。 

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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