「希望の源泉」(11)(人間主義の宗教)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 11回は、「『人間主義の宗教』 とは何か?」 を考える であります。
 今回より 「信解品」 に入りますが、その前に、「森友学園」 の籠池前理事長の 「神道は宗教ではない」 という旨の発言に対して、「これは問題だ」 と感じたと言われています。 (第三文明・2017/6月・53P)

 「森友学園」 問題の背後にある、危険な萌芽
 佐藤 優  「神道は宗教ではない」 という発言の何が問題かと言えば、これが戦前の 「国家神道」 の論理、事実上の国教の論理であるからです。 国家神道体制をつくるにあたって、当時の政府は 「神道は宗教ではない」 とする 「神社非宗教論」 を打ち出し、それに基づいて 「宗教ではないのだから、仏教徒も キリスト教徒も神札を祀(まつ)りなさい」 と宗教統制を推し進めていったわけです。 その果てに創価教育学会も弾圧され、牧口常三郎初代会長が殉教されたことは、学会員の皆さんはよくご存じしょう。………
 「瑞穂(みずほ)の国記念小学校」 の最大の問題点は、国家神道回帰に結びつきかねない危険性にあったのです。
 ところが、籠池氏のこの発言を、大半のマスコミは完全にスルーしてしまいました。…… 日本のマスコミが、「政治と宗教」 をめぐる問題について鈍感であるという、一つの実例がここにあります。
 「神道は宗教ではない」 という考え方を放置し、それが政治の世界まで広がっていったら、その先はどうなるか? 
 森友学園問題の背後には、国家神道の再来につながりかねない危険な萌芽(ほうが)が潜んでいるということを認識しておいていただきたいと思います。


 森友学園が運営する幼稚園で、幼児たちに連日、教育の一環として 「教育勅語」 を暗唱させていたとのこと。時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。
 しかも、「教育勅語」 もよいこと書いているではないか。「靖国参拝」 も追悼のためだからよいのではないかと、可なりの人たちが そのように思っている。その上、時の総理からして、森友学園の教育方針に賛同して応援していたのである。
 このような状況は、佐藤氏の言うように “国家神道の再来につながりかねない危険な萌芽が潜んでいる” と、私も憂慮している一人です。

 「人間」 という最大の共通項に立脚した対話
 佐藤  この章の冒頭に、池田会長と ハーバード大学 「世界宗教研究センター」 所長(当時)の ローレンス・サリバン博士との対談が紹介されていますね。

 ――  ええ。『大白蓮華』 一九九三年五月号に掲載された 「21世紀の 『人間と宗教』 を語る」 という対談ですね。
 池田会長は
「その時、語りあったことが、この 『法華経の智慧』 の一つの底流にもなっている」 (法華経の智慧2巻・37P) と述べています。
 サリバン博士と池田会長の対談が 『法華経の智慧』 の 「一つの底流」 と言えるのはなぜかと言えば、そのなかで会長が 「人間主義の宗教」 という テーマを前面に出しているからです。
 たとえば、会長は 「何が真理かを決める主体は民衆です」 と述べています。 信ずる宗教を民衆の側が主体的に選ぶ 「信教の自由」 は大前提ですが、そこから一歩踏み込んで、「何が真理かを決める」 のも、聖職者や学者ではなく民衆だというのです。 聖職者・権力者が民衆に信仰を押し付けてきた 「宗教のための宗教」 の時代から、「人間のための宗教」 への転換―― それが 『法華経の智慧』 を貫く テーマの一つですが、サリバン博士との対談も同じ テーマだったのです。

 
 先生は “何が真理かを決めるのも、聖職者や学者ではなく主体は民衆です” と述べられています。
 このことは、御本尊についても同じことが言えると思います。即ち、受持する本尊を決めるのは、民衆の教団である創価学会なのである。
 いくら宗門が、法主の認可のない本尊は、ニセ本尊だと ほざいても、他教団のしかも法主詐称のニセ法主・日顕に、とやかく言われる筋合はないのである。
 創価学会員受持の御本尊は、由緒ある栃木県・淨圓寺の寺宝である、正真正銘の 第二十六世・日寛上人御書写の御本尊を、お形木御本尊にして授与されているのである。
 
 宗教間の 「人道的競争」 の重要性
 佐藤  牧口常三郎・初代会長は、『人生地理学』 のなかで、“世界は「軍事的競争」 「政治的競争」 「経済的競争」 の時代から、「人道的競争」 の時代へと移らなければならない” と訴えました。 宗教と宗教の 「自由競争」は、牧口会長の言う 「人道的競争」 の一典型でしょう。 宗教間対話も、その 「自由競争」 の一つの形です。
 ………
 日本から世界一九二カ国・地域に広がった SGI も、ある意味で 「拡張主義的」 ではありますが、SGI はきちんと多元主義的な価値観を担保し、対話する相手の人格を尊重して、いわば “正しい拡張主義” で 「自由競争」 に臨んできました。
 なぜ そう言えるのか? 一つには、各国の SGI 組織がその国の社会に溶け込み、敵対的になることなく平和共存しているからです。
 そしてもう一つは、過去に創価学会が最も敵対的関係になった相手である日蓮正宗宗門との間で死者が発生していないからです。 これは私から見ると非常に重要なことで、創価学会/SGI が平和団体であるという一つの証左であると思います。
 ………
 日蓮自身も、鎌倉時代という武士たちの時代、暴力が満ちた時代に生きながら、権力や暴力に頼らない平和的な宗教の自由競争に徹しました。……
 創価学会/SGI は、日蓮が布教に臨むこのような姿勢を範として、「人道的競争」 で平和的な布教を進めてきたのです。……
 それは、創価学会が相手の暴力性を無化し(むか)てしまう力を持っているからだと思います。 創価学会の平和主義が本物であるからこそ、そうした 「力」 が生まれるのです。
 「民衆が主体」 の宗教であることの大切さが語られた 「信解品」 の章を読んで、私はあらためて、創価学会の 「平和宗教としての強さ」 を考えさせられました。


 佐藤氏は、過去に創価学会が最も敵対的関係になった宗門との間で、一人の死者も出さなかった。そのことの重みは、もっと強調されて然るべきだ と語れています。男子部の頃、我われの戦いは “慈悲と道理による無血革命である” と よく聞かされていたから、死者が出ていないことは当然で、別段・気付きもしなかった。
 しかし、いまの世界を見ると、リビア・イラクやフイリピンまでも I S がらみの暴力が、世界に広がろうとしている情勢である。このことを思えば 創価学会の 「人道的競争」 において、平和的・非暴力的に徹してきた闘争方針の確かさは称讃に値するものと言えます。
 この仏法の平和的・人間主義の哲理は、「涅槃経」 の 「一切衆生悉有(しつう)仏性」(一切衆生に悉く仏性有り) の経文であります。
 日蓮大聖人は、「法華経」(普賢品第二十八)の 「当起遠迎(とうきおんごう)当如敬仏(とうにょきょうぶつ)」 の文を釈して、「当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」(781P) と仰せです。
 人類はみな等しく、掛けがえのない生命(仏性)を持っています。お互いに尊敬すべきことを説く、創価の 「人間主義」 の思想を、全世界に一刻も早く広めなければなりません。「世界広布新時代」 の拡大を強く祈念するものであります。 
 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

お久しぶりです。ネット動画で、共謀罪成立に関し「初代牧口先生が殉教した歴史を忘れたのか」とか「公明党支援をお願いしてきて申し訳なかった」というような声を聞きました。挙げ句の果てには「公明党がこんな世の中にした」とかいった声も・・・。私の個人的見解では、別に公明党が社会を悪くした訳ではないし、かつての治安維持法にしても軍部が戦争を煽り、また戦争に熱狂した人民に国政を預かる為政者が取り込まれた結果としての特高や法律の暴走の結果であると認識しているのですが。私は10年前は関西の牙城会員でしたが、信行学の欠片もなく、折伏した友人を脱会もさせてしまった罪業の塊です。選挙運動なんて嫌で嫌で仕方なかった。
組織の人間関係が煩わしく仕事を理由に任務当日に放棄もしました。その割には、この10年、転職の際の大失敗以外は、病気もなく静かに生活してますけど。まあ、大分の地で信心に励む両親の題目に護られてるかなという所ですか。長文すいませんでした。

Re: No title

 コメント有り難うございます。

 私も、牧口初代会長が「治安維持法と不敬罪」で逮捕され殉教されたことは、決して忘れてはならないことだと思います。

 法律のことはよく分かりませんが、要は使う人間の如何によって、善法にも悪法にもなるものだと思います。
 ゆえに、人間革命を基本としなければならないと思っています。

 ご両親を、大切にして上げてください。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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