「21世紀文明と大乗仏教」を読む(6)(あとがき・「世界宗教への王道」)

 「海外諸大学講演集」 刊行委員会による 「世界宗教への王道」 という、“あとがき” がありました。  (21世紀文明と大乗仏教・375P)
 この “あとがき” を読みましたところ、「21世紀文明と大乗仏教」 の 「人間復権の機軸」 のところが、少しですが説明されていましたのでご紹介いたします。

 はじめに、講演では、文字や思想、哲学など、必ずその国の誇る優れた精神的遺産に スポットが当てられ、そこから仏教哲理への共鳴音が奏でられていく。 宗教に非友好的な イデオロギーの国では、仏教哲理の異名といっていい人間主義への共鳴音が………。その国その民族の精神水脈のもっとも良質な部分が、ごく自然に、大乗仏教の精神と深く回路を通じていくのである。 と述べられています。
 アメリカの ハーバード大学では、デューイ博士の 「宗教的なもの」 との言葉を援用されて説明されています。

 特に、「人間復権の機軸」 たるべき座標軸を、特定の 「宗教」 や 「絶対者」 などの外形的なものに求めず 「宗教的なもの」(デューイ) としたのは、まことに思いきった、こういう言い方が許されるなら、大胆不敵ともいうべき問題提起であったといってよい。 内在的な精神性を意味するこの 「宗教的なもの」 を、SGI 会長は、端的に 「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な行き方を鼓舞し、いわば後押しする力用」 である、と。 そして、この 「宗教的なもの」 の発展のいかんが 「宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺」 であり、世界宗教たりうる必須の要件としたのである。
 確たる宗教的信念が、このようなかたちで表白され、ハードにでなく ソフトに世に問われたことが、かつてあったであろうか。 宗教的信念の普遍性 (SGI 会長は、これを「内在的普遍」と呼ぶ) に、よほどの確信がなければ、なしうる業(わざ)ではないのである。


 なぜ、特定の 「宗教」 よりも 「宗教的なもの」 をと 話されたのかといえば、おうおうにして宗教は、何らかの “絶対的なるもの” を根本としているが ゆえに、独断的な ドグマ(教条主義)に呪縛されがちになるのである。
 たとえば日顕宗は、弘安 2年の御本尊を 「出世の本懐」 とし、その教義の独自性・絶対性を堅持するあまり、本来の目的である、人を救うという 「広宣流布」 への戦いを忘れ去り、権威主義的 ドグマに堕ちている。
 現代世界においても、ドグマの呪縛によって独善や傲慢が横行し、宗教史にあるような、また現今の イスラム国のような 「宗教のため」 に人間同士が、傷つけ殺し合うという転倒が繰り返されているのである。

 SGI 会長がしばしば、「私は仏法者ですが 『仏性』 よりも 『友情』 や 『人格』 を信じます」 と語るのも、宗教的 ドグマのもたらしてきた弊害を知悉(ちしつ)しているからにほかならない。 また、マルローや桑原武夫を驚かせた 「私自身も、けっしていわゆる宗教家などではありません。 一個の社会人です」 との発言も、宗教史の光と影の交錯するなか、今後の世界の宗教の在り方へ、貴重な示唆(しさ)を投げかけている。 宗教といっても、「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか、と。

 池田先生の “「仏性」 よりも 「友情」 や 「人格」 を信じます」” とのお話に、私は目の覚めるような思いがしました。今まで、人生の目的は成仏することにあると。したがって、仏性や御本尊が第一であると思っていました。
 しかし考えてみれば、仏性や仏界と言っても、どこにも見当らない。己心にあるいっても、取り出すこともできない。では、無いのかといえば、縁に随って出てくるのである。
 それは、“釈尊の出世の本懐は人の振舞” と仰せのように、己身の 「智慧・慈悲・友情・人格」 等となって、その “人の振る舞い” のうえに顕れるものである。
 したがって、「人の振る舞い」 が、“「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか” と言われた所以である。
 ここに、創価の 「人間主義」 と、宗門の 「権威主義」 との違いがある。
 いまや、宗教(本尊や功徳等)を教えることよりも、「人間主義思想」 を教える方が難しいのである。
 ゆえに、「世界広布新時代」 にあっては、「人間主義思想」 を前面に押し立てて、具体的には、己身の人格の練磨と向上をもって、戦う以外にないと思います。
  
 池田 SGI 会長の渾身の言論活動は、まさにいうところの 「真の宗教的情況」、それなくして 「正義」 と 「平和」 は決して両立し得ないであろう、活性化された精神世界の構築目ざして、撓(たわ)まず屈せず、営々として続けられてきたのである。 それはまた、「生まれを問うことなかれ、行いを問え」 との釈尊の金口や 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) との日蓮大聖人の御金言の衣鉢(えはつ)を伝える大乗菩薩道の精髄であり、そこからは、一切の ドグマ性を払拭した真の世界宗教への王道が、豁然(かつぜん)と拓(ひら)けてくるであろう、と語って結ばれています。  

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見えない仏性より見える友情

池田先生が万人の仏性を信じていない訳はないので、これ自体は方便なのですが、多分こういうことを言いたいのだと思います。


「経典や御書に、仏性と書いてあるので信じます」そんな人間にはなるな、
五感や六感などを駆使し、自身の生命で感じた友情などを信じる人になりなさい。

こういうことなのではないかと

Re: 見えない仏性より見える友情

> 「経典や御書に、仏性と書いてあるので信じます」そんな人間にはなるな、
> 五感や六感などを駆使し、自身の生命で感じた友情などを信じる人になりなさい。

 御書に書いてある生命哲理は、すべて間違いないと信じなければなりません。
 しかし、社会生活上の時代に合わなくなったものは除きます。
 人間の五感や六感ほど、当てにならないものはありません。
 涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」(152P)であります。
 仏性と雖も、人格や振る舞いのうえに顕れる、ゆえに、妙法を根底にしなければ、宗教的ドグマがもたらした弊害を被ることになるからである。

Re: タイトルなし


> 目の前の「一人の人間」の心に向き合わない姿勢を、主に教条主義者が陥りやすいこと。

 同感です。仏性や人格といっても、目の前の一人を救わなくて何の意味もありません。
 先生は、凡夫の慈悲に変わるものは、勇気であると仰っています。
 あとは、勇気をもって実践しましょう。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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