本迹相対(迹門の二乗作仏・何ぞ…)

 前に、迹門の一念三千(所詮)は、“本無今有・有名無実” という二つの欠陥があることを見てきました。
 今度は、迹門の二乗作仏(能詮)も、同じく “本無今有・有名無実” であるということを見てみます。

 問う迹門の二乗作仏何ぞ是れ本無今有なるや、
 答う種子を覚知するを作仏と名ずくるなり、而るに未だ根源の種子を覚知せざる故に爾(しか)云うなり、本尊抄に云く「久遠を以て下種と為し大通・前四味・迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」等云云、而るに迹門に於ては未だ久遠下種を明さず豈・本無に非ずや、而るを二乗作仏と云うは寧(むし)ろ今有に非ずや。(六巻抄・35P)


 種子とは、衆生の心田に植えられる仏に成るための種を草木の種子に譬えたもの。仏種ともいう。その仏の種子を覚知することを成仏というのである。
 しかるに、迹門においては、久遠の本地が明かされていない(本無)ので、その種子がなんであるかは覚知できない。そうであるのに、二乗作仏などと(今有)言っている。したがって、迹門の二乗作仏は本無今有である。
 『本尊抄』 に、「久遠を以て下種と為し大通・前四味・迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」 とあります。
 久遠五百塵点の仏種を以て “下種” となし、中間三千塵点の大通仏、釈尊在世の爾前・迹門までを “熟” となし、法華経本門に至って、等覚・妙覚の位に登りゆくことを “脱” とするのである。
 この “種・熟・脱” という 「化導の始終」 がすべて説かれているのは法華経だけです。しかし、迹門は本地が明かされていないので、その種子が分からず、かつ熟益どまりです。
 本当の種子は、“久遠元初の名字の妙法” こそ、一切衆生の成仏の根源の種子であります。

 問う迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実と云うや、
 答う其れ三惑を断ずるを名づけて成仏と為す、而るに迹門には二乗・未だ見惑を断ぜず況んや無明を断ぜんや、文の九に云く「今生に始めて無生忍を得・及び得ざる者・咸(ことごと)く此の謂(おもい)有り」等云云、既に近成を愛楽(あいぎょう)す即ち是れ思惑なり、未だ本因本果を知らず即ち是れ邪見なり・豈見惑に非ずや、十法界抄に云く「迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり、故に涌出品に至つて爾前・迹門の断無明の菩薩を “五十小劫・半日の如しと謂えり” と説く」等云云、(同抄・38P)


 三惑を断ずるをもって成仏というならば、迹門の二乗は未だこの三惑を断じていないのである。
 三惑とは、見思惑・塵沙惑・無明惑の三つをいう。“近成を愛楽す” と、始成正覚への愛着があり、これ “思惑” である。
 “本因本果を知らず” と、久遠の真の因果(本因本果)を知らないという邪見があり、これ “見惑” である。
 『十法界抄』 に、迹門の二乗は未だ見思惑を断じていない。迹門の菩薩は、未だ久遠を知らないという根本の “無明惑” を断じていない。また、迹門の六道の凡夫は、久遠の生命観が明かされる前のため、本有の六界に住してなく、有名無実である。
 
 ここに、“五十小劫・半日の如し” という言葉が出てきました。これは、従地涌出品第十五において、地涌の菩薩が五十小劫の間、釈尊を身口意の三業をもって讃歎したが、迹門の菩薩は五十小劫の長遠を、僅か半日のことのように見誤ってしまったということである。
 天台大師はこの文を釈して云く 「解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す」(517P) と。(賢位……未だ無明を断ぜざる位)
 これは、久遠実成を知らない迹門の菩薩は、釈尊と久遠からの本弟子である地涌の菩薩との関係を、虚空会の儀式のうちの半日の出来事としか思わなかった。それ故に、地涌の菩薩の尊き姿に驚き、如何なる修行を積んだ大菩薩であろうかと、疑い惑ったのである。

 世間の人の中には、自分の境涯を嘆き、解決の道も分からず、ただ宿命に流されている場合もある。これらは生命の永遠を知らず、自己の命を “半日の如し”(今世だけ)と思うところから来ているのである。これ “惑者” になるのである。
 ものごとには多数の原因がある。中でも人生や生命に起因する問題は、三世の生命観によらなければ問題解決とはならない。その根本の原因に心を止め、解決を見いだす人は、半日を五十小劫と見る “解者” である。
 根本の無明惑は、「未だ久遠を知らざるを以て惑者の本と為すなり」(422P) とありますように、久遠を知らないことが、その根本の原因であるわけです。
 ゆえに、御本尊を受持し信行に励むことが、“種子を覚知する” ことであり、“三惑を断ずる” ことになるのであり、即身成仏への唯一の道であります。

 池田先生は、「始成正覚とは、今世論」 である。「久遠実成とは、永遠論」 である、と述べられています。そしてまた、
 目先のことでは、いけない。目先は 「始成」 論です。目先のことにとらわれず、永遠と宇宙を見つめながら生きるのです。その上での今世観が大事です。永遠の上から見て、今世が一番大事なのです。
 今世は短い。永遠から見れば一瞬です。ゆえに今世を修行し抜いて、仏界の生命を打ち固めておくことです。そうすれば、永遠に仏の境涯が続くのです。だから今を頑張りなさいと言うのです。
 (法華経の智慧4巻・105P)

 関連記事「久成は永遠論」 ―→ ここから

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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