四度の大難(伊豆伊東の流罪)

 大事の難の二度目は、「伊豆伊東の流罪」 です。
 日蓮大聖人は、前の松葉が谷の法難を避けられて、一時、下総国(千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられ、下総方面の折伏を進められた。翌弘長元年の春、再び鎌倉の地に戻られました。
 これを知った念仏者らの訴えによって、時の執権・北条長時は権力を使って、大聖人を理不尽にも伊豆に流罪したのである。時に弘長元年(1261年)5月12日、大聖人御年四十歳の時である。
 伊豆伊東の流罪については、『船守弥三郎許御書』 を拝したいと思います。
 
 「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につ(着)きて候しに・いまだ名をもき(聞)きをよびまいらせず候ところに・船よりあ(上)がりく(苦)るしみ候いきところに・ねんご(懇)ろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわ(愍)れみ給うか、たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ(手水)其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにく(憎)みねだ(嫉)む事・鎌倉よりもす(過)ぎたり、み(見)るものは目をひき・き(聞)く人はあだ(怨)む、ことに五月のころ(頃)なれば米もとぼ(乏)しかるらんに日蓮を内内にて・はぐく(育)み給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云うところに生れかわり給うか、法華経第四に云く 「及清信士女供養於法師(ぎゅうしょうしんじにょ くようおほうし)」 と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとこ(男)となり或は女となり形をかへさまざま(様様)に供養してたす(助)くべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女(しじょ)と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」(1445P) と仰せです。

 流罪の理由については、「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(355P)・「上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし 故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(1413P) などである。
 要するに、“理不尽に” とあるように、評定(裁判)にもかけず、私怨を抱いて流罪に処するとは、「大事の政道を破る」(355P) ことになるのである。

 大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に降ろされ、疲労の極に達せられて一人で苦しんでおられた。
 そこに通りかかったのが、漁師の船守弥三郎であった。弥三郎は、大聖人を我が身の危険を顧みず、妻とともに30日間かくまい外護し続けたのである。
 「日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」 というように、住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになったのである。

 日蓮大聖人は本書で、この夫妻の清信の外護を賞賛されている。
 まずは、船守弥三郎に対して 「いかなる宿習なるらん」 と、前世からの何らかの深い因縁があるに違いないと述べられている。
 次に、弥三郎の妻も、献身的な世話をしてくれたことについて 「食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」 と述べられ “不思議” としか言いようがないと、女性の力を絶賛されている。
 そして、弥三郎夫妻そろって 「ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや」 と述べられ、法華経への信仰を讃嘆されている。
 そのうえ、「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか」 と、大聖人の父母が弥三郎夫妻と生まれかわったのであろうか、と言われている。

 更に、『法華経法師品第十』 の 「及清信士女供養於法師」 の文から、「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」 と、仏の遣いとしての清信士女であると断言されている。これは、法華経との因縁という面を言われたと考えられる。
 更に、本書の最後には 「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」(1446P) と述べられ、教主釈尊の生まれ変わりであろうか、とまで絶賛されている。
 このような船守弥三郎夫妻への讃嘆の言葉を拝するとき、伊豆流罪における弥三郎夫妻の役割が、いかに大きかったかを知ることができる。

 後に、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、大聖人に病気平癒の祈願を依頼しました。その際に、大聖人は伊東に移られ、地頭の屋敷の近くで過ごされました。
 このとき大聖人は、その依頼に応ずべきかどうかを思案されたのである。と言うのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者でなかったからである。正しい仏法の祈願とは、あくまでも願主の信心が大切となる。願主に妙法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。
 そこで、「然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせう(訴訟)とこそをも(思)ひ候へ」(1445P) とある通り、地頭が大聖人と法華経への信心を起こして始めたので、病気平癒の祈願を行ってあげました。
 この祈願の結果、「ついに病悩な(癒)をり・海中いろ(鱗)くづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし」(1446P) と仰せです。

 病苦から救われた地頭は、大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに、漁師が海中より引き揚げたという立像の釈迦仏を大聖人に奉納した。
 この海中出現の釈迦仏を、大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられている。
 末法においては、インドの釈尊の教えは無益であり、釈迦仏を本尊とすることはない。にもかかわらず、なぜ大聖人御自身、釈迦仏の像を所持されたのであろうか。
 その意義については、日寛上人が、『末法相応抄下』 で、三つの意義を示されている。

 「一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか、二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈(あに)称歎せざらんや、三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」(六巻抄・172P) と述べられている。

 一つには、立宗弘通の初めであることから、まず釈迦仏を借りて一機一縁・その用捨は時の宜しきに随われた。
 二つには、当時の日本国中、みな阿弥陀仏など爾前経の諸仏を本尊としていたので、まずそれを廃し、法華経の釈迦仏を造立したことは称歎された。
 三つには、大聖人の仏の境界の眼には、立像の釈迦仏がそのまま、久遠元初の本仏と映られたということである。
 このような深い理由があって、大聖人は釈迦一体像を所持されたのであり、決して他門流の言うように、釈迦像を本尊として崇めてよいと言うことではないのである。
 その後、弘長3年(1263年)2月22日、流罪を赦免され、鎌倉へ戻られました。

 「伊豆伊東の流罪」 は、後の 「佐渡流罪」 と合わせて、『勧持品第十三』 の 「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(数数(しばしば)擯出せられん) とありますように、日蓮大聖人はこの経文通りに、二度までも王難の流罪の大難に遭われた。
 経文を身読することは、法華経の行者の証明、即ち、日蓮大聖人は 「末法の御本仏」 であります。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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