会則改正と宗門(御本尊)

 創価学会会則の条文の中の 「この会は、…… 日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」 ということが、門徒の樋田さん並びに宗門側は、てんで理解できないらしい。
 それは、「広宣流布」 が大聖人の御遺命である、御心・御精神であることを、完全に忘れ去っている。いや、否定さえしょうとしているようである。

 したがって、原田会長指導の 「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく 『本門の本尊』 であります。…… その唱える場がそのまま 『本門の戒壇』 となります」 また、「大聖人の仏法は、万人に開かれたものであり、三大秘法はあくまで一人一人の信仰において受け止められなければなりません」 というところ等は、理解できないし、拒絶反応を起こしている。

 彼らの言わんとしているところは、「本門の本尊」 とは 「弘安2年の御本尊」 だけであり、その御本尊に唱える題目が 「本門の題目」 であり、その場所のみが 「本門の戒壇」 であるというのである。
 確かにその通りであるが、「三大秘法」 には “総じて” の意義があるのである。我々の各家庭に御安置し・唱題している御本尊も、立派に 「三大秘法」 が総在している御本尊なのである。
 「本門の本尊」 とは、何も、「弘安2年の御本尊」 だけを言うのではない。

 彼らは駄々っ子のように、「弘安2年の御本尊」 にしがみ付き、いたずらに御書の文をもてあそび、言っていることは “お前らの御本尊は、法主の開眼も認可もないニセ本尊だ” と、馬鹿の一つ覚えのように繰り返しているだけだ。
 「開眼」 なんぞ、そんなこと宗門史上、何時の時代に行っていたのか。日顕の代になって、言い出したことではないのか。
 そんな暇があったら、一人でも折伏して、御本尊を持たして、人々を救うことが先決ではないのか。それが大聖人の御心に叶うということである。

 創価学会は、魂の独立以来、世界192ヵ国までも広宣流布を成し遂げました。
 池田先生は、自ら海外の開拓に身を投じられました。海外での折伏の困難さは、言語に絶するものがあります。
 現地の先駆者たちの血のにじむ御苦労に対し、先生は身命を惜しまず、一人ひとりを温かく最大限の激励をしてくださいました。
 海外の会員さん達も、先生のお心に応えようと “師弟不二” の精神で、困難を乗り越えて頑張ったのである。その結果が、世界192ヵ国なのである。一朝一夕で出来上がったものでは無いのである。

 このような美しい師弟の姿は、折伏もしない日顕なぞ、分からないだろう。
 日顕が海外で為したことと言えば、米国において、シアトルの夜の町をうろつき回り、売春婦とトラブルを起こして警察沙汰になったことだ。その者が、法主に成れば “大聖人と不二の尊体” とは、“聞いて呆れる” とはこのことだ。

 宗門のいう “ニセ本尊” を受持する創価学会が発展し、本物を受持しているという宗門が衰退するのは何故だろうか。
 これは、御本尊の違いではないことを物語っているのである。各家庭の御形木御本尊は、“分身散体の義” といって、弘安2年の御本尊と全く同じ力用を有するのである。

 では、何が違うのかと言えば、それは組織の指導者の違いなのである。学会は池田先生の指導を受け、宗門は法主の日顕・日如の指導を受けているという、ただ・これだけの違いである。
 しかし、この違いは非常に大きく、後になればなるほど、天地雲泥の差となって現われて来るのであります。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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