権実相対(二乗作仏)

 前の権実相対に続いて、本迹相対に行こうかなと思いましたが、「十如実相」だけでなく「二乗作仏」のことも言わなければならないかなと思いました。
 また、開幕の年にあたり『人間革命』の研鑚の機運も高まり、この方も読み直さなければなと思い、どちらからにしょうかなあと思いながら、ついつい時を過ごしてしまいました。
 そこで、取りかかっている権実相対の二乗作仏まではやっておこうと思いました。

 二乗作仏とは、二乗(声聞・縁覚)が仏に成ることを言う。爾前の諸経では、声聞・縁覚界の者は永久に成仏できないと仏から弾呵された。
 その理由の第一は、二乗の者は自己の小さな悟り(空理)に執着して、これで事足れりとしていたからである。
 第二に、二乗は利他の行を欠いていて、苦悩の衆生を救おうとしない利己主義がある。
 この二乗の慢心と利己主義を、釈尊は徹底的に打ち破り、真実の成仏の道を知らしめようとして、きびしく呵責したのである。
 『開目抄上』に、「二種の人有り必ず死して活きず畢竟(ひっきょう)して恩を知り恩を報ずること能わず、一には声聞二には縁覚なり、譬えば人有りて深坑(じんこう)に堕墜(だつい)し是の人自ら利し他を利すること能わざるが如く声聞・縁覚も亦復是くの如し、解脱の坑(あな)に堕して自ら利し及以(およ)び他を利すること能わず」(191P) と仰せです。

 “恩を知り恩を報ずること能わず” と、すなわち、父母・師匠・一切衆生・三宝等の恩を振り捨てて、現実から逃避しょうとする利己主義的な二乗の態度が、慈悲をもって衆生の救済を根本とする仏法の精神と全く相いれないものであるからである。
 また、「枯れたる木・華さかず山水・山にかへらず破れたる石あはず・いれる種をいず、二乗また・かくのごとし仏種をいれり等となん」(192P) とまで言われ、二乗は永(よう)不成仏の者と定められたのである。

 然るに、法華経にきて忽ちに “二乗作仏すべし” と、釈尊は説かれたのである。それは、釈尊の弟子の大半は、二乗と呼ばれる人たちである。わが弟子たちを救わずして、なんで一切衆生を救えようか。このままでは、釈迦仏法はなんの意味もなさないのである。
 そして法華経迹門にて、成仏の記別を与え、弟子たちをして一切衆生救済の真の菩薩たれと、自覚を促がし、法華流布の使命を与えようとしたのである。

 前に引用した 『開目抄』 の文に、「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり」(197P) とあります。
 日寛上人は 『三重秘伝抄』 において、“爾前二種の失・一つを脱れたり” と言うのならば、“一念三千を説いて” だけで充分でであるのに、なぜ “一念三千・二乗作仏を説いて” と二つを並べ挙げたのであろうか、と疑問を呈しておられます。

 「答う一念三千は所詮にして二乗作仏は能詮なり、今・能所・並べ挙ぐる故に一念三千・二乗作仏等と云うなり」(六巻抄・25P) と答えられています。
 ここで 「能詮」 と 「所詮」 について述べれば、「詮」 とは事理をよく説き明かすこと。「能」 とは能動で説き明かす方であり、「所」 は受動で説き明かされる原理である。
 ここでは二乗作仏が明らかにする側(能詮)で、明らかにされる側(所詮)が一念三千である。ということは、二乗作仏が明らかになると、その結果、一念三千という原理が明確になってくる、という関係があるのである。

 次に、「謂(いわ)く若し二乗作仏を明さざる則(とき)は菩薩・凡夫も仏に作(な)らず、是れ即ち菩薩に二乗を具うれば所具の二乗・仏に作らざる則は能具の菩薩・豈・作仏せんや」 と仰せです。
 十界互具の原理からして、菩薩の一念には二乗の命が具わっています。二乗にも菩薩を具しています。そうであるのに、二乗が成仏できないということは、二乗を能具している菩薩も成仏できないということになります。
 ここで二乗作仏について、『法華経の智慧』 から池田先生の御指導を学びたいと思います。(抜粋)

 須田 大聖人が 「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり」(421P) とおっしゃっているのは、このことですね。

 名誉会長 そうです。この原理は、十界の各界すべてについて同じです。
 「二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」(522P) と仰せの通りです。
 「二乗不作仏」ならば、仏ですら、仏ではありえなくなる。仏の中の二乗界が成仏しないからです。
 法華経以前の経典には、十界それぞれの因果が別々に説かれている。しかし、そこで説かれる成仏には実体がなく、“影” のようなものです。
 法華経には、その十界の因果の 「互具」 が説かれている。ゆえに法華経によって初めて、十界すべての衆生の成仏が可能となるのです。「十界互具」 が説かれるか否か。ひとえに、ここにかかっている。


 遠藤 「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」(401P)―― 法華経とはほかの何を説いているのでもない。十界の因果は爾前の経に明かしているが、今(今経=法華経)は十界の因果の互具こそを定めている ―― と、大聖人が明言されている通りですね。

 斉藤 そうしますと、成仏できないと聞いた二乗の嘆きは、菩薩にとっても “他人ごと” ではなかったと言えますね。

 名誉会長 そこなのです、大事なのは。
 大聖人は 「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(522P) と仰せです。
 そして 「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生」(401P) という考え方を示されている。
 十界互具になる前は、他の衆生のことは、あくまで “他人ごと” であった。それが十界互具になって、“人の成仏は自分の成仏”“人の不成仏は自分の不成仏” と受け止めていく生き方に転換している。これは生命観、世界観の大変革です。
 「他人だけが不幸」はありえない。「自分だけが幸福」もありえない。他者のなかに自分を見、自分のなかに他者との一体性を感じていく ―― 「生き方」 の根底からの革命です。
 すなわち、人を差別することは、自分の生命を差別することになる。人を傷つければ、自分の生命が傷つく。人を尊敬することは、自分の生命を高めることになる。


 斉藤 「十界互具」の生命観に立てば、人間は差別を超えられる、平等になれるということですね。

 名誉会長 その通りです。「権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり」(816P) と大聖人は仰せです。法華経は、単なるスローガンとしての平等ではなく、生命の法理のうえから、そして 「生き方」 の根源から、自他共の幸福への道を教える経典なのです。
 そして大聖人は、末法は 「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」(816P) と教えてくださっている。
  (法華経の智慧第1巻・185~188P)

 このように、二乗作仏と一念三千は、切っても切り離せない関係があります。ゆえに、能所・並べ挙げて説かれた分けです。
 法華経迹門と爾前権経との違いは、二乗・悪人・女人の成仏を許すのか、不成仏のままなのかの点である。迹門において 「二乗作仏」 が示され、九界即仏界・十界互具・一念三千の原理が説き明かされ、一切衆生の成仏が可能となったのである。 

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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