「希望の源泉「(9-b)(譬喩品「仏の心を伝える」)

 「希望源泉」 の第 9回は、途中から 「譬喩品」 の章に入ります。
 『法華経の智慧』 第二巻(5P) には、譬喩 ――「慈悲」と「智慧」の馥郁(ふくいく)たる結晶 という副題がついています。

 はじめに 譬喩(ひゆ)とは、たとえ ということです。難解の法の義を解らせるために、身近な事物に譬えを取って説き示すことである。
 「方便品」 の説法で、最初に悟りを開いた舎利弗が、「他の弟子たちのためにも、法を説いてください」 と釈尊に願った。それに応えた説法のなかに 「三車火宅の譬え」 が説かれることから、「譬喩品」 の名があります。

 譬喩によって 「仏の心を伝える」
 佐藤 優  キリスト教においても、『新約聖書』 の イエス・キリストの言葉のなかには、多様な譬喩が用いられています。 むしろ、キリストの言葉には譬喩以外ないといってもよいほどです。 したがって、聖書学の仕事のほとんどは、キリストが述べた譬喩の意味の読み解きなのです。 と述べている。
 佐藤氏は、聖書の 「毒麦のたとえ」 を例にとって、創価学会史における 「第一次宗門事件」 の時は、宗門との決別までには至りませんでした。仮にあの時点で決別していたら、学会側にも大きな ダメージがあったでしょう。学会が時を待ったのは賢明でした。
 時を待てと教えている 「毒麦のたとえ」 を当てはめることで、外部から見ていても事の本質がつかめるのである。譬喩にはそうした力がありなすね、と述べられている。
  
 佐藤  『法華経の智慧』 には、譬喩を用いる意義が三つに分けて説明されていて、得心がいきました。
 第一に、仏の悟りは言葉では表現しがたいものだからこそ、譬喩を駆使してわかりやすく伝えるということ。
 第二に、譬喩の持つ 「イメージの力」 によって、聞く者が受け身ではなく能動的に捉えることができるということ。
 第三に、譬喩を効果的に用いることによって、話し手 ――直接には釈尊―― と聞き手の間の一体感をもたらすことができるということ。 ……
以上の三つに要約して述べられています。

 対談者は、池田会長はこの章のなかで、「法華経の七喩は即ち法体であり、法体は即ち譬喩である」 との日蓮の 「当体義抄」 の一節を引かれ、「譬喩即法体――法華経の譬喩というのは、仏の心そのものであるということです」 (上巻・260P) と述べています。
 譬喩は、ただ単なる譬え話ではなく、生命の法理を説明しているのであり、すなわち仏の心・妙法(法体)そのものであるということです。この 「譬喩即法体」 の究極が “南無妙法蓮華経” であります。

 佐藤  経典というものは、「仏の心を伝えるもの」 ですね。 論文であれば論理的に説明すればよいわけですが、経典は心を伝えるものだからこそ、単なる説明では不十分で、譬喩の持つ力が必要なのでしょう。
 そして、池田会長というたぐいまれな 「言葉の使い手」 がおられることによって、創価学会/S G I の皆さんは、わかりやすい形で 「仏の心」 を伝えてもらうことができるわけですね。
 ………
 また、学会の皆さんは池田会長と一緒に現代を生きておられるから、「仏の心」 を同時代の言葉として伝えてもらえる……私はそのことを、時にうらやましく思います。 
 ………
 一方、創価学会/S G I は、近代的な世界像、しかも ポストモダンに近いところにおいて、宗門との決別を通して宗教改革を進め、今まさに世界宗教化を進めている。 リアルタイムでその ダイナミックな変化を感じつつ生きることができる学会員の皆さんは、宗教者として幸福だと思います。

 佐藤氏は、“学会の皆さんは池田会長と一緒に現代を生きておられるから、「仏の心」 を同時代の言葉として伝えてもらえる” と このことが、本当にうらやましいと述べています。
 氏は、イエス・キリストは二〇〇〇年前の方ですから、どうしても時空の隔たりを感じてしまうことが多い と述べています。
 我われも、御書はあっても、池田先生がいらっしゃらなければ、正しい “大聖人の御精神(法華経の心)” を、識(し)ることはできないのであります。

 全編にみなぎる 「言葉の力」 への信頼
 佐藤  池田会長はたぐいまれな 「言葉の使い手」 だと申し上げましたが、同時に、私が会長の著作を読んで感じるのは、「言葉の力」 というものに強い信頼を持っておられる方だということです。
 ………
 「言葉の力」 への信頼を失うと、どうしても我流の解釈に執着してしまい、「野狐禅」(我流の禅で悟ったと思い込むものの、実際には悟りとはほど遠い状態) や 「魂の インフレーション」 のような迷妄(めいもう)に陥(おちい)ってしまいやすいのでしょう。
 対照的に、池田会長の思想には 「師弟」 というしっかりとした軸があり、「言葉の力」 への信頼があります。 そのことが池田思想の強靭(きょうじん)さの一つの土台ではないかと、『法華経の智慧』 の 「譬喩品」 の章を読んで私は感じました。

 対談者は、日蓮仏法それ自体が、「言葉の力」 への信頼を強く持っていますと。
 それに対し禅宗は、「不立文字」 という教義を立てており、文字や言葉による教えの伝達を軽んじている。ゆえに大聖人は、仏の言葉を軽んずる禅は [天魔」 である、と厳しく破折しています。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR