体験談(3)(譬喩とは功徳と罰である)

  私の入信の動機である病気のゆえに、誰も頼りにならず孤独で寂しい思いをしたことは、既に申し上げました。
 入信後、『方便品寿量品精解』 を読んだとき、法華経に説かれている譬え話が、全く我が身に当てはまることに、驚きを禁じ得ませんでした。法華経の文を、身で読んだといえば聞こえは良いが、身に読まされたというのが実感である。
 その譬え話は、「如来寿量品第十六」 の 「良医病子の譬」 であります。

 この 「良医病子の譬」 のあらすじは、聡明で医薬に通じた良医(父)がいた。父が他国に行った留守中に、子供たちは他人が勧める毒薬を飲んでしまって、地に転げ回って苦しんでいた。
 そこに父の良医が帰ってきた。毒のために本心を失った者と本心を失っていない者がいた。父は色も香りも味も素晴らしい良薬を調合して、子供たちに与えたところ、本心を失っていない者は、良薬を服して病が治った。
 ところが、本心を失った者は素晴らしい良薬であることを認識できず、飲もうとしないで、苦しむばかりであった。そこで、父は一計を案じ、自分は年老いたから、いつ死ぬかもしれない。ここに素晴らしい良薬を置いておくから、飲みなさいと言い残して、他国に行ってしまう。そして、使者を遣わして子供たちに、父は死んだという知らせを届けさせる。
 本心を失っていた子供たちは、父が亡くなったあまりの悲しみで、ついに本心を取り戻し、父の言葉を思い出して良薬を飲んだところ、全快した。子共たちが全員助かったと聞いた父は、すぐ帰宅して、子供たちの前に姿を見せたのである。

 以上の譬え話の中で、使者から父が死んだと聞いた子供たちが、頼みがなくなり、悲嘆し、苦悩したときの状況を述べた、ところの寿量品の経文が、
 自惟孤露(じゆいころ)。無復恃怙(むぶじこ)。常懐悲感(じょうえひかん)。心遂醒悟(しんずいしょうご)」 〔自ら惟(おもんみ)るに孤露(ころ)にして復(また)恃怙(じこ)無し。常に悲感を懐いて、心遂(つい)に醒悟(しょうご)しぬ〕 であります。 (恃怙 … 頼み。よりどころ)
 この寿量品の経文が、私が入信前に実体験した情況と全く同じ状態であり、驚嘆いたしました。 
 
 譬喩とは、譬え話のことである。『御義口伝』 には次のように述べられています。
 文句の五に云く 「譬(ひ)とは比況(ひきょう)なり、喩(ゆ)とは暁訓(ぎょうくん)なり。大悲息(や)まず巧智(ぎょうち)無辺なれば、更に樹(き)を動かして風を訓(おし)え、扇を挙(あ)げて月を喩(さと)すと」 (721P)

 「譬とは比況 ―― 此をあげて彼と比し、喩とは暁訓 ―― 浅きによって深きを訓えるのである。仏の大慈悲はやむことなく、巧みなる智慧は無辺に働くのであり、さらに、迷う者のために、樹を動かして、風というものをおしえ、扇をかかげて、月というものを分からせるのである」 と。
 大悲息(や)まずと。仏様は、仏法を全く聞いたことのない衆生を憐(あわ)れむが故に、難解な仏の悟りの法門を、身近な具体的な事物・事象に即して、いかなる衆生にも解かるように説くというのである。
 ここでは、月が山や雲に隠れてしまえば、月によく似た扇を差し上げて月に譬え、風が大虚(大空)において止むと、樹木を動かして風を教えるという譬えである。

 『総勘文抄』 に、「自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う唯(ただ)衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る故に語(ことば)は夢中の言語なれども意(こころ)は寤の本心を訓ゆ」(561P) とあります。 (寤 … 目覚めている・悟り)           
 
 池田先生は、また、伝教大師は 「法華経の七喩は即ち法体であり、法体は即ち譬喩である」 と言っている。譬喩即法体 ―― 法華経の譬喩というのは、仏の心そのものであるということです。そして、この譬喩即法体の究極が南無妙法蓮華経であると、大聖人は当体義抄で明かされています。  (法華経の智慧2巻・31P)

 以上のように譬喩は、単なる譬え話ではなく、仏の心・妙法(法体)そのものであり、生命の法理を正しく説いているのである。ゆえに、譬え話と言っても妙法なるがゆえに、それがそのまま、現実の生活のうえに現象として現れてくるのである。この 「良医病子の譬」 も然りであります。
 また、「長者窮子(ぐうじ)の譬」(信解品第四) にもあるように、諸国(六道)の巷(ちまた)を巡りめぐって、やっと父の長者(仏)のもとに帰ってきた窮子(困窮する子)は、誰でもない私自身であったのである。
 このことから私は、法華経の文字は、「一字一句・皆真言なり、一文一偈(げ)・妄語(もうご)にあらず、…… 説くところの所説・皆真実なり」(188P) の御金言を、僅かながら信ずることが出来るようになりました。

 真理には普遍性があります。ゆえに、このことは私一人だけのものではなく、一族・一家で最初に入会した学会一世と謳(うた)われる方々は、ほとんどが、私のような体験を持っていると思います。
 すなわち、事故や病気等で体を害し・破産で財産を失い・人間関係で家庭・家族や友達を失った等々、何らかの代償を払って、やっと御本尊様に巡り合えたのである。私は右耳の聴力を失いました。これほどまでにしても、正しい 三大秘法の 「本門の本尊」 には、なかなかお会いし難いのである。

 そのお会いし難いことを、寿量品の経文には、
 必当生於(ひっとうしょうお)。難遭之想(なんぞうしそう)。心懐恋慕(しんねれんぼ)。渇仰於仏(かつごうおぶつ)。便種善根(べんしゅぜんこん)」 〔必ず当(まさ)に難遭の想(おもい)を生(しよう)じ、心に恋慕を懐(いだ)き、仏を渇仰して、便(すなわ)ち善根を種(う)ゆべし〕 とあります。
 すなわち、心に会い難き御本尊を渇仰して、恋い遵(したが)う信心を致さねばなりません。そして福徳を積んで行きなさいとのことです。

 池田先生は、「譬喩」 について次のように述べられています。
 譬喩とは、あくまで実体の説明である。しこうして、実体とは何か。これこそ、南無妙法蓮華経なのである。また、譬喩とは、ある意味で、われわれの生活である。そして、実体とは大御本尊である。われわれの生活のいっさいが、大御本尊の偉大な功徳を説明しているといえる。「譬とは比況なり」 とは、昨日の生活、一年前の生活、また信心する以前の生活と、今日の生活とは、明らかに相違があろう。これが比況である。また、信心しない人と信心している人の生活、ぜんぶ比況となろう。「喩とは暁訓なり」 とは、その生活の実相そのものが、偉大な大御本尊の力を教えさとしていることである。
 また、譬喩とは功徳と罰である。われわれが大御本尊を信じ、唱題し、折伏行に励むのは即身成仏のためである。われわれが最初、信心した動機は、貧乏、病気、精神的な苦しみ、家庭不和等で、さまざまな悩み、動機があったわけである。それが、信行に励んだときに、次第次第に解決していく。これこそ大聖人が 「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045P) とおおせのごとく、即身成仏は絶対に間違いないと確信すべき根拠なのである。 
 また、信心に反対すれば、必ず罰がある。大聖人は 「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず」(1190P) と断言されている。ゆえに、その罰は、無間地獄に堕ちるということを意味するものである。それは即ち、大御本尊による以外に、幸福になる道は絶対にないという証拠でもある。
 (御義口伝講義上・323P) 

 「教とは三千羅列なり」(721P) とは、「因果の理法」 のことである。御本尊を信ずることは、「因果の理法」 を信ずるということである。
 “世間法” と “国法” と “仏法” という三つの法があると言われている。世間法と国法の網の目は粗く、罪を犯しても逃げ通すこともある。
 しかし、仏法律は厳しい。おまけもなければ、割り引きもなく、因果の理法によって、それ相応の果報を受けるのである。
 功徳と罰は、南無妙法蓮華経を証明する譬喩である。ならば同じくは、大功徳をもって御本尊様を荘厳申し上げたいと願うものである。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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