「久遠元初の法」(平成5/5/3 の指導)

 今まで 「三大秘法」 と言えば、「本門の本尊・戒壇・題目」 の三つの秘法であると、その名称は知っていましたが、それ以上の詳しいところは余り知りませんでした。
 「三大秘法」 について、「教義条項の改正について」 には、 (大白4月号・86P)

 「大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇として具体的に顕されたのであります」 と述べられています。

 すなわち、日蓮大聖人が全民衆の成仏のために、目には見えない宇宙の根本の法を、具体的に目に見える形として顕してくださったのが、「三大秘法」 なのであります。
 成仏とは宇宙の根本の法、すなわち、「久遠元初の法」 を覚知することを言います。この久遠の法を、大聖人が具現化してくださったことが、一番有り難く、偉大なことであります。
 このことによって、正法・像法時代のような戒を持して瞑想することもなく、ただ御本尊受持の一行ばかりで成仏することが可能になり、ここに万人成仏の道が開かれました。

 かつて池田先生が、有識者と対談された時 「久遠の法」 について言及されたとのことです。
 このことについて、いろいろと批判的なことを言っている方も居るようです。このような場合は、切り文ではなくその前後の文も併せて見なければ、正しく理解できないと思って文献を捜してみました。
 
 それは、平成 5年 5月 3日、「5・3」 記念勤行会でのご指導であります。 
 先生はきょうは、寄せられた識者の声を紹介しておきたいと述べられ、その一人、日本を代表する宗教社会学者の方は、山崎副会長らとの懇談の折、次のように語られました。

 「今回、名誉会長が訪問された南米諸国のほとんどが、カトリックの国です。その国々で、大統領や大学などから、数多くの顕彰(けんしょう)を受けられたことは、それ自体、名誉会長が、異文化への理解と寛容性をもたれた偉大な指導者である証明です。本当に素晴らしいことです」

 池田先生は、「カトリックの国で日本の仏教者が、これほど評価されることは並大抵のことではないと言われている。普通なら全部、相手にされないか、批判だけである。それでは広宣流布はできない。その国のために、その国を理解し、その国に尽くしていく―― 私は常にその決心できた」 とご指導されています。
 そしてその方は、先生と初めてお会いした時の思い出も回想されたという。
 
 「名誉会長と初めてお会いした時のことは、いまだに忘れることはできません。その時、名誉会長は言われました。『カトリックの人々は、苦難の歴史、苦闘の道を歩まれた。そうした行動の次元においてカトリックは、私たちの “兄” といっても過言ではありません』 と。私はまず、その謙虚な言葉に驚きました」

 キリスト教は、弾圧に次ぐ弾圧、殉教に次ぐ殉教を経て、世界へと広がった。近年の日蓮正宗の僧侶のだれが、そうした努力をしたのか。だれもいない。大聖人の仏法を初めて世界へ流布したのは学会である。
 教えの浅深は別として、世界への “行動” という観点から、私は “兄” と申し上げたのである。


 「その折、私は 『究極に求められるものは何でしょうか』 と質問しました。恐らく “板曼荼羅の御本尊” と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は 『久遠元初の法です』 と答えられたのです」
 「このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に、偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た思いでした。以来、学会への協力を決意し、今日にいたっております」


 もとより御本尊が、私どもの 「根本尊敬」 の対象であられることは言うまでもない。そのうえで、曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。
 当然、そこに計り知れない御仏智があられると拝されるが、曼荼羅としてあらわされた 「法」 は永遠である。
 いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である 『久遠元初の法』 を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。この方は、そこに普遍的なものを感じとられたのであろう。
 (小冊子創価のルネサンス52号・10~13P)

 会談された有識者の方は、キリスト教を信仰されている方だと思います。その方の “究極に求められるものは何でしょうか” との質問に、先生は “久遠元初の法です” と答えられました。
 おそらくは、その方はキリスト教の神を通して “永遠不滅の法” を探究されていて、先生の “久遠元初の法” の答えに接し、「ああ!永遠の根源を求められている。私と同じである。同じく求道者である(推察)」 と信頼され、“非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た” と言われたと思います。そして、創価学会の協力者となられたのである。

 「法」 を伝えようとしても、非常に難しいのである。たとえば、釈尊や日蓮大聖人を教えようとしても、クリスチャンはキリストを、イスラム教徒はムハンマドを思い浮かべるであろう。幾世代に亘ってすり込まれた潜在意識はなかなか抜き難いのである。
 その意識・思想変革の困難さを、法華経には 「六難九易」 の譬えをもって説いています。
 「六難九易」 の記事 ―→ ここから

 然るに宗門が言うように、日寛上人の 「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(文段集・452P) と。
 この文をもって、正義は我にありと思い上がり、大御本尊をもって総てのものに当て嵌めようとしている。まさに ドグマ (教条・独断)ではないか。

 池田先生は、「大聖人の仏法の真髄である 『久遠元初の法』 を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける」 とご指導されています。
 日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 この御金言を、よくよく思索・吟味しなければなりません。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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久遠の法

仏壇の本尊は、物体である以上。いつか消失する運命から逃れられない。言い換えれば、蔵の宝の一つなのかもしれないですね。

本当に大事なものは、自分たちの命の中の御本尊様です。これは本当にすごいんです。なんせ心の宝です。だから死んでも持って行くことが出来るのですよ。三世永遠に。

教義条項の改定の記事を読んだときに、真っ先にこのことを思いました。
その直後に、新・人間革命で、阿仏房さながら多宝塔・多宝塔さながら阿仏房のことが出てきたときは、まさにその通りと、うんうんとうなづいてしまいました。

戸田先生の電球の例えは有名ですが、「この世界に電球の無い人なんていない! (ただ、線につながってないだけ)」との信念を持ったところ、その日から、世界は驚くくらい眩(まぶ)しく輝いて見えました。

Re: 久遠の法

> 仏壇の本尊は、物体である以上。いつか消失する運命から逃れられない。言い換えれば、蔵の宝の一つなのかもしれないですね。

 日顕宗は、弘安2年の大御本尊に最大の価値を置いています。

 創価学会は、人間生命に最大の価値を置いています。

 ゆえに、宗教のための人間であるのか、人間のために宗教(御本尊)があるのかという認識・路線の違いが、宗門問題の根底にあると思います。

 この点を忘れて、本尊の真贋論争に巻き込まれると、思わぬ足をすくわれ兼ねないと思います。
 
 お互いに気を付けましょう。

> 本当に大事なものは、自分たちの命の中の御本尊様です。これは本当にすごいんです。なんせ心の宝です。だから死んでも持って行くことが出来るのですよ。三世永遠に。
>
> 教義条項の改定の記事を読んだときに、真っ先にこのことを思いました。
> その直後に、新・人間革命で、阿仏房さながら多宝塔・多宝塔さながら阿仏房のことが出てきたときは、まさにその通りと、うんうんとうなづいてしまいました。
>
> 戸田先生の電球の例えは有名ですが、「この世界に電球の無い人なんていない! (ただ、線につながってないだけ)」との信念を持ったところ、その日から、世界は驚くくらい眩(まぶ)しく輝いて見えました。

No title

先日はありがとうございました、無事に座談会御書を行いました。
ここは学会公式の場ではないと思い、本門の本尊について30年以上前の学生部時代に研究した所見を書きます。
当時、大聖人直筆本尊の写真を多く載せた書物を手に入れ、文永8年10月から弘安に至る本尊の相貌の変化を覚えています。

本尊が無ければ広宣流布はできません。大聖人滅後に書写され流布するに相応しい相貌を備えた本尊を本門の本尊とされ、途中の本尊を一代限りの一機一縁の本尊としたと考えています。

また、一機一縁の本尊を除けば本尊に差はなく、あるのは祈る側の人で、読んで字のごとく大誓堂のように団結して広宣流布を誓う場の本尊という祈りの違いだと思います。
昔、正本堂に集ったのもその意味であったと思っています。

人法一箇、人は大聖人ですが戸田先生の獄中の悟りのように地涌の菩薩の一人として私たちも宝塔の儀式に参加していたとすれば、祈る人の一念で本尊の意味が変わるのだと思います。

長文失礼しました。宜しければ間違いをご指摘ください。

Re: No title

 コメント有り難うございます。

 御本尊の件については、「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である」という教義条項の解説を、そのまま信じていけばよいと思います。

 大聖人は「信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり」と仰せです。

 要は、成仏といっても、受持する人の信心の如何によるのである。

 以上、簡単ですがお役に立てば幸いに存じます。

 





> 先日はありがとうございました、無事に座談会御書を行いました。
> ここは学会公式の場ではないと思い、本門の本尊について30年以上前の学生部時代に研究した所見を書きます。
> 当時、大聖人直筆本尊の写真を多く載せた書物を手に入れ、文永8年10月から弘安に至る本尊の相貌の変化を覚えています。
>
> 本尊が無ければ広宣流布はできません。大聖人滅後に書写され流布するに相応しい相貌を備えた本尊を本門の本尊とされ、途中の本尊を一代限りの一機一縁の本尊としたと考えています。
>
> また、一機一縁の本尊を除けば本尊に差はなく、あるのは祈る側の人で、読んで字のごとく大誓堂のように団結して広宣流布を誓う場の本尊という祈りの違いだと思います。
> 昔、正本堂に集ったのもその意味であったと思っています。
>
> 人法一箇、人は大聖人ですが戸田先生の獄中の悟りのように地涌の菩薩の一人として私たちも宝塔の儀式に参加していたとすれば、祈る人の一念で本尊の意味が変わるのだと思います。
>
> 長文失礼しました。宜しければ間違いをご指摘ください。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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