会則改正と宗門(三大秘法抄)

 会則改正についての原田会長指導に、「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも “電源と端子” の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります」 と述べられています。 

 門徒の樋田さんは、「本門の本尊」 とは、“弘安2年の戒壇の大御本尊” のみであり、この御本尊に唱える題目が 「本門の題目」 であり、その在所が 「本門の戒壇」 であると言っている。
 したがって、最勝の地は世界で1ヵ所しかないと、盛んにその独自性・唯一性を述べ、「弘安2年の御本尊」 を拝しない創価学会には 「三大秘法」 はないのであると主張している。

 しかし、これらのことには 「事」 というものと 「義」 というものがある。「事」 とは事相・事実・真実の事柄等のことで、「義」 とは道理・意義等のことである。
 書写された御本尊やその戒壇も、戒法およびその功徳において、「弘安2年の御本尊」 とその意義は全く同じであるから 「義の戒壇」 と言われる。「義」 であっても、ちゃんとした 「三大秘法」 が総在しているのである。
 世界広宣流布の時代を迎え、実践修行・流布拡大の時にあいながら、彼らは法華弘通の大願を忘れ、いたずらに 展望のない、出来もしない 「事の戒壇」 に執着し、これをもてあそんでいる。
 今は 「義」 の時代であり、意義・道理をもって広布拡大する時である。原理・原則が分かっていても、それを応用・展開しなければ、価値創造は出来ないのである。

 したがって、鎌倉時代より約800年、社会の世情もずい分変わって来ています。大聖人の 「御書」 と雖も、現代社会に合わなくなったところもあり、解釈の変更も余儀なくされています。
 「本門の戒壇」 を説かれた 『三大秘法抄』 に、

 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(1022P) と仰せです。
 宗門が金科玉条としている御文証であります。

 “王法仏法に冥じ仏法王法に合して” とありまして 「王仏冥合論」 と言われております。これは決して 「政教一致論」 ではありませんので、一言申し述べさせて頂きます。

 “有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を” とあります。有徳王とは、釈尊の過去世における修行中の因位の姿で、正法受持者の覚徳比丘が破壊の悪僧に襲われたとき、武器をとって悪僧と闘い覚徳比丘を守った。王は全身に傷を受け、正法に殉じたのである。
 この説話は、末法における死身弘法の勇者の出現を謂うのであり、まさに有徳王は、創価三代・御歴代会長の御姿そのままであります。

 “勅宣並に御教書を申し下して” とありますが、この部分は現代社会では用を成さなくなっております。御教書を国会の議決書であると曾て聞いたこともありますが、宗教上の問題を国会で議決するなんて、現代では禁止されており、憲法違反に成ります。

 “最勝の地を尋ねて” とありますが、最勝を “ただ一つ” ととって 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600P) の御文証をもって、富士の大石寺の奉安堂であると主張している。
 800万の学会員が真心からの御供養で寄進し、日達上人が 「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」 と訓諭された “正本堂” を、自らぶっ壊しておきながら、今さら何を言うのかと言いたい。
 また、最勝の地とは風光明媚な所だけを言うのではない。時代は安全第一を要請している。
 富士山は数十~数百年後には、必ず爆発すると噴火予知の学者等は予言している。今や富士の裾野は危険地帯なのである。

 “戒壇を建立す可き者か” と仰せられていますが、この戒壇はただ一つの特定の場所を指す 「事の戒壇」 ではなく、広く世界へ各家庭の数多くある 「義の戒壇」 であると、解釈しなければならないと思います。  
 宗教学者のウイルソン博士は、「特定の場所に行かなければならないという宗教は、世界宗教にはなりえない。すべての国の人々が、自分の生活の場で実践できる宗教でなくては、世界宗教とはいえない。寺院建築は、本来の宗教心や精神と比較すれば重要ではない。(趣意)」 と述べられています。
 原田会長も、「あたかも “電源と端子” の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります」 と指導されています。

 日蓮大聖人は、「神力品に云く 『若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至(ないし)而般涅槃(にはつねはん)したもう』 と云云、此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちまち)に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」(1578P) と仰せです。
 此の砌とは、御本尊の所住の処であり、そこは林の中でも、世界中どこであっても、三業の悪転じて般涅槃(理想の境地・成仏)を成ずることができるのである。
 ゆえに、“戒壇を建立す可き者か” の戒壇は 「義の戒壇」 すなわち、「各家庭に御安置」 するための本尊流布と、とらなければ日蓮仏法は “世界宗教” には成りえないのである。

 “大梵天王・帝釈等も来下して” とあり、この梵天・帝釈とは、“世界の指導者” たちを言います。
 現に、学会本部・大誓堂・創価大学等には連日のように、海外の著名な有識者の方・SGI の友の方々等、はるばる遠くから、多くの方々が来訪されています。まさに、“梵天・帝釈が来下した” そのままの姿を、映したものとは言えないでしょうか。

 一方、宗門の奉安堂には、海外からどれだけの方々が来ているのだろうか。皆無ではないのか。このような状況で、奉安堂が 「事の戒壇」 だなんて言うのは、おこがましいことではないのか。
 この一事をもってしても、学会と宗門のどちらが、『三大秘法抄』 を “身・口・意” の三業で読み実践している教団であるのか、否か、明瞭ではないか。
 したがって、日蓮大聖人の法華弘通の大願を我が心として、「世界広宣流布」 並びに 「義の戒壇」 の建立に邁進しているのは 「創価学会」 だけであると宣言いたします。

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No title

かつて学会は広宣流布達成の象徴として大聖人御遺命の事の戒壇であるべき正本堂を建立したのではなかったのですか?

特定の場所に本尊を安置することに意味が無いと言うなら350億もの大金を学会員からかき集めて建立する必要など初めから無い訳で全く無駄なお金を使わせた責任について学会側はどう考えられているのでしょうか。
本門の戒壇と大石寺がそれをぶっ壊したことに責任を求めることは全く別次元の話ですね。あなたは特定の場所に本尊を安置することの意義を問うているのだからその点に関しては奉安堂でも良いはずです。

戸田会長指導
  御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。(折伏教典 323)

自分たちの都合に寄ってコロコロ教義を変えるようなところこそ邪教であることは明らかです。

Re: No title

> かつて学会は広宣流布達成の象徴として大聖人御遺命の事の戒壇であるべき正本堂を建立したのではなかったのですか?

 かつて、学会は日蓮正宗の信徒団体として、宗門の指導に随って参りました。ゆえに、正本堂を建立して寄進もしました。
 ところが法主日顕は、その真心の御供養も分からず、学会を切り、正本堂を破壊し、大聖人の御遺命たる広宣流布を破壊するという暴挙に出て、第六天の魔王の正体を現した。
 正本堂を破壊したのは、宗門の日顕である。学会ではないのである。
 それを、“無駄なお金を使わせた責任について”とか、それを言うのなら宗門側にすべきだ。
 
> 本門の戒壇と大石寺がそれをぶっ壊したことに責任を求めることは全く別次元の話ですね。

 何が、別次元の話ですか。大石寺が自ら立てよと言っておきながら、立てたらぶっ壊す。これで日顕に信徒の真心に対する責任はないとでも言うのか。

> あなたは特定の場所に本尊を安置することの意義を問うているのだから

 何も、そのような意義は問うていませんよ。“特定の場所” なんか、いらないと言っているんです。

 戸田会長指導について、戸田先生の指導でも、60年前の指導は現時点の指導に合わなくなっています。
 大聖人は「先判・後判の中には後判につくべし」と仰せです。
 現在の世界広布新時代には、池田先生の指導を本にしなければならないのです。

 “コロコロ教義を変える” と言っていますが、そちらこそ、旧態依然の時代遅れではどうしょうもないね。
 大聖人の御遺命たる広宣流布を成し遂げたのは、創価学会の戸田・池田先生である。
 宗門の法主や僧らではないのである。これ事実である。僧らは、広布の邪魔立てをしているだけだ。
 どちらが、大聖人の御精神に殉じているのか、明白ではないか。
 早く目を覚まして頂きたい。

No title

広布と人生を語るから「信心とは何か・・・一閻浮提総与の大御本尊に南無し奉ることである」

その後も「一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」と言っておられる。

あなたは池田先生を完全に馬鹿にしている。
原田会長についていくなら戸田先生や池田先生を語る資格はない!

Re: No title


> あなたは池田先生を完全に馬鹿にしている。
> 原田会長についていくなら戸田先生や池田先生を語る資格はない!

 私のブログのどこを見て、先生を馬鹿にしていると言うのか。
 一から十まで、先生と創価学会を宣揚しているブログだ。
 気に食わない輩は、読むことも、コメントしてくることも、お断わりだ。

 あなたは、原田氏が会長職に就けば、独断専行で何でもできると思っているのか。
 会則に則り、総務会などの決議のもとに運営されている。
 大御本尊を受持の対象にしないことも、勤行要典の制定も、当然、先生もご諒承のことである。
 そんなことすら知らないで、“馬鹿にしている・資格はない!” とかよく言うよ。これをそのまま、あなたに反します。

可哀想な人達のために、私の体験談を話しますね。

池田先生を神格化して、おすがりあやかり、権威を利用をしたりするのは「池田教」の信心といいます。
学会員といっていいのは、三代会長と「師弟不二」の心で信心してる人、いわば「一人立つ」の人だけです

私は以前、池田教の信心をしてました。
心こそ大事の、心が狂っていたので、母と一緒に同じ本尊で、同じ題目を唱えても、私だけ地獄の人生を歩みました。
本尊が同じだから本尊のせいでも、題目が同じだから題目のせいでもありません。
心のせいです。これを厳然たる実証でわかったのです。

形だけ学会員で、心は池田教信者の方々は、速やかに改宗することをおすすめします。

何があっても、他人や環境のせいにするな。全部自分(の命)が悪いんだ
だったら全部、自分が変えろ。つまり自分を変えろ。

Re: タイトルなし

> 可哀想な人達のために、私の体験談を話しますね。
>
 貴重なるご体験、有り難うございました。

No title

三大秘法について学び直そうと思いネットを漁っている学会壮年部員です。ずいぶん前の論議なので、もう終息したようですが、自分では客観的にみていると過信しながら投稿します。
80歳、谷様の論には無理や飛躍があるように感じられます。
例えば、
>今は 「義」 の時代であり、意義・道理をもって広布拡大する時である。
これは、どうしてそう言えるのか説明していただかないと、私のような凡愚な者にはわかりません。また、「義の時代」になると「事」は不要なのでしょうか?家庭の仏壇に御安置のご本尊様に三大秘法が内在するのはわかるのですが、では「事」はいらないのでしょうか?これも、時代が大商人様の時代と世情が変わってきているのでいいのでしょうか。

>広く世界へ各家庭の数多くある 「義の戒壇」 であると、解釈しなければならないと思います。 
これも、理由説明がなく断定されているので、凡愚の者には理解できません。このコメントの履歴を読むと、「凡愚な者にはわからんだろう」と、谷さんにお叱りを受けてしまうかもしれませんが・・・。 
この理由説明にウィルソン教授の論を引用されていますが、これもどうなんだろうと思いました。一人の解釈の掲載だけではだめだと思うのです。あたかも、自民党が集団安保法制を強行しようとして、自分たちと立場を同じくする大学教授を読んできて墓穴を掘ったのと同じです。(もちろん、ウィルソン教授の論が墓穴を掘ることにはなってませんが)もう少し、学者じゃなくてもいいですから、同じようなコメントをされている第三者を教えていただけないでしょうか。
 >」“大梵天王・帝釈等も来下して” とあり、この梵天・帝釈とは、“世界の指導者” たちを言います。
もう、これも同じ論ですよね。かつて戸田先生がマッカサーを指して「梵天くん」とよんだと人間革命には出ていましたが、世界の指導者の範囲がわかりません。
たぶん、ヒトラーやフセイン、北朝鮮の金さんは含まないとは思いますが。
されに、ちょっとしつこいですが、
>皆無ではないのか。このような状況で、奉安堂が 「事の戒壇」 だなんて言うのは、おこがましいことではないか。
これは(皆無ではないかということ)は調べられたのでしょうか?もちろん、私は調べていないです。ブログですから好きに書いてもいいのでしょうが、きちんと調べればわかることは調べるほうがいいと思います。日蓮正宗の肩を持つわけではないのですが、HPをみると「広宣流布」の暁にはいまn大石寺が本門寺になると書かれていました。
最後に、ブログで相手に対して答えながら、
>気に食わない輩は、読むことも、コメントしてくることも、お断わりだ。
というのは、どうかと思いました。あ、別に論戦していたわけではないとは思いますが、やはり、相手のコメントに答えるのであれば、きちんと答えなければと思いました。
こんなふうに書くと法華講員が学会員になりすまして書いていると思われがちですが、私は東京の地区幹事兼任の本陣長です。(たぶん、法華講員さんは本陣長を知らないと思うのであえて書きました)

Re: No title

 当ブログをお読みくださり有り難うございます。

>今は 「義」 の時代であり、意義・道理をもって広布拡大する時である。の件について、

 ここで言っている「事」とか「義」は、戒壇についてのことです。
 「義の時代」と言ったのは、今は「義の戒壇」すなわち、各人に御本尊を受持させるための本尊流布、広宣流布の時代であるという意味で使ったのであります。

>広く世界へ各家庭の数多くある 「義の戒壇」 であると、解釈しなければならないと思います。の件について、

 各家庭の御安置のところを「義の戒壇」というのは、日寛上人の御指南であります。
 しかし、大聖人は「事の戒壇」「義の戒壇」とは、一言も仰せになっていませんので、これらの用語は使う必要はありません。

> この理由説明にウィルソン教授の論を引用されていますが、これもどうなんだろうと思いました。の件について、

 世界の最高の知性の方の論を、池田先生が引用されています。これ以上、何か必要がありますか。
 世の中の有象無象の論なんか、まったく必要ありません。

> “大梵天王・帝釈等も来下して” とあり、この梵天・帝釈とは、“世界の指導者” たちを言います。の件について、
 
 世界の指導者の範囲など、決まっているものではないと思う。ただ、梵天・帝釈は仏法守護の善神です。
 日蓮仏法に反対する者は、資格がないでしょう。
 参考として、池田先生と対談された方々は、世界の指導者と称賛されてよいと思います。

>皆無ではないのか。このような状況で、奉安堂が 「事の戒壇」 だなんて言うのは、おこがましいことではないか。の件について、

 わかることは調べる必要はないのである。
 広宣流布の破壊を企てた日顕宗に、広宣流布の暁を語る資格はない。
 老婆心ながら、日顕宗の HP や反創価のブログなど見ない方がいいですよ。悪知識に要注意。

>気に食わない輩は、読むことも、コメントしてくることも、お断わりだ。の件について、

 世の中、反学会の為にしてくる輩もおるのである。その者たちを断るのは当然のことである。

No title

谷さん、ご回答ありがとうございました。
「義」につては、よくわかりました。特に「大聖人は『事の戒壇』『義の戒壇』とは、一言も仰せになっていませんので、これらの用語は使う必要はありません。 」との説明はよくわかりました。このことは、私の知らないことでした、やはり私は「あまり教学のない」というより「教学のない」壮年部員でした(反省)。どの宗教もそうでしょうが、教学は、開祖の教えを、その後展開されて確立されていくものなので、「義」と「事」もそれにあたるのかなと思いました。やはり、戸田先生の「教学は大聖人(大商人ではないですね)の時代に還れ」というのは大正解なんですね。ありがとうございました。
他のブログも読みましたが、御書や池田先生の書物を縦横無尽に引きながら書かれていることに驚きと敬服の限りです。私もまずはじっくりと谷さんの随筆を読みながら、もちろん御書もですが、思索をしていこうと思いました。あrがとうございました。
 老婆心も心に留めておきます。ただ、私は、粉動されないように注意しながら、日蓮正宗(あえて日顕宗とは書かずに)や顕正会の記事も見ていこうとは思います。婦人の方をはじめ、壮年、最近は男子部の中にも、「捨閉」してしまう方が多くみられます。谷さんがいうように、悪知識には値わせないほうが組織防衛上はよいのでしょうが、熱と力の男子部員までが閉じこもってしまっているようで残念です。
すこし捜していた答えが見つかったような気がします。批判的に投稿してよかったです。ありがとうございました。

Re: No title

 御丁寧にお礼の言葉、有り難うございます。

 今後とも益々、池田先生を広宣流布の師匠と仰ぎ、
信・行・学に精進のほど、お願い申し上げます。

 
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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