「21世紀文明と大乗仏教」を読む(4)(「人間復権の機軸」)

 第二は 「人間復権の機軸」 という視点であります。  (21世紀文明と大乗仏教・25P)
 「復権」 とは、いったん喪失した権利や資格を回復することで、前世紀は偏狭なる ナショナリズムによって、あまりにも個人の人権が抑圧され無きに等しいものとされた。
 したがって、“人権の回復” と読み換えても、間違いはないものと思います。

 池田先生は、この章の冒頭から 「これを平易にいうならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります」 述べられています。

 人間復権には宗教が機軸となるものであるが、その宗教は “人間を強くし、善くし、賢くする” ものでなければならない。しかし、宗教といっても色々なものがあり、中には マルクスの宗教阿片説的なものもあるので、その教えの勝劣・浅深の判定を誤ってはならないということです。

 先生は 「そのためにも、私は仏教でいう 「他力」 と 「自力」―― キリスト教流にいうと 「恩寵(おんちょう)」 と 「自由意志」 の問題になると思いますが、その両者の バランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。
 ………
 その点 「自力も定めて自力にあらず」 「他力も定めて他力にあらず」(403P) と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆(しさ)が含まれていると思います。 そこでは二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう=さそい勧める)されているからであります」
と述べられています。

 仏道修行には大きく分けて、自力と他力の二つの形態がる。
 「自力」 は、主に禅宗が標榜している。仏や経典を蔑視し、ただひたすら、禅定の修行を課することで、見性成仏するという。しかし、仏の教えに反し、いくら無明の己心を観じても仏身にはなれない。せいぜい増上慢になるだけである。
 大聖人は、「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕(お)つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(152P) と仰せです。

 「他力」 は、主に浄土念仏宗である。偉大なる仏(阿弥陀仏)や神の力用を頼みにするため、衆生の主体性や生命力を損なうことになり、自己を卑屈な消極的な者に成りかねないのである。
 大聖人は、「善導と申す愚癡(ぐち)の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と仰せです。

 以上のように、自力も他力もどちらか 片一方だけでは駄目なのである。
 大聖人は、“自力も定めて自力にあらず・他力も定めて他力にあらず” と申されて、自力と他力の中道を説かれたのである。
 池田先生は、“二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう)されている” と話されました。
 そして、先生は絶妙の バランス感覚をもって、その国(米国)の哲学者の デューイ博士の言葉を用いて講演を続けられました。

 少し立ち入って述べれば、かつて デューイは 「誰でもの信仰」 を唱え、特定の宗教よりも 「宗教的なもの」 の緊要性を訴えました。
 なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」「人間の関心とエネルギーを統一」 し、「行動を導き、感情に熱を加え、知性に光を加える」。 そして
「あらゆる形式の芸術、知識、努力、働いた後の休息、教育と親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」 (魚津郁夫編 『世界の思想家20 デューイ』 平凡社) を開花、創造せしむるからであります。
 デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて 「宗教的なもの」 とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。 まことに 「“宗教的なもの” は、自ら助くる者を助くる」 のであります。
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力をまっとうできない。 他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。 しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである―― デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。
 私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。 そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間を ドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。


 仏教を知らない方々に、初めから自力や他力といっても、その イメージすら涌かないのではないのだろうかと思います。
 したがって、デューイ博士の “特定の宗教よりも 「宗教的なもの」” という言葉を借りて、自力と他力が “融合し、両々相まって絶妙のバランス” をとる、中道というものを教えようとなされたのだと思います。
 先生は、“こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺である” と述べられています。

 先生は、“他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである” と述べられ、そして、その十全なる力を涌き出させる方法として、『御義口伝』 の 「一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790P) の御金言を引用なされました。

 仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。 “億劫の辛労を尽くす” とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。 全生命力を燃焼させていく。 そうして為すべきことを全力で為しゆく。 そこに、「無作三身」 という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へ と導き励ましてくれる。

 “仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて” と、これこそ、我ら学会員が、朝夕・実践している唱題行そのものであります。
 したがって、創価学会が実践する人間革命運動は 「人間復権」 への戦いの最重要の 「機軸」 になり得るのであります。 

 参考:「他力と自力」 ―→ ここから

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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