三大秘法と御本尊

 前回のブログで学びましたが、池田先生は 「三大秘法は、広宣流布を戦い抜かれた大聖人の御生命から開き顕された法体です」 と また、「三大秘法は、いわば妙法を個人の生命に、国土に、そして全世界に具現化させていけるように示された法体なのです」 と指導されています。

 したがって、日蓮大聖人の真正の弟子として広宣流布に戦う我ら学会員の生命にも、三大秘法は具現化させていけるものと確信します。
 大聖人は 「本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(512P) と仰せです。
 日寛上人は、この 「中」 の文字を “大聖人の御本意を拝するならば 「正信にアタル意」 である” と仰せられている。(文段集・677P)
 正信とは、まさに 「広宣流布を目指す信心」 であり、その根幹は 「不惜身命の信心」 であります。

 ところで、一体の御本尊のお姿の中にも、三大秘法が具現化されているそうであります。その相貌を拝しますと、
 御本尊の中央にある 「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」 のお文字は、「本門の本尊」 を表しています。
 “南無妙法蓮華経” は 「法の本尊」 を、“日蓮” は 「人の本尊」 を表しており、すなわち、「人法一箇」 の御当体であらせられることを表しています。

 つぎに 「本門の題目」 でありますが、日蓮大聖人は法華経見宝塔品第十一の 「虚空会の儀式」 を用いて、御本尊を顕わしてくださいました。
 宝塔品には、七宝で飾られた宝塔が、地より涌出して、空中に住在し、その中に釈迦・多宝の二仏が並坐し、十方分身の諸仏をはじめ、諸の大衆を接して、皆虚空に在(お)きたもう とあり、この会座を 「虚空会」 という。
 この宝塔(南無妙法蓮華経)に、参集した諸仏・菩薩その外・全大衆が合掌向仏しているすがたは 「本門の題目」 を表しています。
 虚空会は、仏界の生命のすがたを表している と言われています。
 仏界とか仏性とか言っても、言葉ではとうてい言い尽くせるものではありません。ゆえに釈尊は、“虚空会の儀式”、 また、“常不軽菩薩の礼拝行” 等の説話を用いて、仏界の生命を説明しょうとしたのであります。

 それでは次に、御本尊それ自体における戒壇を考えてみますと、それは御本尊を書き顕している “紙や板” そのものが 「本門の戒壇」 になると思います。
 今までは御本尊があって、そのうえで御本尊を御安置して、はじめて “戒壇の義” が成り立つと思っていましたが、本当はそうではないようであります。
 そのゆえは、御本尊を書き顕わそうとしても、空中には書けません。“紙や板” が無ければ、書き顕わすことが出来ません。したがって、“紙や板(戒壇)” があっての御本尊であったのだ、と言うことになります。

 “紙や板” の戒壇こそ “御本尊・具現化” の 「カギ」 であったのだ。
 そうしますと、戒壇の意義は、その教法の 「具体化・現実化・実践化」 であると言えないでしょうか。どんなに正しい教えがあっても、それが実践され具体化されなければ、何の益にもなりません。実践・実行されて始めて、その価値が生じるものではないでしょうか。
 そして次に、その具現化された御本尊を御安置する “場所(戒壇)” があって、はじめて我らも、仏道修行の実践ができ、仏国土の建設も可能になるのである。
 したがって、三大秘法の 「本尊・題目・戒壇」 は、それぞれ三つとも大切な 「秘法」 である。どれが主で、どれが従とか、そういう本迹・勝劣のあるものではないと思います。

 しかるに日顕宗は、三大秘法を合すれば一大秘法の 「本門の本尊」 になると云い、この 「弘安2年の御本尊」 のみ、“究竟中の究竟、本懐中の本懐なり”(六巻抄) として、他の 「本門の題目・戒壇」 は、「弘安2年の御本尊」 に附随したもののように考えている。
 ゆえに、「弘安2年の御本尊」 につながらなければ、たとえ日寛上人御書写の御本尊と雖も、“ニセ本尊” である と言っている。
 そのようなことを言うとは、如何なものか。 それこそ、御本尊誹謗の大罪であり、堕地獄の因になるではないのか と言いたいのであります。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR