四度の大難(発迹顕本)

 「竜の口の法難」 において斬首されようとした事件は、仏法上から見ますと、甚深の意義があります。それは、「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」(迹を発(ひら)いて、本を顕す) ということで、仏が垂迹(仮の姿)を開いて、本地(本来の境地)を顕わすことであります。

 釈迦仏法では、法華経如来寿量品第十六で、釈尊は十九歳で出家し、三十歳で成道したというのは、衆生を教化するために迹を垂れたものであり(始成正覚)、その本地は五百塵点劫以来、三世常住の仏(久遠実成)であると明かしたことをいう。
 末法における発迹顕本は、日蓮大聖人が竜の口の法難によって、凡身の迹を開かれて、“久遠元初の自受用報身如来” という本地を顕されたことをいう。

 『開目抄』 に、「日蓮といゐし者は去年(こぞのとし)九月十二日子丑(ねうし)の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて返年(かえるとし)の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをく(贈)ればをそ(畏)ろしくて・をそ(怕)ろしからず・み(見)ん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(223P) と仰せられています。

 ここで、実際に頸をはねられたわけではないのに、「頸はねられぬ」 と仰せられているのは、それまでの “上行菩薩の再誕” というお立場は終わったという意味の表現です。
 そして、新しいご境地すなわち、「魂魄」 というものを感得なされました。このことについて、日寛上人の 『開目抄愚記』 に、次のように指導されています。

 一、子丑の時に頸はねられぬ文。
 「子の時」 は鎌倉を引き出(いだ)し奉る時なり。…… 夜半は即ち子の時なり。
 「丑の時」 は正しく頸の座に引き居(す)え奉るなり。……
 今 「子丑」 というは、これ始終を挙(あ)ぐるなり。
 「頸はねられぬ」 とは、只この義は頸を刎ねらるるに当るなり。…… これ則ち 「及び刀杖を加う」 の文に合するなり。
 「魂魄・佐土の国にいたりて」 とは、「数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」 の文に合するなり。故に蓮師は 「不愛身命、但惜無上道」 の法華経の行者なること、誰かこれを疑うべけんや。仍(なお)これ附文の辺なり。
 問う、元意の辺は如何。
 答う、……
 この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身(しんしん)の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり。(文段集・191P)

 問う、その謂(いわれ)如何。
 答う、凡(およ)そ丑寅の時とは陰の終り、陽の始め、即ちこれ陰陽の中間(ちゅうげん)なり。またこれ死の終り、生の始め、即ちこれ生死の中間なり。……
 宗祖云く 「相かまへて相かまへて自他の生死はし(知)らねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むか(迎)いにまいり候べし、三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざ(刻)みの成道なり、仏法の住処・鬼門(きもん)の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」(1558P) 等云云。
 故に知んぬ、「子丑の時」 は末法の蓮祖、名字凡身の死の終りなることを、故に 「頸はねられぬ」 というなり。
 寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり。故に 「魂魄」 等というなり。(同・192P)

 一、をそろしくて・をそろしからず文。
 今謂(いわ)く、経に云く 「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖(くふ)有らん乃至身命を愛せず、但無上道を惜しむ」 と云云。この文の意なり。…… 良(まこと)に濁劫悪世の中に多く諸の恐怖あらん、故に一往は怖しきに似(に)たり。
 然りと雖も、日蓮は 「不愛身命、但惜無上道」 の法華経の行者なり、何の恐怖かあらん。故に 「をそろしくて・をそろしからず」 と云云。
 「み(見)ん人いかに・をぢぬらむ」 とは、「不愛身命」 の志の決定せざる人なり。(同・193P)
 

 以上、少々長くなりましたが、下手に現代語や解釈を加えて冗長になるよりは、“そのまま” 引用した方が良いように思いました。
 “三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざ(刻)みの成道なり” と、丑の刻(午前二時ごろ)は陰の終わり・死の終わり、寅の刻(午前四時ごろ)は陽の始まり、生の始まりを意味し、丑寅の刻(午前三時ごろ)は陰陽生死の中間であり、諸仏の成道する時刻とされるのである。
 釈尊の明星の耀う菩提樹下における成道も、日蓮大聖人が竜の口の頸の座で発迹顕本されたのも、この丑寅の刻であった。

 平左衛門尉が、私怨をもって貞永式目を破り、真夜中に、秘密裡に斬首しょうとした悪業も、仏法の成仏の眼から見れば必要であったのである。
 ゆえに、「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(917P)
 「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(509P)
 とまで仰せられました。
 法華誹謗の悪業ゆえに、無間地獄に堕ちなければならない者たちに、“最初に之を導かん”、 救ってあげたいと大慈悲をくだされたのである。

 名誉会長  日寛上人は、この 「開目抄」 の一節を次のように解説しています。
 「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」
 つまり、日蓮大聖人が竜の口の法難の時に、名字凡夫という迹を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という本地を顕されたことをいいます。
 言い換えれば、凡夫に身のままで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の 「永遠の如来」 を顕すということです。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御立場に立たれます。すなわち、末法の御本仏として、万人が根本として尊敬(そんぎょう)し、自身の根源として信じていくべき曼荼羅御本尊を御図顕されていきます。
 また、ここで注意しなければいけないのは、「発迹」 の 「迹を発(ひら)く」 という意味です。「発(ほつ)」 は 「開く」 ことです。


 斉藤  ここが誤解されやすい所ですね。
 「迹を発く」 からといって、何か別物になるというわけではないということですね。確かに、「迹」 と 「本」 では天地雲泥の違いはあります。そこだけ注目すると、全く別物に見がちです。

 名誉会長  どこまでも凡身のうえに、自受用身の生命が顕現していくのです。ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。
 日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々(かくかく)と顕れている。
 もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。
 苦難を超(こ)えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
 日寛上人は次のように仰せです。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 (『日寛上人文段集』)
 「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」(同)
 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」(同)
 
 ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たち今世で幸福になることはありえなくなる。

 ………
 名誉会長 私たちの一生成仏の手本を、大聖人が身をもって示してくださったのです。いかなる苦難も越えて、無明を打ち破り、法性を現していくいく自分を確立することが発迹顕本です。大難を受けるほど、仏界の生命は輝きわたっていく。そういう自分を確立することが、一生成仏の道です。
 真の意味の人間性の練磨は、難をのり越える信心のなかにあるのです。
   (御書の世界2巻・105~108P) 

 “凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている”・“この原理は私たちにとっても同じである” と、すなわち、人間を離れて 「仏」 も 「仏性」 も何もないのである。そして、現に我が身が、「仏」 に成ることができるのである。
 何と有り難いことか、これほど素晴らしい教えや仏法が、他に有りますでしょうか。

 他宗教は、有りもしない架空の仏や神を立て、極楽だ天国だと、これら架空の楽土を憧れさせ、少しばかりの道徳論と功徳論を信じ込ませ、そして多くの衆生を惑わし誑かせて、苦悩の淵に沈めさせているのである。
 大聖人は、「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり」(1046P)・「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」(509P) と仰せです。
 この法理を信ずる我らは、“未だ死せざる已前に此の大善を進めん” と、民衆救済・国土安穏を願って、仏の大願たる法華弘通に精進するのみである。

 池田先生は、捨てるべき迹とは 「弱気」 です。「臆病の心」 です。大聖人は、「勇気」 の本地の御姿を示すことで、発迹顕本を万人に示された。
 この大聖人の 「勇気」 の御心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾(かんじ)として立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。 (同書・110P)
 とご指導されています。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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