夏季大学講座(3)

 次に 「常不軽菩薩品」 でありますが、菅野先生のお声が 「ジョウキョウ菩薩・ジョウキョウ菩薩」 と聞こえまして、私は一瞬 「ジョウギョウ(上行)」かなと思いましたが、いや 「常不軽菩薩」 の 「フ(不)」 の字音が聞こえなかったのだと納得いたしました。
 それにいたしましても、「常不軽菩薩」 のことを 「ジョウキョウ(常軽)菩薩」 という場合があるのだろうかと、そんなこと思っていましたら、あっという間に時間が来てしまいました。
 そこで、講義資料を頂いていますので、復習してみたいと思います。

 「常不軽菩薩品」 は、釈尊が徳大勢菩薩に対して、常不軽菩薩の物語を通して、『法華経』 を受持するものを悪口し、罵詈(ののしること)し、誹謗するものの罪の報いと、信じるものの六根清浄の功徳を説いている。

 威音王仏の像法時代、増上慢の比丘が勢力を振るっていた時代に、常不軽という出家の菩薩がいた。
 なぜ、常不軽というのかと言うと、自分と出会う上慢の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に向かって、彼らを礼拝し、褒め讃えて 「私は深く貴方たちを尊敬する。軽んじて侮ったりしません。なぜならば、貴方たちはみな菩薩の修行を実践して、当に成仏することができるからです」 と、大きな声で言って人毎に礼拝した。
 この菩薩は経典を読誦することに専念せず、ただ専ら礼拝を行うだけであった。常にこのような言葉を語ったので、増上慢の四衆は、彼を “常不軽菩薩” と呼んだのである。

 これは、すべての人間が将来において菩薩の修行を実践して仏に成ることができるという、最も人間を尊厳視した 『法華経』 の思想と実践である。
 この礼拝行を一生涯実践した常不軽菩薩は、六根清浄の功徳を獲得した。そして釈尊は過去世において、この常不軽菩薩こそ、釈尊自身であることを打ち明けるのである。
 釈尊は、常不軽菩薩の物語を通して、諸の菩薩摩訶薩に対して、「如来の滅後に於いて、常に応(まさ)に是の経を受持し、読み、誦し、解説し、書写するべきである」 と述べ、『法華経』 の五種法師の修行を勧めているのである。
 他に、プリント一枚の資料を頂きまして、その中に 「常不軽菩薩の実践の思想的意義」 と題するのがありますので、引用させて頂きます。

 この物語によれば、常不軽菩薩の礼拝行と 『法華経』 とは直接の関係がないことになる。なぜならば、常不軽菩薩は臨終のときにはじめて 『法華経』 を聞いたことになっているからである。
 しかし、一仏乗、つまりすべての衆生が平等に成仏できるとする思想が 『法華経』 のもっとも中心的な思想であることと、『法華経』 の成立の歴史を想像すると、初期の 『法華経』 の信仰者 グループの実践は、あらゆる人の成仏を訴える、この常不軽菩薩の授記のようなものではなかったかと推定される。この 『法華経』 信仰者の実践に対する周囲の冷ややかな反応もまた、常不軽菩薩品に描かれるようなものだったのではないであろうか。

 日本の日蓮(1222~1282)、あるいは後の弟子が常不軽菩薩の語りかけた、二十四文字(我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。) と、妙法蓮華経の五字 とを類比対照させたこと、つまり常不軽菩薩の語りかけが 『法華経』 の思想そのものであると捉えたことは、常不軽菩薩の実践こそが 『法華経』 に対する信仰と実践であることを洞察したからにほかならなかったからであろう。
 (『崇峻天皇御書』、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P)
 『教行証御書』、「彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、得道の時節異なりと雖も、成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」(1277P) を参照。)

 日蓮の思想の影響を受けた宮沢賢治(1896~1933)の有名な詩に 「雨ニモマケズ」 があり、これは常不軽菩薩の実践に着想を得たものであることはよく知られている。
 日本の文壇では、彼の死後、この詩の文学的価値に関する議論があったが、そのような議論は結局、賢治にとってはむなしいものと映ったはずである。なぜならば、この詩は文学ではなく、賢治の誓願文であるからである。自分も常不軽菩薩のように生きたいという彼の誓いの言葉なのである。

 このように見てくると、常不軽菩薩の実践は、とりもなおさず 『法華経』 の中心思想の一つである一仏乗の思想、つまりすべての衆生が平等に成仏できるという思想を、ドラマの形で生き生きと表現したものであることがわかる。


 日蓮大聖人は、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 常不軽菩薩の礼拝行に見られる 「人を敬う」 という実践が、法華経の修行の根本であり、末法今時に於いては、学会員さんたちが実践する 「折伏行」 こそが、自身にとって 「出世の本懐」 となるのであります。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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