本尊を簡(えら)んで

 本年 1月に発表された 「会則の教義条項改正に関する解説」 の中に、「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」 とありました。

 今回の 『文底秘沈抄』 には、“唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分” が大いにあるのですが、本尊篇の冒頭の部分は、信心修行についての “正義を明らかにする普遍性のある部分” であると思いますので学びたいと思いました。

 日寛上人は 『文底秘沈抄』 の 〔第一に本門の本尊篇〕 において、次のように述べられています。
 夫(そ)れ本尊とは所縁の境なり・境能(よ)く智を発し智亦行を導く、故に境若(も)し正しからざれば智行も亦随って正しからず、妙楽大師謂(い)える有り 「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無きも亦種と成らず」 等云々、故に須(すべか)らく本尊を簡(えら)んで以て信行を励むべし、若し諸宗諸門の本尊は処々の文に散在せり、並びに是れ熟脱の本尊にして末法下種の本尊に非ず。
  (六巻抄・80P)

 〔本尊とは所縁の境なり〕
 本尊の字義には、「根本尊崇」 「本有尊形」 「本来尊重」 という三つの意義があります。
 所縁の境 とは、縁するところの境、すなわち、対境・対象物であり、宗教において、根本尊敬の対象を図像化したものが本尊であります。

 〔境能く智を発し智亦行を導く〕
 境能く智を発し とは、我われの智(智慧・意識)は、境(対境・環境)に縁することによって生ずるのである。
 我われの生命には、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)の生命を具していますが、対境に縁をしなければ現れてきません。
 たとえば、苦しむ・泣く(地獄界)、喜ぶ・笑う(天界)という生命を持っているからといって、今すぐに悲しみ泣いて見よ、喜び笑って見よ と言われても、そう容易に出来るものではありません。しかし、悲しいこと・嬉しいことに出会えば、直ちに感情が現れてきて、泣いたり笑ったりします。このように感情や意識は、対象物と縁をすることによって、それ相応の十界の智(識)が起こってきます。
 したがって、十界の中の如何なる境界の生命が涌現するかは、関係する対境によって決まるのである。

 智亦行を導く とは、「身口の二業は意業より起るなり」(738P) と言われますように、現れた智・意識は、何らかの身・口の行動となって、善・悪の業(行為)を作ることになります。したがって、悪業を作らないようにするには、悪知識(悪縁)に近づき縁してはなりません。
 しかるに、我われの日常生活は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の悪縁は多く、この六道の世界の繰り返しである。これを「六道輪廻」 と言います。しかも、六道はこれに縁をすれば、直ちに六道の生命は現れてきます。
 これに対し、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の善縁は少なく、ただ、縁とするだけでは現れ難く、向上心を持って努力する必要があります。とくに 「但(ただ)仏界計(ばか)り現じ難し」(241P) とありますように、仏界の生命を涌現させるには、仏縁(正しい本尊)と信・行の実践が必要となります。

 〔境若し正しからざれば智行も亦随って正しからず〕
 境(本尊)が正しくなければ、その智慧も行動も、また、したがって歪んでくるのである。
 崇拝する本尊が間違っていれば、どの様な結果が出るのか、考えてみたいと思います。
 たとえば、キリスト教では、十字架を崇拝の対象としています。ご承知のように十字架とは、イエス・キリストが磔(はりつけ)の刑に処せられた磔台であります。
 それをキリスト教徒たちは、尊敬・犠牲・贖罪(しよくざい)・苦難・等を表象するものとして用いています。どのように意義付けしょうとも、磔台は地獄の表象である。
 十字架を長い間拝んでいると、知らず知らずのうちに、敬愛するイエスを、このような目に遭わせた異教徒たち(特にユダヤ教徒)を、憎しみ恨む怨念や復讐心が醸成されてきます。このことは、宗教の名を語った幾多の戦争や “ナチス” による ユダヤ人大量虐殺等、キリスト教社会の血塗られた歴史が証明しています。

 一方、イスラム教では、アッラーの神は絵像・木像等では表すことは出来ないといって、偶像崇拝を禁止しています。すなわち、特定の本尊を持っていないと言うことです。礼拝は一日に五回、どこに居ようとも、マホメットの生地 “メッカ” の方に向かって行っています。
 本尊を持たない礼拝は、境(仏界)による智(仏智)の涌現を願うことはできず、ただ凡夫の無明の心で、各々の境涯にしたがって、神を想像しているだけです。その境涯は六道であり、良くて二乗、悪くいえば無明の三悪道・四悪趣です。
 また、既成仏教においても、大体これらと同じことで、架空の理想上の仏・菩薩等を本尊としており、末法の衆生には無縁の本尊であり、仏因どころか悪道の因となります。

 〔発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず〕
 発心真実ならざる者 とは、たとえ、信仰心がまだ本物でなかったとしても、正しい本尊であるならば、功徳は絶大なものがある。もし正しい本尊でなかったならば、どんなに信ずる心に間違いがなくても、それは成仏の種子(仏因)とはならないということです。
 ゆえに、信仰するにおいて最も大事なことは、その本尊が正しい本尊か、間違っている本尊なのか どうかを、正さなければなりません。
 然しながら、正しい本尊かどうかを見極めることと、正しい信仰の道に入ることは、難事中の難事なのです。
 
 〔須らく本尊を簡んで以て信行を励むべし〕
 我われ末法の衆生の受持すべき正しい本尊は、日蓮大聖人が顕された 三大秘法の 「十界の文字曼荼羅御本尊」 である。
 おもえば、各宗の本尊と称するものは、単なる職人たちの造ったものに他ならない。たとえ、名工・巨匠といわれる人たちでも、宇宙の根本法を悟った訳でもない。言い換えれば、無明の凡夫である。
 それに引き換え、日蓮大聖人は、大宇宙の 「久遠の法」 を覚悟なされた 「末法の御本仏」 であり、その全生命をかけて御本尊を顕されたのであります。

 池田先生は、『御書の世界』 の中で、大聖人の御本尊について次のように述べられています。
 名誉会長 本尊とは 「根本として尊敬する」 の意です。万人が規範とすべき尊極の当体を、大聖人は御本尊として顕してくださったのです。
 この大聖人の御本尊を拝するうえで重要な点は、「日蓮がたましひ(魂)」(1124P) たる 「南無妙法蓮華経」 を書き顕した御本尊であるということです。
 ということは、御自身の御生命に根本として尊敬すべき尊極の当体を顕現されたということです。それはまた、万人にこの尊極の当体が具わっていると見られているからです。

 ………
 名誉会長 この “生命に内在する本尊” について、現代的意義を拝していきたい。
 南無妙法蓮華経は、宇宙根源の法であるとともに、尊極の仏界の生命そのものであり、仏が成就した最高の境涯の根本である。ゆえに、「たましひ」 と表現されたと拝したい。
 生命への深い洞察と共感、それに基づくあらゆる生命への慈しみ。 また、人間の苦悩への大悲と同苦。 そして、苦悩する人々を救うための智慧と意思に貫かれた行動。 このような仏の人格と行動の核心にあるのが、宇宙根源の法であり、その法と一体の如来の生命です。 それを大聖人は 「南無妙法蓮華経」 と悟られ、「日蓮がたましひ」 であるとされたのです。
 大聖人は、この 「南無妙法蓮華経」 を、末法の民衆が根本として尊敬すべき 「本尊」 として明示されたのです。
 この本尊観から帰結するのは 「人間主義の宗教」 です。
 現代の多くの宗教は、意識的にせよ、無意識的にせよ、人間の外に究極の尊厳なるものを置く外在的な本尊観を残している。
 しかし、二十一世紀こそ、誰人の生命にも等しく尊極の生命があるという、最高の人間主義を打ち立てなければならない。 そのためにも日蓮仏法の内在的本尊観は重要です。


 斉藤 外在的本尊観といえば、国家主義の根にある国家崇拝もある種の外在的本尊観ではないでしょうか。そのことが、現代にあってもなお、戦争、虐殺など、国家主義がもたらす悲劇が絶えないことに影響を与えているのかもしれません。
 森中 …… それは、ユングが 「国家は神の位置に取って代わる」 と言っていることです。
 そのユングが、国家主義の魔性に抵抗する唯一の力は、「人間は小宇宙であり、偉大なる宇宙を小さな世界のなかに映し出している」 という人間尊厳の自覚を個々人がもつことであると指摘しています。

 名誉会長 非常に重要な指摘です。大聖人の内在的本尊の法義に通じるからです。

 斉藤 そこで 「日蓮がたましひ」 を本尊とされている御文を拝読します。……
 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く 『顕本遠寿を以て其の命と為す』 と釈し給う」(1124P)

 名誉会長 南無妙法蓮華経は御本尊の根本であり、当体です。 そのことは、御本尊の中央に大きく 「南無妙法蓮華経 日蓮」 と認められていることからも明らかです。
 大聖人は三類の強敵として襲いかかってきたあらゆる魔性に打ち勝ち、竜の口の法難の時に、永遠の妙法と完全に一体となる御境地を成就された。 それが久遠元初自受用身の御境地です。
 いわゆる発迹顕本(迹を発いて本を顕す)です。 大聖人の凡夫の御生命に久遠元初自受用身という本地を顕されたのです。


 斉藤 本地とは、本来の境地という意味です。これは、人と法が一体の御境地です。
 森中 人法一箇のこの御境地は、元初の妙法の無限の力が、何の妨げもなく、現実に生きる人間の生命に成就されている眞の仏界であると拝されます。

 名誉会長 人間生命への妙法の清浄なる開花、すなわち 妙法蓮華経です。
 それが 「日蓮がたましひ」 です。


 森中 大聖人は 「顕本遠寿(本の遠寿を顕す)」 という妙楽の言葉を引かれています。 御本尊は、永遠の妙法と一体の久遠元初自受用身の生命を顕したものであることを示すための引用ですね。

 名誉会長 その尊極の生命を、大聖人は 南無妙法蓮華経として顕されたのです。

 斉藤 あらゆる生命は、本来、宇宙本源の妙法の当体ですから、妙法と一体の如来の生命は、あらゆる生命の本地とも言えるのではないでしょうか。

 名誉会長 そうです。その真実を末法の民衆に気づかせるために、大聖人は御自身の覚知された尊極の生命を御本尊として認められたのです。
 大聖人が、元初の妙法と一体である御自身の生命を、そそまま御図顕されたのは、万人の 「胸中の本尊」 を開き顕すためです。私たちが成仏するための修行の明鏡として与えてくださったのです。


 森中 「日蓮がたましひ」 とは、…… 「師子王の心」 にも通じますね。それは 「生命本源の希望」 であり、「生き抜く力」 です。万人の幸福を開くために、不幸をもたらす一切の悪と敢然と戦う 「勇気」 でもあります。
 斉藤 師匠が命懸けで示された 「師子王の心」 が、弟子の自分にもある。このように信じることが、その 「勇気」 を開く カギですね。

 名誉会長 そうです。 師弟不二の道を生き抜くところに、自身の幸福があり、皆の幸福がある。
 その真実を、法華経は 「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」 と説いている。
 “私も人間だ、あなたたちも人間だ、人間はかくも偉大なり” という 「人間王者の讃歌」 です。 それが法華経の魂といえる。
   (御書の世界2巻・157~162P)   
 

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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本尊について。

興味深く読ませていただきました。
自分は昔から少し疑問に思っていることがあります。それは、人間革命に日蓮宗の題目でも功徳が出たという表現があることです。
そうなると、本尊も別段、学会の本尊である必要性は無いのではないでしょうか?

Re: 本尊について。

> そうなると、本尊も別段、学会の本尊である必要性は無いのではないでしょうか?

 念のため申し上げますが「学会の本尊」について、学会が独自に作った(図顕した)という本尊はありません。
 皆、歴代の法主が書写した御本尊を受持しています。
 現在、26世・日寛上人御書写の御本尊を認定して、会員に授与しておりますことは御承知のここと思います。
 そして、これまでに各会員に授与されている御本尊は、全て学会認定の御本尊であり、各員はこの御本尊に南無し、しっかり信心に励んでいくことが肝要であります。
 御本尊の件について、会員さんがいろいろ心配することは毛頭ありません。

 日蓮大聖人は「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(1025P)

 御本尊の違いではないのである。信じる者の境涯の違いによって、その差が出てくるのである。

 「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(404P)

 大聖人の御精神、法華経の心を知らずして、習い談じても、ただ爾前経の利益すなわち、今世の利益(金が儲かった、病気が治った等)のことだけで、来世の利益(成仏)には至りません。
 仏の大願たる法華弘通の大精神を、私たちに教えてくださったのは、創価学会であり、なかんずく池田先生であります。
 この一点を、忘れないように頑張って参りましょう。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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