学会永遠の五指針③(難を乗り越える信心)

 創価学会永遠の五指針③ は、「難を乗り越える信心――獅子の心で挑みゆけ」 であります。
 冒頭、池田先生は、“レオナルド・ダ・ヴィンチ” の例を引かれて、人間生命に秘められている偉大な力について語られています。

 人間は元来、偉大な存在です。
 逆風を発条(ばね)に飛翔する精神の力を本然的に持っているからです。
 ………
 “大切な仏子を一人ももれなく幸福に” との恩師・戸田城聖先生の切なる願いが込められた指針が、「難を乗り越える信心」 です。


 御義口伝に云く 妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり。(750P)

 〔真の安楽とは〕 という項目には、上記の 「御義口伝」 の文を通して講義されています。
 真の安楽とは、苦難と戦う中にこそあるという 「難即安楽」 の法理を示されています。
 「難」 には、まず、正しい信仰ゆえに、三類の強敵から迫害を受けるという法難の次元があります。また、自身の仏の境涯を開くために、人生に生ずる困難や宿命とあえて戦うという次元があります。いずれにしても、信仰を破壊する三障四魔に打ち勝ってこそ、一生成仏も広宣流布も、成就するのです。

 では、「安楽」 とは、どのようなことを言うのでしょうか。
 天台大師は、「安楽」 の字義について、「安」 とは 「不動」、「楽」 とは、「心に憂悩無き」 ことであると示しています。
 つまり、「安」 とは、何があっても揺(ゆ)るがない信心であり、「楽」 とは、何があっても憂(うれ)いなく生き抜いていける信心です。

 戸田先生は、「試練の山を一つ切り抜けるたびに、成仏という、崩すことのできない境涯となっていくのである」 と、一つ一つ、乗り越えていくことの大切さを教えられました。
 「一つ一つ」 です。信心が深まるのを待って、それから難に向かうのではありません。難に向かっていく中で生命が磨かれ、金剛の信心が鍛え上げられるのです。「剣なんどは大火に入るれども暫(しばら)くはとけず是きたへる故なり」(1169P) と仰せの通りです。
 ………
 「難を乗り越える信心」 とは、「難を乗り越える祈り」 であり、「難を乗り越える唱題」 の異名です。
  (大白・2016‐3月・36P)

 一般的に 「安楽」 とは、心身に苦痛がなく、楽々としていることをいう。しかし、仏法では難や苦悩のあることが 「安楽」 になるという。とは言っても、苦難=安楽 と言っているのではない。ここでは、“妙法蓮華経を修行するに” という前提条件があるのである。
 考えてみますと、安楽な生活を願っていても、凡夫の生身の体では、何時、丁度 5年前の東日本大震災のような災難に遭わないとも限らない。そうなれば、安楽な生活なぞ、望みようもないものである。
 仏法は、環境によって変わるような安楽ではなく、どんな困難が起こってもそれに打ち勝つことで、真の安心立命の境地が獲得できると説いています。それには、難や苦痛は、絶対・必要条件なのです。

 〔どこまでも 「積極的人生」 を〕 の項目には、
 私たちは、いかなる障魔が競い起ころうとも、強き信心で、御本尊に祈ることができます。そして、共に励ましあえる同志がいます。
 したがって、学会とともに歩む人生、それ自体が、最高の 「難即安楽」 の人生を歩んでいることになるのです。
 ………
 「さあ何でも来い」 「難があるからこそ、人生を大きく楽しめるんだ。多くの人を救えるんだ」 という、究極の積極的人生にこそ、真実の安楽があると教えられているのです。
  (同誌・37P)
 
 〔難に対する姿勢の大転換〕 という項目には、
 戸田先生は、「大聖人の仏法は、逆境にある人が、幸せになる宗教なのだ。苦難にあった人ほど、それを乗り越えた時、すごい力が出るのだ。その人こそが、本当に不幸な人々の味方になれるのだよ」 と語られました。
 地涌の使命を自覚すれば、偉大な力が出る。難は、民衆を救うために、自ら願って受けた難となる。そして、それを乗り越えることで、人々を救うという願いを果たすことができる。使命を果たすために難はあるのです。
 「なぜ自分が」 という嘆きから、「だからこそ自分が」 という誇りへ、難に対する姿勢の大転換を教えられているのです。
  (同誌・39P)

 「積極的人生」 は、ただ難に打ち勝ち自身の安楽を得るだけでなく、人々を救うという “地涌の使命” を果たすためにあるのである。
 そこには、難に対する姿勢を、受動ではなく能動的に “自ら願って受けた難だ” とする価値観の転換がある。これを 「願兼於業(願、業を兼ぬ)」(203P) とも言います。

 〔師子王の如く悠然たる第境涯を〕 の項目では、
 法華経の安楽行品には、「游行するに畏(おそ)れ無きこと 師子王の如く 智慧の光明は 日の照らすが如くならん」(法華経・447P) と説かれています。
 ………
 正しき信仰とは、永遠の 「勇気の翼(つばさ)」 であり、「幸福の翼」 であり、「勝利の翼」 です。
 苦難の烈風があればあるほど、喜び挑(いど)んで悠々と飛翔し、境涯をどこまでも高めていけるのです。
 さあ、胸を張り、頭(こうべ)を上げて、不撓不屈の誉れの 「創価の翼」 で、常勝の空へ晴れ晴れと舞ゆこうではありませんか
 難を乗り越えて、「私は勝った」 「私たちは勝った」 と、見事なる凱歌の人生を飾っていこう 皆の勝利の報告に、恩師がほほ笑んでいます。


 池田先生は、“「創価の翼」 で、常勝の空へ晴れ晴れと舞ゆこうではありませんか” と、そして “皆の勝利の報告に、恩師がほほ笑んでいます” と、我ら弟子たちの戦いを見てくださっています。
 7月の戦いを、師に大勝利の報告でお答えして参ります。

 聖教 3・11 の 「わが友に贈る」 は、
  我ら創価家族には
  変毒為薬の信心がある。
  「悲哀」 を 「勇気」 に
  「宿命」 を 「使命」 に
  自他共の幸福を開け

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

いつもブログ拝見しております。
突然で申し訳ないのですが、質問をさせていただきます。

まず、御本尊様に対するお題目について、「生身妙覚自行の御利益」という教えがあります。これは、御本尊様にお題目を唱えることにより、我が身が妙覚位となる、と理解しております。

また、折伏行について、人間革命第5巻「烈日」の章において、「真の功徳が分かる位を究竟即というのですが、この位の前の分真即、これが折伏をすることなのです」との戸田先生の御指導があります(第2版69ページ)。

ということは、御本尊様にお題目を唱えるほうが、折伏することよりも位が高い、ということになるのでしょうか。これが質問です。

なお、私としては、妙覚位と究竟即は同一だとの認識が前提です。

管理人様の御意見が聞きたく、質問しました。
ぜひ、御時間があるときに、回答していただけたらと思います。

Re: No title

 いつも拙ブログを、ご訪問くださり有り難うございます。

> 「生身妙覚自行の御利益」と。これは、御本尊様にお題目を唱えることにより、我が身が妙覚位となる、と理解しております。

 私も、そのように理解しています。

> 私としては、妙覚位と究竟即は同一だとの認識が前提です。

 妙覚位とは、別教で立てる五十二位の最高位であり、究竟即とは、円教の六即位の最高位である。
 共に、仏の境地を説明しょうとしているのであり、同じことであると思います。
 ただ、末法の下種仏法では、そのような修行の階位を経ることなく、御本尊に唱題することによって、
 名字即の凡夫が直ちに究竟即の仏になることができるのである。

> 御本尊様にお題目を唱えるほうが、折伏することよりも位が高い、ということになるのでしょうか。
 
 どちらが位が高いとか、ということではなく、どちらも大切です。
 六即を下種仏法に配立すると、分眞即は化他行に精進する人であり、すでに、仏性を開発している人です。
 唱題することが基本ですが、「従果向因」(果従り因に向かう)とありますように、仏界を涌現し、
 もって九界の衆生を救っていく、この仏界と九界の往復作業のなかに、自身の即身成仏もあります。

 以上、私の思っていることですが、ご理解いただければうれしく思います。
 
 
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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