四度の大難(頸の座)

 日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵にて逮捕され、その後、「日中に鎌倉の小路をわたす事・朝敵のごとし」(1525P) とありますように、謀叛人に対するのと同じような処遇で連行されました。
 そして、何の裁判もなく、いきなり佐渡流罪の処分が決められていた。しかし、「外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」(356P) とありますように、内内では大聖人を斬首する意向であった。

 子の刻(午前零時頃)、秘密裡に大聖人は、馬に乗せられ武装した兵士に囲まれて、竜の口の刑場に連行されます。
 その途中、若宮小路に差し掛かった折、「日蓮云く各各さわ(騒)がせ給うなべち(別)の事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまこと(実)の神か」(912P) と、“法華経の行者・日蓮が、このような大難に遭っているのに、八幡大菩薩の守護がないのは如何なる訳か。釈尊との誓いを踏みにじるのか” と、烈々と叱咤したのである。

 鶴岡八幡宮といえば、源頼朝公以来の鎌倉幕府の守護神である。その八幡大菩薩を叱り飛ばしたのである。聞いていた兵士たちは驚愕(きょうがく)した。
 しかも、平左衛門尉さえ止めさせることも出来ないほど、堂々とした威厳のある振る舞いである。
 昨夕来の平左衛門尉の “ものにくるう” 態度と眼の前の大聖人との対比は、どちらが正か邪か、兵士たちに動執生疑(執着の心を動かせて疑いを生じさせる)のに十分であった。兵士たちは、何かを思い悩むようになった。
 それは当時、一般的に “僧侶を殺せば無間地獄に堕ちる。後々七代までも祟(たた)る” 等々、後生のことが、真に信じられていたのである。
 ここに至って、竜の口への一行の様相は、大聖人は、馬上で堂々として主導権を握り、警護の兵士は、“屠所の羊” のような姿ではなかったかと思われる。まさに主客転倒である。

 やがて、由比ヶ浜に出ます。そして、「しばし・とのばら・これにつ(告)ぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子を・つかわしたりしかば・いそぎいでぬ、」(913P) とありますように、これから起こるであろう宗教的現象の現認者として、信心堅固な四条金吾を呼び出します。
 急を聞き兄弟と共に、徒(かち)はだしで駆け付けて来た金吾は、馬の轡(くつわ)に取り付いて、殉死の覚悟でお供しました。

 いよいよ刑場に着いた時、金吾は感極まって、
 「左衛門尉申すやう只今なりとな(泣)く、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそく(約束)をば・たがへらるるぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ(昧爽)人の面(おもて)も・みへざりしが物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥(ふ)し兵共(つわものども)おぢ怖れ・けうさ(興醒)めて一町計りはせのき」(913P) とありますように、“月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(東南)のかたより戌亥(西北)のかたへ・ひかりわたる” という不思議な現象が起き、幕府権力をもってしても、大聖人のお命を奪うことは出来なかった。

 この 「光り物」 については、2013年2月15日、ロシアでの隕石落下が、一応、参考の一つになるのではないかと思います。
 ロシアの場合は、地上まで落下しましたが、竜の口の場合は、一瞬、人々の顔もハッキリ見えほど強く光り、あとは大気圏内で消滅したか、海へ落下したかのどちらかであろうと思います。
 何れにせよ、大聖人の頸が斬られようとした 「その瞬間」 に、現れたという事実こそが大事なことであります。
 大聖人は、「三光天子の中に月天子は光物(ひかりもの)とあらはれ竜口の頚(くび)をたすけ」(1114P) と、諸天善神の月天子が 「光り物」 として現れたと仰せになられています。
 「竜の口の法難」 について、池田先生は次のように指導されています。
 
 名誉会長  「これほどの悦びをば・わらへかし」 です。
 こうした大境涯が、どうして形成されるのか。人間は、かくも偉大になれるのか。
 不思議といえば、これ以上の不思議はありません。私は、これが誓願の力だと確信する。深き誓いと正しい理想に生きた時、人間の心は無限大に広がります。
 仏法で説く 「久遠の誓い」 とは、無明を破り、法性のままに生きる心を確立していくことです。具体的には、自他共の幸福を願う心であり、広宣流布の大願です。
 この本願の誓いに目覚めた人間の心を阻むものは、何もありません。身は斬られても、心を切り裂くことはだれもできない。これが、慈悲に生き切る人間の力です。ただ一人、地獄のような境遇にさらされても、何も怖いものがない。反対に、このように恐れるものが何もない人間に対しては、周りが、本当の意味で怖さを感じます。
 日蓮大聖人の大難また大難の御一生は、人間の研ぎ澄まされた魂の力が不滅であることを証明した御生涯であられた、と言えるでしょう。
 “人間は、かくも偉大なり” ということを全生命を通して宣言されている。
   (御書の世界2巻・101P)

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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