一大秘法について

 「一大秘法」 「六大秘法」 について、 (聖教・2015/1/30・4面)

 原田会長の会則改正の趣旨説明に、
 「大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇として具体的に顕されたのであります」 とあるように、「宇宙と生命に内在する法」、すなわち南無妙法蓮華経が根本であり、三大秘法はそれを具現化された法門である。
 これまで日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」 や 「六大秘法」 ということを使用してきたが、「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。
 ………
 日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。日蓮正宗が完全に大聖人の仏法に違背した邪教と化した今、学会は正統の教団として、世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく。
 その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。


 今回の改正に関する解説で、“「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない” と述べています。
 日寛教学には、“正義を明らかにする普遍性のある部分” と “唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分” とがあります。
 後者について宗門の歴史を見ますと、第15世・日昌法主(登座1596年)より、第23世・日啓法主(遷座1692年)までの九代・約百年間、京都・要法寺出身の僧が日蓮正宗の法主になっているのである。
 その中で特に、第17世・日精法主は、要法寺の広蔵院日辰の影響を受けて、釈迦像の造立をおこなっている。法主自身が邪義を実践したのである。このように宗門の中枢からして、日蓮大聖人の正しい御本尊は何なのか、邪義に染まって分からなくなってしまった。
 参考 : 第17世・日精法主の謗法 ―→ ここから

 この弊害を正さんがために、日寛上人は、大聖人の御正意は 「十界の文字曼荼羅」 であるとして、「弘安2年の御本尊」 をもって 「出世の本懐」 とし、これを強調されました。
 『観心本尊抄文段』 に、「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」 とあります。 (文段集・452P)

 「本懐」 については、前項で述べました。
 「究竟」 とは、真理の究極。物事の終極。畢竟等の意がある。日寛上人が、「弘安2年の御本尊」 を、“究竟中の究竟、本懐中の本懐” と言われましたが、私はこれは、チョット褒め過ぎではないかと思っています。

 そのように思うのは、『総勘文抄』 に、「劫火(ごうか)にも焼けず水災にも朽(く)ちず剣刀にも切られず弓箭(きゅうせん)にも射(い)られず ……」(563P) と仰せです。ここは、わが生命・宇宙生命の永遠性について説明している処です。
 「究竟」 と言う言葉には、そのような永遠性、久遠・常住性の有るものが、相応しいのではないかと思います。
 したがって、畏(おそ)れ多いことですが 「弘安2年の御本尊」 と雖も、楠の板で作られている以上、形あるものは、何時かは無くなるという “有限性” のあるものです。
 そのような “有限なるもの” に、日蓮仏法の 「一大秘法」 と称するのは、言い過ぎではないのでしょうか? という思いがあります。しかも、御書には 「弘安2年の御本尊」 が、「一大秘法」 であるという記述はありません。
 それゆえに、私は 「久遠の法」 こそ、「一大秘法」 と言い得るのではないかと思っています。

 日蓮大聖人は 『当体義抄』 に、「至理(しり)は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し」(513P) と仰せです。  (至理とは、至極の道理、一切諸法の根本の真理をいう。 闕減とは、欠けていて十分でないこと)
 『総勘文抄』 に、「釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき」(568P) と仰せです。
 “五百塵点劫の当初” とは、「久遠元初」 のことであります。

 したがって、「久遠の法」 とは、「久遠元初の妙法蓮華経」 のことであります。

 教義条項の解説では、“一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない” と言われましたが、御書には無い 「六大秘法」 はともかくとして、大聖人が一ヵ処(1032P)でも仰せになられている 「一大秘法」 という用語は、「久遠元初の南無妙法蓮華経」、すなわち、宇宙生命の根源の一法でありますので、「一大秘法」 と称しても良いのではないかなぁ と思っています。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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「日寛教学の一大秘法」は今後用いない、とあるので、一大秘法そのものを用いない、という意味ではないように思いました。

Re: タイトルなし

ブログをお読みくださり、真に有り難うございます。

 日寛教学では、合すれば「一大秘法」、開けば「六大秘法」並びに八万法蔵となる。
 そして、「一大秘法」とは、「本門の本尊」であり、「弘安2年の御本尊」であると説いています。
 世界広布が拡大する中、だだ一ヵ所の大謗法の他教団の地にある「弘安2年の御本尊」のみを受持することはできなくなりました。
 ゆえに「受持の対象にはいたしません」と会則改正になりました。
 そのような中、「一大秘法」の用語を用いると「弘安2年の御本尊」「戒壇の御本尊」と紛らわしくなりますので、「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない」となりました。
 以上、すでにご了解のことと思いますが、いまだ迷っている方も居られると思いますので、よろしくご指導のほどをお願い致します。

一大秘法についての私見

一大秘法についての私見を述べさせていただきます。

日寛上人がおっしゃっているように、一大秘法は

「弘安2年の大御本尊」であります。

広宣流布した暁に、全世界の人々に御開帳されます。

ただ、「南無妙法蓮華経」と唱えても仕様がないのです。

「南無妙法蓮華経」と唱える対象がなくてはなりません。

その対象が「弘安2年の大御本尊」です。

また、楠の板で作られているから有限性があるとの

解釈は間違っています。

そのように解釈しますと、宇宙そのものもが、いつかは無くなる

ということになってしまいます。

宇宙は無くなりません。宇宙は永遠です。

なぜなら、南無妙法蓮華経すなわち仏界の生命を基調に動いて

いるからです。

よって、「弘安2年の大御本尊」そのものが、仏界の生命ですので、

木でできていたとしても、永遠で、無くなることはないのです。

太陽、地球も同じです。

地球上の人々が、仏界の生命を基調としているならば、

太陽、地球は、永遠に存在するのです。

仏界の生命を基調としていなければ、何億年後には

消滅します。

ですから、広宣流布を成し遂げなければならないのです。


一大秘法についての私見の補足

日寛上人の「観心本尊抄文段下」(第七段 略して本尊を釈す)に、

一.今本時の娑婆世界は等文。(二四七ページ)
    この下は次に本門脱益の本尊を明かす、また二と為す。
   初めに正しく明かし、次に迹門には未だ説かざる所以を
示す。初めの正しく明かすにまた二と為す。初めに正しく
脱益の本尊を明かし、次に「此れ即ち」の下に在世の観心
を明かすなり。
文に云く「今本時」等とは、且く一文を引いて以て当文を
消せん。経に云く「時我及衆僧、倶出霊鷲山」等云々。
「時」は即ち本時なり。「我」は即ち仏なり。「衆僧」はこれ
所化なり。「倶出」は即ち同体なり。謂く、師弟倶に三世常住
なり。故に「倶出」「及」は同体というなり。玄の真記に第九に
云く「経に『時我及衆僧倶出霊鷲山』と。此れは師弟の三世
常住を明かすなり」と云々。「霊鷲山」は即ち三災を離れ、
四劫を出でたる常住の浄土なり。故に伝教大師云く「霊山
報土は劫火にも焼けず」等云々。文にいう「仏既に過去にも
滅せず」等とは、経に云く「如是我成仏已来乃至常住不滅」
と云々。故に経文の相は正しくこれ過去常住なり。故に「過
去にも滅せず」という。然るに大師、この四字の寄せて以て
未来常住を明かす。故に「未来にも生ぜず」というなり。

とあります。

日寛上人は、弘安2年の大御本尊も、私達が住んでいる地球も
滅することはないとおっしゃっています。



Re: 一大秘法についての私見

> 一大秘法は「弘安2年の大御本尊」であります。

 上記のようなことを言うというのは、あなた様は、日蓮正宗の方だとお見受けます。
 お互いに、ゴチゴチに固まっている頭では、水掛け論になるだけでしょう。
 時間が勿体ないので、以後コメントしないでください。
 このコメントも、月末までに削除します。悪しからずご了承を願います。

 日蓮大聖人は「弘安2年の大御本尊」が、一大秘法であるとは、御書の何処にも書いていません。
 日寛上人は、要法寺からの法主が続き、中には釈迦像を像立する謗法法主まで出て、本山からして、何が大聖人の正しい御本尊 かわからなくなった。
 疲弊した本山を護るために、その正当性を強調するため「弘安2年の大御本尊」を「一大秘法」とする、日寛教学を説いたので ある。
 しかし、創価の世界広宣流布の時代を迎え、特定の場所の特定の本尊に繋がらなければ功徳はないという考えは、時代遅れの広 布を阻害する何ものでもない。


>楠の板で作られているから有限性があるとの解釈は間違っています。

 楠の板の御本尊は、火事の遭っても燃えないとでも言うのですか。
 たとえば、人間やその他の動植物の生命は、永遠であると言うが、それは理論上のことで、現実世界では消滅します。
 法・報・応の三身のうち、法身は無始無終であるが、他は有限である。
 この三身を、ごっちゃ混ぜにして、何でもかんでも永遠だなんて言うから、可笑しくなってくるのである。
 今、我々は娑婆世界の現実の世界で、信心して功徳を受け生活しているのだ。
 その現実世界から離れ、やれ、人間も木も草も永遠だなんて、そんな空理空論を発して、どれだけ功徳・価値を生ずるのか。
 仏法も、御本尊も、人間の幸福のためにあるのである。
 本尊とは、縁する対象物である。大聖人は「凡夫が本仏であり、仏や本尊は迹仏である」と仰せです。
 いくら正しい御本尊だと言っても、価値・功徳を生じさせなければ何もならない。
 一大秘法とか、戒壇の御本尊とか、これが尊極だとかいう言葉に騙さて、宗門の悪比丘に随えば墮地獄である。 
 老婆心ながら、申し添えさせていただきます。

No title

>あなた様は、日蓮正宗の方だとお見受けます。

  私は、創価学会の一会員です。

>特定の場所の特定の本尊に繋がらなければ功徳はないという考えは、時代遅れの広 布を阻害する何ものでもない。

私、そのようなこと一言も言ってませんよね。
  日寛上人の御本尊に功徳が無いなんて、一言も言ってませんよね。

>楠の板の御本尊は、火事に逢っても燃えないのですか。

  火事に逢えば、すべて燃えますよ。
  火事に逢うというのは、宿命ですよね。
  仏界の生命が、火事に逢うことはないのですよ。

池田先生は、私と同じ考えですよ。

そのうち、わかると思いますが・・・。

一言、申し上げたいのですが、今一度、日蓮大聖人の御書、

池田先生の指導、書物を勉強された方がよいのではありませんか。




プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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