異教と異端

 月刊雑誌 『第三文明』 に、「創価学会とは何か」 というテーマで、日本を代表する知性・佐藤優氏と、日蓮研究などを専門とする僧侶・松岡幹夫氏との対談が連載されています。
 その “5月号” に 「異教」 と 「異端」 について、佐藤氏が述べています。
 異教とか異端という言葉は、キリスト教的用語であると思って無関心でありましたが、この文章を読んでみて、少し興味がわきましたのでご紹介したいと思いました。

 佐藤氏は、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省、在ロシア日本大使館に勤務し、主任分析官として活躍しました。その後、無罪に等しい背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、約500日間服役しました。
 現在は、作家・評論家として活躍。特に創価学会を深く理解され、池田・トインビー対談、海外諸大学講演などを解説し、雑誌等に寄稿され、また 『創価学会と平和主義』 という著作もあります。

 佐藤氏は、プロテスタントの キリスト教徒でありますが、仏教団体の創価学会を応援してくださるのは、氏が物事を正しく見る見識の士であるからである と思います。
 それまでには、大使館在任中、池田先生と ゴルバチョフ大統領との会談がありました。それを近くで見聞きして、池田先生の偉大さを感じられた、のではないかと思います。
 会談の数日前、桜内氏(衆院議長)を通して、大統領の訪日を要請したが、それが頓挫(とんざ)してしまい、外務省は困り果て、池田先生に依頼しました。そして先生のお力添えで、やっと初来日が実現できたのである。
 しかし外務省は、池田・ゴルバチョフ会談のことは公式記録に記せず、外務省の失態を隠蔽(いんぺい)してしまった、 ということである。
 次に外部の方々は、通常、創価学会を褒め称えることはありませんが、佐藤氏は自身が服役したことによって、名誉も何も剥ぎ取られ、何も捨てるものがなくなった極限の境地を体験されて、毀誉褒貶(きよほうへん)に左右されない強き自由人になられたと思います。
 それから戦時中、キリスト教をはじめ全ての宗教団体が、不当なる国家権力に屈したその中で、創価学会だけが屈せず、初代牧口会長が殉教なされたことを高く評価されています。

 佐藤 勝  キリスト教神学では、「異教」 は キリスト教以外の宗教を指します。異教と キリスト教のどちらが正しいかを判定するためには、「弁証学」 が用いられます。それに対して 「異端」 とは、同じ キリスト教のなかで考え方が違う一派を指します。「異端」 との間で行われるのは 「弁証学」 ではなく 「論争学」 になります。本来 「異端」 との間のほうが距離は近いはずですが、「異教」 とのほうが併存しやすい。「異教」 に対しては 「無関心・無関係」 を保ちやすいからです。しかし相手が 「異端」 となると、無関心ではいられず、いろいろと面倒くさいことになるわけです(笑)。

 松岡 幹夫  いわゆる 「第二次宗門事件」 をめぐる経緯のなかで、宗門が創価学会を 「破門」 したわけですが、それはまさに彼らが学会を 「異端」 扱いしたわけです。異教ではなく異端だからこそ、衝突が起きた。

 佐藤  そうですね。不思議なのは、破門してもう関係ないのなら無関心を決め込めばよいものを、あの人たちは破門後も学会から信徒を奪い取ろうと画策してきたことです。それは私から見ると、「お前のことは勘当(かんどう)する。しかし、お前が息子であることに変わりはないのだから、親の言うことを聞け。親には仕送りをしろ」 と言っているように聞こえます(笑)。 (第三文明・2015-5月号・52P)

 佐藤氏は、異教は無関心・無関係でいられるが、同じ宗教内で似て非なる異端は、無関心ではいられず、色々と面倒くさい問題が生じてくると言われています。
 実際、学会と宗門との関係もそうなっています。また、イスラム教の シーア派と スンニ派のことはよく分からないのですが、同じ “アッラー” の神を信じながら、共に不倶戴天の仇敵である、といっている。宗教が持っている、ある一面の怖さを感じます。ゆえに、宗教の正邪を正さなければならないのである。

 松岡  まさに 「内ゲバの論理」 で、自分に近い存在ほど エキセントリックに排撃するわけです。 (エキセントリック…常軌を逸した、奇矯な)
 それから 『宗教改革の物語』 のなかに 「『超越性に対する感覚』 を失うと、信仰は単なる世界観になり、寛容性を失って、自分たちの世界観を他者に押し付けるようになる」 という一節があって、本当にそのとおりだと思いました。
 宗教改革とは、要するに 「宗教の原点回帰」 のことであるわけですが、どのように原点回帰すればよいかというと、それは 「超越性の感覚を取り戻す」 ということに尽きると思うんです。そのような宗教改革の本質を、見事に摘示(てきし)された文章だと感じました
。 

 佐藤  宗門は 「超越性に対する感覚」 を失ってしまったわけですね。 (同誌・53P)

 ここに 「超越性に対する感覚」 という分かり難い哲学的な用語があるが、「超越性」 すなわち、通常を超えたものとは、我々にとっては 「御本尊」 になると思います。
 したがって、それに対する感覚と言えば、“御本尊に対する瑞々しい信仰心” であると思います。その信仰心を取り戻すことが、“宗教改革の本質” である、と述べられている。

 松岡  そうなんです。宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」 してしまいました。本来は生き生きとした宗教活動であるはずが、ただの 「僧侶という職業」 になってしまった。その結果、宗門の僧侶から 「超越性に対する感覚」 がどんどん失われてしまった。佐藤さんのご著書にある言葉を借りれば、「自己保全のビジネス」 と化してしまったんですね。

 佐藤  しかも、宗門には 「僧が上、信徒が下」 という ヒエラルキーがあって、なおかつ、僧のなかにも細かい クラス分けがなされていますね。まるで中世の硬直した カトリック教会のようだと感じます。 (ヒエラルキー…階級制度)

 松岡  私が宗門と論争していたころ、相手の言い分のなかでいちばんあきれたのが、「法主(ほっす)だけは本仏の境地にある」 という意味のことを言い出したときです。法主も一人の信者であるはずなのに、彼らにとってはまず何よりも僧俗差別と法主絶対主義があるわけです。そこまで硬直化した世界観を持っているからこそ、その世界観以外の考え方は認めない。そして、創価学会のように 「似て非なるもの」 ほど、自分たちの アイデンティティーを脅(おびや)かす存在となるため、必死になって排撃するわけです。 (アイデンティティー…存在の自己証明) (同誌・53P)

 松岡氏は、“宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」” したと述べています。その結果、僧侶たちは御本尊に対する信仰心を失ってしまった。
 職業化は宗教の中に、封建時代の身分感覚をそのまま持ち込み、“僧が上、信徒が下” と、その上に “法主だけは本仏の境地にある” という 「法主本仏論・法主絶対主義論」 を唱え、徳もない信用に値しない法主・日顕の権威づけのために利用しているのである。
 それゆえに、日顕の相承疑惑についても、“日顕が血脈を受けた、と言っているから受けたのだ(趣意)” と、答にもならないことを言っている。このように、法主が “白と言えば白、黒と言えば黒” になる と主張するのである。理屈もへったくれも何もないのである。

 要するに、日顕宗は御本尊と御書を信ずるよりも、法主を信ずる 「法主信仰宗」 なのである。
 そして僧侶らは、御本尊を利用して、然も尤もらしいことを言って、信徒の純真な信仰心を食い物にするのである。このような悪侶を 「食法餓鬼」 というのである。騙(だま)されないように気を付けましょう。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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