四度の大難(小松原の法難)

 大事の難の三度目は、「小松原の法難」 です。
 文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)で、地頭の東条景信の率いる念仏者らから襲撃を受けた法難で、「東条の難」 ともいう。

 伊豆流罪から戻られて間もない文永元年の秋、大聖人は、病気中の御生母を見舞うため、また、故御父の墓参のため、十一年振りに故郷の安房に帰られました。御生母は重体であったようだが、「されば日蓮悲母(はは)をいのりて候しかば現身に病をいや(治)すのみならず四箇年の寿命をのべたり」(985P) と仰せられております。

 清澄寺での立宗宣言の時、念仏を破折した大聖人に対して、念仏強信の地頭・東条景信はそれを聞きつけて、その日のうちに迫害を加え、清澄寺から追放させた。このとき、兄弟子の浄顕房と義浄房の手解きによって、辛うじて難を逃れることが出来ました。

 また、景信は、清澄・二間の両寺の支配権をめぐって、大聖人が若き日に両親ともどもに、お世話になった恩人である領家の尼と争って、訴訟をたびたび起こしていた。
 その訴訟に、大聖人は、領家の尼への恩返しのためにも関わられた。そして、一年も経たないうちに、領家の尼の勝利で決着した。
 自分から仕掛けた訴訟で敗訴した景信は、どれほど怒り、悔しがったことか、景信はこれを逆恨みしていたのである。
 かかる状況のなか、父の墓参と母の見舞いに帰省された大聖人を、景信らは大勢で襲撃したのである。
 この法難について大聖人は、約1ヶ月後の 『南条兵衛七郎殿御書』 において、次のように仰せられています。

 「今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉(さるとり)の時・数百人の念仏等にま(待)ちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・もの(物)の要にあふ(合)ものは・わづ(僅)かに三四人なり、い(射)るや(矢)はふ(降)るあめ(雨)のごとし・う(討)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のて(手)にて候、自身もき(斬)られ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・う(打)ちもらされて・いま(今)までい(生)きてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ」(1498P)

 その日、大聖人は、西条花房から、天津の工藤吉隆邸へ向かわれます。その途中、東条の松原という大路で、申酉(さるとり)の時といいますと、現在の暦では、十二月八日の夕方五時ごろに当たります。もう辺りはすっかり暗くなっていたと思われます。
 大聖人の御一行は十人ばかりで、大勢の暴徒は数百人と認識されています。応戦できるのは、わずか三、四人。弟子の鏡忍房はその場で討ち死にした。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は、重傷を負い、程なくして亡くなったと伝えられています。
 大聖人は、「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189P) とありますように、刀の切っ先があと数ミリ長かったら、お命に及ぶような、まさに危機一髪、九死に一生を得られたのである。

 日蓮大聖人は、「而(しか)も此の経は如来の現在すら猶(なお)怨嫉(おんしつ)多し況や滅度の後をや」・「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」 等の経文をひかれて、
 「法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあ(値)わせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道(がふあいしんみょう たんじゃくむじょうどう)是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(1498P) と仰せられ、「法華経の行者」 としての御自覚を披歴されています。

 在世、釈尊は法華経のゆえに、「九横の大難」を受けられました。その中に 「調逹が山を推(お)す」(966P) と言って、提婆達多が釈尊を怨んで殺そうとし、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)から釈尊目がけて大石を落とした。小片が散って釈尊の足の親指を破って血を出したという難がある。
 釈迦滅後、正像時代では、天台・伝教といえども、ただ悪口罵詈ばかりである。勧持品第十三の 「及加刀杖者(及び刀杖を加うる者有らん)」 の 「刀杖」 の難を身で読まれたのは、日蓮大聖人が最初であります。
 
 池田先生は、「小松原の法難」 をのり越えられたことについて、次のように述べられています。
 いずれにせよ、「日本第一の法華経の行者」 との大聖人の御確信が、諸天を動かし、危難を脱されたのでしょう。「心の固きに仮(よ)りて神の守り則(すなわ)ち強し」(1220P) の仰せの通りです。  (御書の世界2巻・69P)

 法難の三日後、旧師の道善房が見舞いに訪れます。道善房は自身の来世を気にかけ、“念仏を信仰して五体の阿弥陀仏を作った。自分は無間地獄に堕ちるのか” と大聖人に質問しています。
 大聖人は、昔を懐かしみ、いたわり、おだやかに申すことが礼儀とは思ったけれど、「生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、…… 哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(889P) と、いま言っておかなければと、強強に訓戒なされました。
 道善房は一時、法華経の信仰に目覚めましたが、大聖人の佐渡流罪の時、心臆して、領家の尼等とともに退転してしまったようです。

 『報恩抄』 に、「其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便(ふびん)なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさど(佐渡)の国までゆきしに一度もとぶ(訪)らはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(323P) と仰せです。
 信じていると言っても、態度・行動の上に現れなければ、それは空ごとになるのである。「行体即信心」 と言われる所以である。

 池田先生は、「故郷に長年巣くってきた念仏信仰を打ち払い、題目の声が響く故郷を築こうとの思いが込められた御書です。念仏勢力に打ち勝った勝利宣言の御書といえるのではないでしょうか。
 すべては、万人成仏の道、幸福の道を開くためです。その大慈悲と勇猛果敢な行動に感謝し、私たちも広宣流布の闘争で勝ち続けていきたい」
 と指導されています。   (御書の世界2巻・71P)

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

おはようございます
私の友人 M子は 過去帳を見て
小松原の法難さん と言ってました
小松原が 苗字で 法難が名前
そう思ったようです

そのM子も 初級試験を受けて 御書を拝読する決意をしたそうです
私があげたのは、五大部の御書
どの御書が 読みやすいですか?

今日は M子も 念願の大誓堂へ行きます
共々に 成長していきますね

Re: No title

 おはようございます

 M子さま、御書を拝読する決意をされたそうですね。
 もう既に、初級試験を合格されたのと同じであります。

> どの御書が 読みやすいですか?

 五大部は重要な御書でありますが、長編なる御書ですので初めから取り組むのは、なかなか骨が折れます。
 かつて、先生が青年部に対して、常に拝読するように指導された御書があります。

 一生成仏抄(383P)。 如説修行抄(501P) 佐渡御書(956P)。 
 生死一大事血脈抄(1336P)。 諸法実相抄(1358P)。

 以上の五編だったと記憶しています。この五編から始められたら如何でしょうか。
 毎日、一行でも、一頁からでも良いですから拝読されることが大切です。
 ちなみに私は、勤行の後、音読しています。
 ご参考になれば幸いです。M子さまに、宜しくお伝えください。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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