池田先生の「生命の話」

 池田先生の 「東洋広布」 の第一歩は、香港の地に印(しる)されました。早速その夜、少人数の座談会が開かれた。
 入信して間もない一人の婦人から “生命が永遠であると聞きましたが、人は死んだあと、どうなるでしょうか。また勤行の時に、先祖供養をしますが、それはどんな意味があるのでしょうか” という質問がありました。
 先生は、生死という人生の根本のテーマを、明確に解かりやすく説明されています。全ての人に関係する問題ですので、是非ともご紹介したいと思いました。  (同書・62P) 

 「これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。……
 現代人のなかには、生命というものは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。
 日本の国に生まれる人もいれば、香港に生まれる人も、アメリカに生まれる人もいる。あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。
 さらに、金持の家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生まれてくる子供もいます。生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。
 また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨(うら)み、無気力にならざるをえません。あるいは、何をしょうが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥(おちい)ってしまうことになる。
 この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるをえません」

 ………
 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿命の転換の道を示しているのが仏法なんです。
 では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると、説いているのか――。
 自分以外のものによってつくられたものではなく、過去世において、自分自身がつくり出したものだというんです。少し難しくなりますが、身・口・意の三業の積み重ねが、宿業となるのです。つまり、どのような行動をし、何を言い、何を思い、考えてきたかです。
 たとえば、人を騙(だま)し、不幸にしてきたり、命を奪うといったことが、悪業をつくる原因になります。さらに最大の悪業の因は、誤った宗教に惑(まど)わされて、正法を誹謗(ひぼう)することです。これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。

 さて、人間は、死ねばどうなるのかという問題ですが、生命は大宇宙にとけ込みます。
 戸田先生は、その状態を、夜になって眠るようなものであると言われている。さらに、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。これが来世にあたります。生命は、それを繰り返していくのです。
 ここで大事なことは、死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。たとえば、一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。
 今世で、七転八倒の苦しみのなかで死ねば、来世も同じ苦を背負って生まれてきます。人を恨み抜いて、怨念(おんねん)のなかで死を迎えるならば、来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。死んでも、宿命から逃れることはできない。ゆえに、自殺をしても、苦悩から解放されることはないんです。
 反対に、幸福境涯を確立し、喜びのなかに人生の幕を閉じれば、来世も、善処に生まれ、人生の幸福の軌道に入ることができます。

 こう言うと、なかには、来世も宿業で苦しむなら、生まれてこないで、ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、そうはいきません。生まれる前の、大宇宙にとけ込んだ状態であっても、生命は苦しみを感じているんです。ちょうど、大変な苦悩をかかえている時には、寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 ………
 現代の思想や哲学は、今世のみに目を奪(うば)われている。それは、地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。ゆえに、人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。
 ………

 「それでは、その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。
 あります。それを、末法の私たちのために説いてくださったのが日蓮大聖人です。そして、その方法こそ御本尊への唱題であり、折伏です。それが、生命の法則に則(のっと)った最高の善の生き方であり、歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する唯一の道なんです。

 こう申し上げると、初代会長の牧口先生は、牢獄で亡くなったではないか。不幸ではないかと言う人がいます。
 しかし、一番大切なことは、死を迎えた時の心であり、境涯です。苦悩と不安と恐怖に怯(おび)えて息を引き取ったのか、獄中であっても、安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。牧口先生は獄中からの便りに、経文通りに生き抜いた大歓喜を記(しる)されている。
 また、学会員でも、病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、思う人もいるでしょう。その場合でも、信心を全うし抜いた人は転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)であることが、仏法には明確に説かれております。
 つまり、本来、何度も生死を繰り返し、長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているんです。その証明の一つが臨終の相です。
 大聖人は御書のなかで、経文のうえから、体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。戸田先生も、微笑むような成仏の相で亡くなりました。私は数多くの同志の臨終を見てきました。

 ともあれ、広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない。経文にも、千の仏が手を差し伸べ、抱きかかえてくれると説かれている。臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なんです。まさに、生きている時は、『生の仏』 であり、死んだあとも 『死の仏』 です。さらに、その証明として、残された家族が、必ず幸福になっています。
 だから、信心をし、難に遭い、いかに苦労の連続であったとしても、退転してはならない。難に遭うことは宿業を転ずる チャンスなんです。永遠の生命から見れば、今世の苦しみは一瞬にすぎない。未来の永遠の幸福が開けているんです」


 日蓮大聖人は 「されば先(まず)臨終の事を習うて後に他事(たじ)を習うべし」(1404P) と述べられている。
 「死とは何か」 の正しい究明がなければ、人間として 「なんのために死ぬか」 「いかに死ぬか」 を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」 という答えも導き出すことはできない。生と死とは、本来、表裏の関係にほかならないからである。
 現代人は、葬儀の形式などには、強い関心をもち始めているが、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している、根本的な要因が潜んでいるといえよう。


 引き続いて、先祖供養についてお話をされました。

 「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、どうしているかというと、既に生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、まだ、生まれてていない場合もあるでしょう。
 あるいは、生まれていても、人間に生まれているとは限りません。宿業のいかんによっては、畜生、つまり動物に生まれることもある。これは、経文に明確です。むしろ、人間に生まれることの方が、はるかに難しい。 
 しかし、先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。
 ましてや、畜生などに生まれれば、自分では題目を唱えることはできないわけですから、私たちの唱題だけが頼みの綱になります。また、先祖が人間として生まれてきている場合には、私たちの贈る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、仏法に縁(えん)し、信心をするようになるんです。したがって、先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません。お金を出して、塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。もし、そうだとするなら、金の力で成仏できることになってしまう。
 一方、信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる。
 そして、先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、先ほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります」


 人間は、過去世も未来世も見ることはできない。しかし、三世にわたる生命の因果の理法を知る時、いかに生きるかという、現在世の確かなる軌道が開かれる。そして、それが未来世を決定づけてゆく。
 ………

 「私たちは今、人間として生まれてきた。しかも、大宇宙の根本法を知り、学会員として、広宣流布のために働くことができる。これは、大変なことです。
 たとえば、森に足を踏み入れると、その足の下には、数万から数十万の、ダニなどの小さな生物がいるといわれています。さらに、細菌まで含め、全地球上の生命の数を合わせれば、気の遠くなるような数字になります。
 そのなかで、人間として生まれ、信心することができた。それは、何回も宝くじの一等があたることより、はるかに難しいはずです。まさに、大福運、大使命のゆえに、幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。
 ところが、宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、人間として生まれて信心ができた素晴らしさがなかなかわからないで、退転していく人もいます。残念極まりないことです。私たちにとっては、この生涯が、一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。どうか、この最高の機会を、決して無駄にしないでいただきたい。
 永遠の生命といっても、いっさいは 『今』 にあります。過去も未来も 『今』 に収まっている。ゆえに、この一瞬を、今日一日を、この生涯を、感謝と歓喜をもって、広宣流布のために、力の限り生き抜いていってください」


 現代人は、葬儀や先祖供養などには関心をもっているが、その本当の意味はあまり知られていない。
 「供養」 とは、仏法僧の三宝、父母、師長、死者などに真心や諸物を捧げて、報恩感謝申し上げることで、また、回向するとも言う。
 「回向」 とは、回転趣向(えてんしゅこう)ということで、自らが仏道修行して得たところの功徳を、回し転じて、衆生に向けて施すことを言う。日本では、冥福を祈るという意味に使われることが多い。
 ゆえに、供養する、回向する と言っても、正法 すなわち、宇宙の根本法である “南無妙法蓮華経” を信じ持って、即身成仏を願い、唱題していかなければならないのです。
 大聖人は、「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し・いわうや他人をや」(1429P) と仰せです。
 ゆえに、自らが仏道修行して得たところの功徳が肝心要なことであって、自身は何もせず、他人(僧侶など)に祈って貰っても無意味なのである。況やその僧らが、邪法の堕落僧であっては尚更である。
 以上のことをよくお考えくださって、常に正しい法で、正しい三宝に南無し、先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養をいたしましょう。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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