権実相対(十如実相)

 日蓮大聖人の第一法門である 「権実相対」 について、考えてみたいと思います。
 権実相対の権とは仮、実とは真実の意で、方便として説かれた権大乗教と、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)を比較検討して、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示したものである。

 法華経が最高の経典だと言うけれど、法華経以外の権教(小乗・外道も含む)との違いは何か といえば、日蓮大聖人は 『開目抄』 において、次のように仰せられています。

 「此等の経経に二つの失(とが)あり、一には行布(ぎょうふ)を存するが故に仍(な)お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり」(197P) と。

 これらの爾前経には二つの欠点があると、これが取りも直さず法華経との違いであります。
 一つには、十界のなかに行布(差別)を設けて、二乗・悪人・女人は成仏しないと説くゆえに、いまだ権を開せずといって、迹門の一念三千を隠している。
 二つには、インドで生まれて成仏したという始成の仏が説くゆえに、なお未だ迹を発せずとて、久遠・常住の生命観を隠している。
 この二つの大法、すなわち 「一念三千」 と 「久遠実成」 は、法華経のみに説かれた大法であるがゆえに、一代仏教の綱骨であり、一切経の心髄である。

 つづいて、「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱(まぬか)れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり」(197P) と仰せです。

 迹門方便品は、一念三千の法理を諸法実相に約して説き、また二乗作仏も説いて、爾前経の二種の欠点のうちの一つを脱れた。しかしながら、未だ迹門では、仏の本地を顕していないがゆえに、本有常住の生命観を説き明かしていない。
 すなわち発迹顕本していないから、生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住・十界互具の生命観が示されていないから、仏の生命も九界の生命もその実体は不明のままである。したがって、二乗作仏も不定である。
 このような実体のないものは、水面に浮かぶ月影のようなものであり、根無し草が波の上に浮かんでいるようなものである。

 日寛上人は、『三重秘伝抄』にて 「行布とは即ち是れ差別の異名なり、所謂・昔の経経には十界の差別を存するが故に仍(なお)未だ九界の権を開せず、故に十界互具の義無し、故に迹門の一念三千を隠せりと云うなり」(六巻抄・25P) と述べられています。

 行布とは、菩薩の修行の位を五十二位に分けて、次第に行列布置し差別を設けていることであり、ここでは爾前経における十界の差別をいう。
 爾前経で説く十界は、それぞれ個々別々のものとして説かれていた。したがって、修行によってその段階を一つづつ上って行くのであるが、菩薩・仏界などには、もはや、今世では到底達し得ぬ境地であり、なかんずく、仏界と他の九界との断絶は、甚だしいものがあった。
 ゆえに、必然的に何回も生まれ変わって、歴劫修行する以外にないとされた。 

 『一代聖教大意』に 「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭(いと)う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離(おんり)断九の仏と名(なづ)く、…… 煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し」(403P) と仰せられています。
 
 このように煩悩を断じてしか、仏に成らないと説く爾前・権経では、我ら無明の凡夫は絶対に仏に成れないのである。その凡夫が仏に成ることができるのは、法華経において 「十界互具・百界千如・一念三千」 の法理が説かれたからである。

 大聖人は、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189P) と仰せです。
 「十界互具」 とは、十界の各界が互いに十界を具えていることをいう。十界の各々の境涯が差別・固定化されているのではなく、瞬間瞬間に変化・流転し行く生命の実相を説いたものである。互具とは、顕現から冥伏へ、冥伏から顕現へという生命の相互関係を意味している。
 この十界互具の理によって、三毒にまみれた凡夫の生命の中にも仏の生命があり、その仏性を顕現させることによって、成仏の道が開かれたのである。

 では、法華経のどの法理によって 「十界互具」 が示されたのかと言えば、方便品第二の 「十如実相」 の法門である。
 「此の方便品と申すは迹門の肝心なり此の品には仏・十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明し給へば ……」(1015P) と説かれています。
 『十如是事』に、「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」(410P) とあります。

 この 「十如是」 について、『三重秘伝抄』に、「初めの相を本となし、後の報を末と為し、此の本末の其の体究(きわま)って中道実相なるを本末究竟等と云うなり」(六巻抄・18P) とあります。
 “相・性・体” の三如是は諸法の本体を表し、“力・作・因・縁・果・報” の六如是はその機能面を表している。そして “相” から “報” に至る九如是は一貫した統合性・相即不離の関係を保持している。
 ゆえに、地獄界から仏界までの十界は、この九如是の法によって貫かれており、その本体と機能面、“相” から “報” までの九つのすべては、それぞれ時間・空間的にもバラバラで断絶があるのではなく、瞬間的に融合し究竟して等しいのである。それぞれを融合・統一させる観点が “如是本末究竟等” の法理である。
 この 「十界互具・十如是」 の法理は、いま自身がどの境界に在ろうとも、瞬時に他の十界の境界へ移行する可能性を示している。ゆえに、「十界互具・一念三千」 の当体たる御本尊に南無することにより、己心に内在する仏界を開き、即身成仏することができるのである。
 
 『総勘文抄』 に 「十如是」 について、説明がありますのでご紹介いたします。
 「十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤(うつつ)の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用(ゆう)と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕(か)くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり」(564P)
 
 講義 十如是は九界たると仏界たるとを問わず、あらゆる衆生の生命に共通に具わる普遍的真理を取り出したものであるから、「十法界は十なれども十如是は一」 である。
 ただし、仏界と九界とを対比すると、仏界の十如是は、本来の生命の正しい姿を悟り顕現しているのであるから 「虚空の月」 にたとえられ、九界の十如是は水中の月にたとえられる。
 ゆえに虚空の本体の月があらわれれば、水中の月も同時にあらわれ、「体と用と一具にして一体の仏と成る」 とは、正法を信じ仏界が涌現すれば、その人の生命に具わる九界も、本来の正しい働きをあらわすようになるということである。
 また、本末究竟の本末に配すれば、本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是であると仰せられ、その理由は、諸仏といっても所詮は衆生の一念の心から顕現してきたからであると説かれている。
  (文庫総勘文抄講義・191P)

 少々理屈っぽくなって、書いている自分からして解かりかねるところであるが、要は、成仏の理論的・プロセス・可能性を解明しているのは、法華経方便品の 「十如実相」 の原理にある。爾前・権教で説かれる “即身成仏” や “極楽往生” などは、何の根拠もなく空理空論、ただの空手形を切っているだけである。
 そうであるのに、この最高の法華経を、弘法は “第三の劣・戯論の法” と侮り、法然は機根に合わないからと “捨閉閣抛” させた。実に無慚極まりないことである。一刻も早くこの迷妄から覚めて頂きたいと願うものである。 

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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