本迹相対(発迹顕本)

 本迹相対とは、法華経の本門(涌出品第十五から勧発品第二十八まで)と迹門(序品第一から安楽行品第十四まで)を比較相対して、本門が勝れていると判ずることである。

 『三重秘伝抄』の第六に、
 諸抄の中に二文あり一には迹本俱に一念三千と名づけ二には迹を百界千如と名づけ本を一念三千と名づく、初文を言わば次ぎ下に云く 「然りと雖も未だ発迹顕本せざれば真の一念三千も顕われず二乗作仏も定まらず、猶水中の月を見るが如く根無し草の波の上に浮べるに似たり」云云(六巻抄・34P) と仰せです。

 日蓮大聖人の諸御書を見ると、二つの立場が説かれている。一つは、迹・本ともに一念三千、すなわち、迹門は理の一念三千、本門は事の一念三千であると論ずる立場である。これは、一往与えて論じたものである。
 これに対し、二つ目は、迹門ではまだ、百界千如までしか説いてない、本門になって初めて、一念三千と呼ばれるようになるという立場である。これは、再往奪って厳密に論じたものである。
 然りと雖も、迹門で一念三千が明かされていると言ったけれども、未だ 「発迹顕本」 していないから、真の一念三千も明かされていないし、二乗作仏も定まっていないということである。
 
 「発迹顕本」 とは、垂迹という立場を開いて本地を顕わすことである。ここでは、垂迹とは始成正覚のことであり、本地とは本門の久遠実成である。
 迹門では、この本地である久遠実成を明かしていないので、“百界千如” 止まりであり、真の一念三千とは言えない。したがって、二乗作仏も定まっていないことになります。
 それはあたかも、天月を知らないで水面の月影を見ているようなものであり、浮草が波に漂うようなものである。

 「発迹顕本」 していないで、始成正覚のままでいるということは、「始めて」 正覚を成ずることであり、それまでは仏ではないと言うことになります。ある時点以前は仏ではなく、ある時点から突然仏に成るという考えです。時間的に九界と仏界が断絶しています。そして、仏になるときには九界を抹殺してから、仏に成るという考えであります。
 
 このような成仏観を大聖人は、「煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し」(403P) と仰せです。
 
 迹門の仏は、“十如実相” を説いているとは言え、始成正覚のままだということは、爾前経の仏と変わりはないことになります。すなわち “厭離断九の仏” あるということと同じであり、これでは、九界と仏界が断絶しており、十界互具に成らないことになります。だから 「真の一念三千も顕われず二乗作仏も定まらず」 となるわけです。

 本門寿量品にきて、“本果妙・本因妙・本国土妙” の三妙が合わせて説かれ(三妙合論)、これによって真の一念三千が説かれました。
 「本果妙」 の文は、「我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由陀劫」(我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり) と、われ実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺の時間が経っているのだと、これ以来ずっと仏であったという訳で、始成正覚を打ち破っています。
 
 「本因妙」 の文は、「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」(我本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり) と、我もと菩薩道を行じて成じたところの寿命は、今なお未だ尽きていない、先に挙げた数のまた倍であると、菩薩道は九界を代表していますから、久遠以来九界の命もずっと続いていることになります。
 九界も仏界も無始無終であり、本有常住であるということは、九界と仏界の断絶は、取り払われたということになります。

 「本国土妙」 の文は、「自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化」(是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す) と、これより来(このかた)、われ常にこの娑婆世界に在って、説法教化してきたのだと、仏が久遠より常に居住する本国土は、この娑婆世界であるとの大宣言です。今までの権仏・迹仏の架空の国土観を一言にして打ち破っています。
 これによって、仏の振る舞いに、事実性・実現性を与えることになります。ゆえに、真の一念三千も顕われ、一生成仏も可能となるのであります。

 この 『開目抄』 の文は、法体の部分と譬喩の部分に分けることが出来ます。法体は前半部分の 「 真の一念三千も顕われず二乗作仏も定まらず」 の文であり、譬喩は後半部分の 「猶水中の月を見るが如く根無し草の波の上に浮べるに似たり」 の文であります。
 また、譬喩の文について、先の法体の文と呼応して、「水中の月」 は、真の一念三千が顕れないことに譬え、「根無し草」 は、二乗作仏が定まっていないことに譬えたのである。

 以上のように、法華経本門寿量品において、「発迹顕本」 がなされず、久遠実成の開顕も成されなければ、迹門の段階では真の一念三千も顕われず、一生成仏も定まらずということで、仏教を習うと雖も、いたずらごとに成るのであります。
 日蓮大聖人は、「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」(215P) と仰せになられています。よくよく思索いたしたいと思います。

テーマ : 仏教・佛教
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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