「新・人間革命」第4巻〔春嵐の章〕(村八分事件)

 〔春蘭〕
 民衆のなかへ。
 この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、新しき歴史は生まれゆく。

 民衆ほど、偉大な力はない。
 民衆ほど、確固たる土台はない。
 民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。
 民衆の前には、いかなる権力者も、富豪も、名声も、煙のようなものである。

 一九六一年(昭和三十六年)二月十四日、アジア訪問から帰った山本伸一は、早くも十六日には、愛知県の豊橋市で行われた豊城支部の結成大会に出席した。
  (新・人間革命4巻・7P)

 池田先生の会長就任以来、その喜びは新たな弘教の波となって広がり、広宣流布は飛躍的に進展して、新しい支部が次々と誕生していました。
 この頃、旧習深い農漁村地域において、学会員への村八分事件が、各地で起きていた。
 これら事件は、いずれも、寺院や神社の行事への不参加や、寄付の拒否であったが、それを口実に、その家との交際や、なかには水道の栓まで止めるという、基本的人権を脅かすこともあったのである。
 このような事になったのは、それぞれの地域で寺院や村の有力者たちが、本格的な折伏が始まったことへの “恐れ” を懐いたことにあったと思う。
 村八分事件について、先生は次のように述べられています。

 地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の意識の傾向は、いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、培(つちか)われてきたものといえよう。
 戦後、日本国憲法によって、信教の自由が法的には完全に認められても、国民の意識は旧習に縛られたまま、依然として変わることがなかった。そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、地域の寺院や神社を崇(あが)め、寄付や宗教行事への参加が、すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。

 では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、無批判に共同体の宗教を受け入れ、旧習から脱することができなかったのか。
 それは、民主主義の基本となる 「個」 の確立がなされていなかったからにほかならない。一人ひとりの 「個」 の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属は免れない。
 さらに、日本人には、「個」 の自立の基盤となる哲学がなかったことである。本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなりえなかった。

 たとえば、日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、とらえていることの表れといえる。
 もし、個人の主体的な意思で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの内実を探求し、検証していかざるをえないはずである。
 こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、日本人は、自分の宗教について尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、あるいは、無宗教であると答える場合が多い。それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。

 宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、信念の骨髄といえる。その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、はなはだ異様なものといわざるをえない。そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。そして、同志は 「個」 の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。
 いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆(きざ)した 「民主」 の萌芽(ほうが)への、「個」 を埋没させてきた旧習の抑圧(よくあつ)であったのである。
  (同書・62~64P)

 池田先生は、“一人ひとりの 「個」 の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属は免れない” と。それは、“「個」 の自立の基盤となる哲学がなかった” すなわち、宗教を信じないがゆえに、自立した信念が育たないのである。
 今では、50年以上前の村八分事件のようなものは、人権意識や社会状況も開けてきているから、もう起こらないと思います。
 だがしかし、国民の宗教的な意識は、旧態依然として少しも変わってないようである。

 それにつけて思い出すことは、一国を代表する首相が毎年、初詣に伊勢神宮に参拝することを慣例としている。そのうえ、ここ2回ほど、記者団を招いて首相の年頭所感を発表している。
 首相の年頭所感といえば、公的なものである。公的な首相官邸で行うのが当たり前である。それを一宗教法人の管轄する神社施設内において行うことは、政教分離原則を定めた憲法に違反している。
 首相自らが 「憲法違反」 を犯しているのに、マスコミはこの点を、なんら問題視することなく報道している。国民は初詣に行くことは、我が国の慣習であるとして、むしろこれを歓迎しているようである。

 宗教の正邪を正さずして 「国家神道」 を用いて、亡国の憂き目を見た歴史の真実を忘れてはいけない。これが 「立正安国論」 の誡めである。ただただ、宗祖日蓮大聖人の “お叱り” を畏れるものである。
 『安国論』 に曰く、「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」(33P) と。 

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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