宗教

 宗教というものを考えてみたいと思いました。辞書を引いても、いろいろ多数の解説があり、中々まとめることができない。哲学という言葉も同じである。

 仏法には、信・行・学という仏道修行の基本がある。仏の教えを信じて、実践をし、その理を学ぶという事であり、これを繰り返し修行することが大切であるというのである。

 この三つの中で、「学」 すなわち理論だけの研鑚にとどまっておれば、それは 「哲学」 というものであろう。「信」 と 「行」 があって、はじめて 「宗教」 というものになると思います。

 信じて行ずるということは、何も特別なことでは無く、我々が日常茶飯事に行っておることである。食事をとるのに、毒が入ってないかと疑えば食事もとれない。乗り物に乗るのも、人と付き合うのも、一事が万事で、生活は 「信」 から成り立っています。

 そのように考えますと、信じることから成り立っている生活は、宗教的なものであり、いな、宗教活動そのものであると思います。ただ、あまりにも日常的な事柄でありますので、別段にそのことを信じているという意識は湧かないのである。

 世間でも “鰯の頭も信心から” という諺があるように、何を信じても宗教には成るが、それ故に、宗教の高低・浅深・邪正を厳しく正さなければならない。

 人を殺すことを教える、オウム真理教のような宗教もある。人を信じることは良いことではあるが、中には、詐欺・泥棒・殺人者もおるのである。これ等の者を信じれば、こちらが損害を受けるのである。

 宗教であっても、原理は同じである。中には、倫理・道徳論でお茶を濁したり、少々の通力を示し・功徳を謳い・詐欺まがいに信者を騙しておるのが大半である。

 宗教の 「宗」 の字は、おおもと、根本という意味であり、我々にとって根本とは、生命のことである。生命のことを、完全に解き明かしている宗教が、本当の正しい宗教である。それ以外は、みな淫祠邪教の類いなのである。ゆえに、宗教の正・邪によって、人の幸・不幸は決まるのである。

 法華経には、「十界互具・百界千如・一念三千」 という大生命哲理が説かれているのである。
 『観心本尊抄』 に曰く 「一念三千を識らざる者には、仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(御書254P) と仰せです。
 日蓮大聖人は、末代の凡夫のために大慈悲を起こして、「三大秘法の南無妙法蓮華経の大御本尊」 を顕わされたのである。

 なんと有り難きことでしょう。末法の衆生は、この正しき御本尊によってのみ、絶対的幸福境涯(成仏)を得ることが出来るのです。ただただ、報恩感謝申し上げるのみである。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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