誓願

 「広宣流布誓願勤行会」 が挙行されています。そこで、あらためて 「誓願」 について、学んで見たいと思いました。
 誓願とは、仏・菩薩が衆生を救済しょうとして誓いを立てることで、有名なのが 「四弘誓願」 という四種の誓願があります。すべての菩薩が起こす誓願なので 「総願」 とも言います。

 (1)衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)。 一切衆生をすべて悟りの彼岸に渡すと誓うこと。
 (2)煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)。 一切の煩悩を断ずると誓うこと。
 (3)法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)。 仏の教えをすべて学び知ると誓うこと。
 (4)仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)。 仏道において無上の悟りを成就すると誓うこと。 

 以上の四種の誓願の内、「一切の菩薩必ず四弘誓願を発(おこ)す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し」(424P) とありますように、誓願の基本となるものは、衆生を度す即ち、衆生を救済すると誓うことであります。

 したがって、釈尊の極説たる法華経は、「令法久住」(法をして久しく住せしめん)(見宝塔品第十一) の誓願に貫かれていると言っても過言ではありません。
 そのほか 『方便品第二』 には 「我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異」(我本誓願をたてて 一切の衆をして 我が如く等くして異なること無からしめんと欲しき) とあります。
 仏の目的は自分(釈尊)と等しい境地に衆生を導くことにある。仏法は一切衆生に仏界という尊極の生命が内在することを示し、衆生をしてその仏界を開かしめるところに、仏の出現の目的があるという。

 『如来寿量品第十六』 には 「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 即成就仏身」(毎に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと) とあります。
 仏が常に念じていることは、どのようにすれば衆生を、無上仏道に導き入れ、速やかに仏身を成就させることができ得るであろうか、という慈悲の心であります。

 そして 『薬王菩薩本事品第二十三』 に 「我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶」(我が滅度の後、後の五百歳の中に、広宣流布して、閻浮提に於て、断絶せしむること無けん) とあります。
 後の五百歳即ち、末法の衆生を救わんがために、世界中において広宣流布して、決して断絶させてはならない、とのご命令である。
 「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」(736P) とありますように、世界広宣流布こそが、仏の本誓願であります。

 池田先生は、大聖人の時代から七百年を経た現代においても、大聖人が捉えられた 「末法」 という時代性の本質は、変わっていないと述べられ、次のように指導されています。

 端的に言えば、末法とは 「争いの時代」 です。あらゆるものが争いへと流されていく時代です。その激流に抗する力は、「自他の仏性を信ずる」 という強い信念です。そして、その信念の実践化としての 「人を敬う」 行動以外にありません。
 この信念と行動の拡大が 「広宣流布」 にほかならない。
 「争いの時代」 の激流を押し返す、「広宣流布」 の流れをつくられたのが、大聖人なのです。
 「根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながし」(329P) です。大聖人は、御自身の戦いが末法万年の広宣流布の根源であり、源流であると言われています。
 生命に具わる仏性の開発という、もっとも根源の次元から、広宣流布の流れを起こされたからです。
 争いと対立の根である 「無明」 を、妙法への強き 「信」 によって打ち砕く戦いに勝ってこそ、その広宣流布の流れは起ってくる。
 この源流をつくるために、大聖人が御書の随所において強調されているのが 「広宣流布の大願」 なのです。


 斉藤 ……… 御書における 「広宣流布の大願」 について、さらに語っていただければと思います。

 名誉会長 「広宣流布の大願」 は御書の核心です。
 また、大聖人の御生涯を貫く骨格です。
 「大願」 とは、仏の悟りの生命から発する 「広大な願い」 です。
 万法を包む一法である妙法を自身の当体と悟った仏の心において発現する 「生命本来の願い」 です。
 「悟る」 ということは、この生命本来の願いを 「思い起こす」 ことだと言っても過言ではない。
 いずれにしても、仏界の生命と広宣流布の大願は一体です。だから、広宣流布の大願に生きる人には、仏界の生命が涌現するのです。
 仏界といっても、仏性といっても、大願を起こし、広布に生き抜いていく、「一念に億劫の辛労を尽くす」 戦いを離れてはありえない。
 その 「瞬間の生命」 こそが仏であり、如来なのです。
 事実としての仏の生命を教えるのが、大聖人の 「事」 の仏法です。そのために大願に生き抜きなさいと大聖人はおっしゃっておられる。
 仏の大願をわが願いとし、不退転の行動で大願を達成せんと願い、誓い、向かっていく人は、知らずしらずのうちに、仏の心と冥合し、仏界の生命を湧現していけるからです。


 斉藤 大願を持つことは即、成仏の道を歩むことだといえますね。

 名誉会長 広宣流布の戦いのなかにしか、成仏の道はないのです。大聖人が 「撰時抄」 で明示されている通りです。
 さきほども言った通り、仏法は 「行」 です。行とは、自分が 「決意」 して、どんな困難があっても 「 実践」 し抜いていくことです。自分で切り開いていく努力でなければ行とは言えません。
 仏と同じ決意をして、その実行ためにどこまでも努力していく。そこにしか成仏の道はありません。


 斉藤 それゆえに、大聖人は弟子たちに、「大願を起せ」「大願に生きよ」 と呼びかけておられるのですね。

 名誉会長 私がいつも心して拝しきた一節に 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(955P) と仰せです。この限りある人生を仏と同じ大願に生きなさい、と教えられている。

 斉藤 悟りそのものは、いくら言葉を尽くしても、伝えきれるものではありません、しかし、願いは伝えやすいし、習うこともできます。なにしろ、人間は願いの専門家ですから(笑い)。

 名誉会長 大願は、仏界の生命の人格的な現れです。ですから、私たちは一個の人格として学ぶことができるのです。
 大聖人は 「願くは我が弟子等・大願ををこせ …… をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ」(1561P) と仰せです。
 わが身は 「つゆ」 のようにはかなく、「ちり」 のように取るに足りない身かもしれない。その身も 「大願」 を起すことで、法華経の大海と一体化して永遠に失われない身となる。また、妙法の大地となって、永遠に朽ちることがない。大願を起せば仏の大境涯に連なるのだ、とのお約束です。 
 (御書の世界1巻・14~18P)

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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