凡夫が仏

 連載中の 「新・人間革命」 は、1977年 (昭和52年) を 「教学の年」 と定めて、『諸法実相抄』 講義をもって、スタートを切ったことが述べられています。

 本抄は、文永十年五月、佐渡御流罪中に、最蓮房日浄に与えられた御書である。法華経迹門の 「諸法実相、十如是」 の文から説き起こして、法華経の哲理の真髄を示し、その当体が妙法蓮華経、即、御本尊であると教えられています。また、この一書の中に、人本尊開顕の 「開目抄」 と、法本尊開顕の 「観心本尊抄」 の結論が包含されている重書であります。

 次いで、「凡夫こそ本仏」 「一切の衆生が妙法の当体」 とする日蓮大聖人の法理は、過去の仏法観を根底から打破するものであり、ここに、人間主義の偉大なる原理があることを強調した、と述べられています。

 ところで、ここのところの 『諸法実相抄』 の文を示せば、
 「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては候へ」
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358P) 
 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P)
 と仰せです。

 「迹」 とは跡とか影とかいう意で、「本」 に対する語です。迹仏とは、衆生を利益するために仮の姿・形で説く仏のことです。用(ゆう) とは、働き・作用・功徳などのことで、爾前経の諸仏は、みんな妙法の働きや功徳を示すために説かれた、理想上の迹仏(仮の仏) なのである。

 ゆえに、爾前経の仏、すなわち、阿弥陀・大日・薬師仏などに執着している者を、天台大師は 「天月を識らずして但池月を観ず」(1211P) といって破折されています。

 では、本仏とは何方様か。大聖人は “本仏と云うは凡夫なり” と言っています。それは人間以外にいない訳です。人間が、一番尊貴なのです。仏と言っても、働きや作用のことであれば、実体はなく・架空の・理想上のもの (迹仏) でしかない。

 人間は体があり、現に実在している。神も仏も宗教も、もともと人間が創ったものである。創った方が 「本」 で勝れ、創られたものが 「迹」 で劣っているのが道理である。

 しかるに、今までの宗教は、神仏などの 「絶対なる存在」 が上、人間はその下と考えるのが普通です。それを否定して、大聖人は、凡夫が本仏であり、仏は用の迹仏にすぎない。“仏があって凡夫がある” と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある” と言うのだから、全宗教史上、驚天動地の宣言です。

 「神仏が上、人間が下」 としたところに、いまだ宗教のために、人間と人間とが殺しあっている。これを 「人間のための宗教」 に、価値転換しなければならない。

 大白蓮華に、池田先生が、昭和41年新春、高等部員に対して、本抄を講義されたことが記されています。ここの部分のところを、引用させて頂きます。

 「御本尊の威光がよく理解されるのは、凡夫がいるからである、迷える凡夫がいるがゆえに、御本尊の威光勢力が分かるのである――こうとらえても差し支えありません」
 そして静かに訴えた。「例えば、学校の先生がいて、その先生がどんなに偉くても、生徒がいなければ、偉さは分からない。生徒がいるがゆえに、学校の先生は必要であるし、価値を生ずるのです」
  (大白・2011・2月・33P)
 
 この定理を、社会全般に広げて行かねばならないと思います。特に政界においては 「大臣・議員が上、庶民は下」 の封建的思想を、早急に打破しなければならない。そのためには、正しき・力強い宗教が必要である。

 まさに 「宗教のための人間」 から 「人間のための宗教」 へと、価値転換できる大生命哲学が、日蓮仏法であり、創価思想なのであります。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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