教義条項の解説(出世の本懐)

 「出世の本懐」 について、(聖教・2015/1/29・4面)
 出世の本懐とは、仏が世に出現した本意・目的をいう。それは、“一切衆生の救済” である。
 それには、御本尊が絶対必要不可欠であるために、これまでは 「弘安2年の御本尊」 の御図顕をもって、大聖人の 「出世の本懐」 としてきました。
 その根拠としている 『聖人御難事』 の 「予は二十七年なり」(1189P)の御文証について、あらためて、その意義を考察して見ますと次のようになります。

 、大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。
 、本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」 「伝教大師」 を挙げて、それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「予は二十七年なり」 と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。これに続く御文の内容もことごとく難について述べられている。
 、弘安2年10月1日の御述作である本抄において、大聖人は、農民信徒の捕縛の後、彼らが不惜の信仰を貫いているとの報告を聞いて、門下一同へ、とりわけ法難の渦中にいる門下へ、種々の厳しい信心の御指導と最大の励ましを送られている。
 したがって、この 「二十七年」 という 「時」 と、本抄の 「難」 への言及の本意は、熱原の法難で、農民信徒が不惜身命・死身弘法の姿を示したことを称賛されることにあるといえる。
 、大聖人の御生涯における出世の本懐とは、三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したことである。


 上記のように、「弘安2年の御本尊」 の御図顕をもって “出世の本懐” にするとは、一言も言及されていない。
 大聖人は、御本尊の御認めについて 「師子王は前三後一と申して・あり(蟻)の子を取らんとするにも又たけ(猛)きものを取らんとする時も・いきを(勢)ひを出す事は・ただをな(同)じき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、…… 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124P) と仰せになられています。

 すなわち、全身全霊を込められて、我ら衆生のために御認めくださいました。このようななかで、数多くある御真筆御本尊の内、ただ一つ 「弘安2年の御本尊」 をもって特別視し、他と差別化することは、かえって畏れ多いのではないかと思われます。
 大聖人におかれましては、御本尊はみな同じであり、“仏滅度後、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅” であります。すべてに亘って “十界の文字曼荼羅御本尊” を御図顕なされたことが、あえて言えば、「出世の本懐」 であるといえると思います。
 では何故、“本門戒壇” と認められたかと思えば、未来に特定の戒壇堂を建てようとした時、弟子たちがどの御本尊にしょうかと迷わない為の御配慮であると推察いたします。
 しかし、世界広宣流布という時代性は、そのような堂舎を必要としないものになりました。

 、その意味で、「出世の本懐」 の本義は、大聖人の御生涯において、末法万年の一切衆生の救済のために三大秘法を確立されたこと、それとともに、立宗以来27年目に、熱原の法難において、農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立である。
 大聖人が、「弘安2年の御本尊」 を御図顕されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。
 末法万年にわたって全世界の人々を救うという大聖人の出世の本懐は、三大秘法の確立とともに、「日蓮と同意」 「日蓮が如く」 との精神で、それを担いゆく不惜の門下が誕生してこそ初めて成就する。そこに民衆仏法の真の実現がある。


 “農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された 「民衆仏法の確立」 である” と解釈しています。
 天台大師の出世の本懐は、摩訶止観を説いたことであり、伝教大師は南都六宗を打ち破り、叡山に法華円頓戒壇を建立したことである。
 摩訶止観は、観心修行の方軌を示した書で、これによって仏果を得た者は殆んどいなかった。叡山の戒壇も、第三代座主・慈覚によって、真言の濁流に飲み込まれてしまった。
 所詮、像法の天台仏教は、僧侶・貴族仏教であり、一般大衆は置いてきぼりにされていたのである。仏法上、人類救済(成仏した人)の実証は殆んどなかった。

 悪世末法に弘通する法は、一切衆生救済の “民衆仏法” でなければならない。
 大聖人は、「然りと雖も伝持の人無れば猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持(たいじ)せるが如し」(508P) と仰せです。御本尊があっても “伝持の人” が居なければ、何もならないのである。
 御本尊(法)と伝持の人(人)とは、セットでなければ、法華弘通の大願も 「出世の本懐」 も成就しないのである。

 したがって、“大聖人の出世の本懐は、三大秘法の確立とともに、「日蓮と同意」 「日蓮が如く」 との精神で、それを担いゆく不惜の門下が誕生してこそ初めて成就する。そこに民衆仏法の真の実現がある” と述べられている。
 すなわち、広布誓願に戦う、不惜身命の熱原の民衆が出現したからこそ、大聖人は 「出世の本懐」 を遂げ、誓願を成就なされました。
 これが、「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり」(1189P) の真の意義である。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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