会則改正と宗門(弟子檀那)

 これまでに、法主による 「開眼」 とか 「血脈相承」 なるものを簡単に申し上げましたが、これ等のものは、もともと釈尊の原始仏教には説かれていません。
 当時 バラモン教・ヒンドゥー教が、盛んに呪術的な祭儀を行っていた。後の時代になって、釈尊の神格化にともない、これらの祭儀を取り入れたのである。そして、仏教の修行僧たちは次第に堕落してしまった。
 中国へは、善無畏三蔵が インドから渡来し、秘密真言を弘めた。我が国では、空海が中国から学んできて真言密教を弘めた。

 釈尊も天台も日蓮大聖人も、仏教の中に神秘・秘密主義的・超能力的なものは取り入れて無いのである。ゆえに、血脈とか、開眼とか、呪術的な加持祈祷とかは、説かれてないし、また厳しく禁じているのである。
 しかるに日顕宗は、血脈がない・開眼のない本尊は偽物だとか、僧が司らない葬儀・法要では故人は成仏しない等々、信徒を誑かし支配の手段としている。
 そして、法主は “御本尊と不二の尊体” なる 「法主信仰・法主絶対論」 という邪義まで構えている。

 門徒の樋田さんは動画にて、御書にある 「弟子檀那等」 の文を引いて、「弟子」 とは僧侶のこと、「檀那」 とは在家信徒のことであると解釈し、「弟子檀那等」 と弟子が前に、檀那が後に書いてあるから、“僧侶が上で在家は下” “僧侶が師であれば在家は弟子” という 「僧俗師弟義」 なる邪義を、「得受職人功徳法門抄」 なる偽書を用いて盛んに吠えていた。
 それならば、「弟子檀那等」 と、「等」 の字には複数の意もあるが、“等しい・同じ・平等である” という意もあるのである。

 そもそも、釈尊や大聖人が “出家と在家”、また “男・女の性差” などで差別したのか。否、当時の諸の差別社会の中で、徹底して一切衆生の平等を説いたのである。
 この歴史上の事実に目をつむり、強いて文字の前後の位置関係をもって、僧・俗の差別に用いる珍解釈は、大聖人の御精神に反し、“悉有仏性” を説く 「法華経の心」 を死(ころ)す、誹謗正法の者である。

 大聖人は、「法師品には若是(にゃくぜ)善男子善女人乃至(ないし)則如来使(そくにょらいし)と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448P) と、どこに僧俗差別を仰せになられているのか、よく眼を見開いて見よ と言いたい。

 日蓮大聖人は、名もなき女性信徒に 「日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・“日妙聖人” 等」(1217P)  と。 (“ ” は筆者)
 阿仏房に 「今 “阿仏上人” の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり」(1304P) と。
 富木常忍に 「今 “常忍上人” は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か」(976P) と。
 大田乗明に対して 「“乗明聖人” 御返事」(1012P) というお手紙を与えられています。
 このように、大聖人は称号を与えられるのに、僧俗の差別はされていません。

 ところで、「得受職人功徳法門抄」 という抄は、創価学会版の御書には記載されていません。
 御書の凡例に、
 「建長五年宗旨建立已前の戒体即身成仏義等数篇、現代教養に裨益(ひえき)なき 十王讃歎抄・八大地獄抄等、純天台なる三八教・秀句十勝抄等の如き縦(たと)い御真筆でも聖祖の御抄録分と見做(みな)して且(しば)らく文を除いた」 とあります。
 このように、堀日亨上人が、偽書の疑いがあるものや役に立たない御抄は、御書の編纂のときに除かれたのである。

 「得受職人功徳法門抄」 には、「比丘の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行は信行の比丘に同ず」 とあるそうだ。
 このような僧・俗の差別を、大聖人が仰せになる訳はない。大聖人にとって、出家・在家の違いはあっても、皆ともに可愛い弟子であり、信者であり、門下生である。共どもに広宣流布を戦う “地涌の菩薩” ではないか。
 後の時代になって、堕落僧らが自身の権威を高めるために、作りだした “偽書” なのである。

 在家の婦人の身で幼き児を連れて、はるばる佐渡まで師を求めた日妙聖人の信行が、幕府の権威を恐れ、流人の師を一度も訪うことも無かった僧侶ら(日興上人を除く)の信行よりも劣るというのか。
 僧階の最高を極め、神札を祀って仏罰を受けた法主・日恭の信行が、在家の身で法難を受けて入牢し “殉教” や “獄中の悟達” を得られた 牧口・戸田両先生の信行よりも勝れるというのか。

 馬鹿も休み休みに言え、と言いたい。このようなことだから、彼らの 「僧俗師弟義」 なるものは、現在の民主主義の平等思想にも劣るものである。
 だから、時代遅れの・真言かぶれの・富士の濁流の・法主信仰の 「日顕宗」 と称するのである。

 日寛上人曰く、「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟(いやし)くも糟糠(そうこう)を執し橋を問う何の益あらん」 と。  (依義判文抄)
  参照:橋を問う ―→ ここから

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
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