「希望の源泉」(9-a)(科学の危険性と創価という名前)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 9回は、「何のため」を問い続ける思想 であります。
 この 9回(第三文明・4月号)で、「方便品」 の章についての語らいは一区切りつき、途中から 「譬喩品」 の章に入ります。

 目的観を見失った現代科学の危険性
 佐藤 優  それは、「人間に希望をあたえる学問を」 という、この章の最後の項目(「普及版」上巻・227P)についてです。 ここでは、科学者のあるべき姿勢について論じられています。
 このなかで、斎藤(当時・教学部長)さんの 「人間を無気力にさせる科学ではなく、人間に、勇気を与える科学であってほしいですね」 という発言を受けて、池田会長は次のように言われています。

 「そう、学問は人間に希望をあたえなければならない。 そうでなくて何のための知性か」 (法華経の智慧1巻・262P)

 対談者は、科学の世界では 「新奇性(novelty)」 の追求それ自体に創造の源があるのだから、「人類の幸福のために研究する」 などという “限定” をつけてしまったら、自由な発想が損なわれてしまう、という考えがある と発言しています。
 佐藤氏は、マックス・ウエーバーは、資本主義が発展していくと、“「精神なき専門人」 と、「心情なき享楽(きょうらく)人」 が跋扈(ばっこ)してくる” という言い方でその問題を表現しました。
 そして、「何のため」 という目的観や倫理観を見失い、ただ新奇性だけを追い求め、「研究のための研究」 に終始する科学者は、「精神なき専門人」 その者でしょう
と語っています。

 佐藤  ただ、何の限定もつけない 「科学のための科学」 を志向していくことは、結果的に 「権力者のための科学」 に堕してしまう危険性が強いと思います。……… 特に、巨額の国家予算を投じる 「ビックサイエンス(巨大科学)」 の研究には、そのような難しさがあります。
 だからこそ、いわば 「正しいバイアス(偏り)」 を科学に与えるため、宗教が果たす役割も大きいのです。その意味で、『法華経の智慧』 で池田会長が “科学は人間に希望を与えるものであるべきだ” と主張しておられることに、私は全面的に賛同します。


 池田先生は、創価学園生に 「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」 との指針を贈りました。
 佐藤氏は、現代科学が 「何のため」 を見失いつつある今だからこそ、学問について 「何のため」 を問い続けてきた池田思想が、ますます光彩を放っているのです、と語っています。
 
 「創価」 という名前自体に見る 「世界宗教性」
 佐藤  さて、『法華経の智慧』 「方便品」 の章の終盤には、この章の内容をまとめるような重要な発言がありなす。池田会長による、次のような言葉です。
 「生命は、物質学的な因果律に支配されるだけのたんなる機械ではない。 もちろん物質でできている以上、生命体に “機械の側面がある” のは当然である。 しかし、“機械にすぎない” のではない。
 生命は本来的に、“価値を創造しょう” という要素をもっている。 価値も 『関係性』 の概念ですが、『関係の織物』 であるこの世界にあって、つねに 『よりよき関係』 すなわち 『より大きな価値』 を創造しょうとしている。
 より美しい織物(美)、より役に立つ織物(利)、より善なる織物(善) を織ろうとする。 この 『価値(価値創造)作用』 に、生命の大きな特色があることは確かだと思う」
 (同書・267P)
 これは、「方便品」 の章で展開されてきた池田会長の生命論のいわば結論であり、牧口初代会長の 「美・利・善」 の 『価値論』 をふまえ、「創価」 の哲学を生命論のなかに位置づけた言葉と言えます。

 ――  “創価作用こそが生命の特質だ” との指摘は、言い換えれば 「生命はすべてを生かす」 という主張であり、法華経 「方便品」 に説かれる 「諸法実相」 の法理の現代的説明とも言えそうですね。

 佐藤  そのとおりです。 そして、このような生命観は、「生命は遺伝子の乗り物にすぎない」 と見る、リチャード・ドーキンス(イギリスの進化生物学者)らのような遺伝子還元論や、ド・ラ・メトリー(18世紀フランスの哲学者・唯物論者)の 『人間機械論』 のように、「生命は機械にすぎない」 と見る生命観に対する論駁(ろんぱく)にもなっています。

 対談者は、佐藤・松岡対談集 『創価学会を語る』 のなかで、“「創価学会」 の 「創」 の字は、キリスト教の 「天地創造」 を連想させるから、仏教団体には合わないのではないか” という日蓮正宗宗門の意見が紹介されていましたね。 牧口会長は断固譲らなかったそうですが、という、発言に対して、

 佐藤  私のような キリスト教徒から見ると、「価値創造」 という中核概念があることによって、むしろ創価学会に対する親近感がわきます。
 もう一歩立ち入って考えるならば、創価学会は、「創価」 という名称をつけたことによって、創立時からすでにある種の 「世界宗教性」 を孕(はら)んでいたのです。 なぜなら、キリスト教にも イスラム教にも 「創造」 の概念があるため、世界の キリスト教徒、イスラム教徒は、創価 ― 価値創造という概念それ自体に親近感を覚えるはずだからです。


 キリスト教徒やイスラム教徒は、“むしろ創価学会に対する親近感がわきます” との発言に、驚きを禁じ得ませんでした。私ごとき頭ガチガチの者には、このような発想は生まれてきません。
 さすがに キリスト教神学を究められておられる 佐藤氏だからと感心いたしました。
 これから 「世界広布新時代 青年拡大の年」 の益々の拡大の姿が見られることは、これほどの歓喜はありません。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR