「希望の源泉」(12)(信仰と理性)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 12回は、「信仰と理性」 の関係めぐる根源的思索 であります。  (第三文明・2017/7月・53P)

 何かを信じていない人間などいない
  まず、「信解品」 という タイトルについて、鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢文に訳す際、声聞の弟子たちが 「信」 によって仏の智慧を開いたという内容であることから、「信解」 と意訳しました。

 佐藤 勝  信解の 「解」 は理性を意味するものと捉(とら)えられますから、「信解」 という言葉それ自体が信仰というものの本質を一語で示しているかのようですね。
 「信」 だけで 「解」 がないのでは妄信になってしまうし、「解」 だけで 「信」 がないのではそもそも信仰とは呼べません。 信仰者にとって、「信」 と 「解」 は一体であるべきなのです。 その意味でこの 「信解品」 の章は、「そもそも信仰とは何か?」 という大テーマに迫った内容と言えるでしょう。
 池田会長も、次のように語られています。

 「重要なことは、この 『信解』 という二文字のなかに 『信心と智慧』 『信仰と解脱(げだつ=悟り)』 という仏法上の根本問題が凝縮(ぎょうしゅく)されていることです。
 ひいては 『信仰と理性』 『信じることと知ること』 という哲学と文明の根源的な課題にも連なってくる」
 (法華経の智慧2巻・57P) 

 日本では 「自分は無宗教だ」 と思っている人が多数派である。そう言う無宗教は、たいていの場合 「宗教に対する無知」 からきているようです。
 そもそも、「自分は無宗教だ」 と思っている人でも、何かを信じて生きているものです。つまり、無神論者は 「無神論を信じている」 のだし、「お金だけがすべてだ」 という人は、「拝金教」 の信者である。このように、何も信じていない者など、実はいないのである。
 
 佐藤  「『生きる』 ということは、何らかのものを 『信じる』 ところから出発するわけです。 社会全体が、互いの信頼なくしては成り立ちません」 という話を受けて、池田会長は、次のように述べているのです。
 「『信』 は人間の生の基本的条件であり、人間は 『信ずるか』 『信じないか』 を選択することはできない。 選択できるのは 『何を信ずるか』 ということだけなのです。 そして、この 『何を信じ、何を信ずべきでないか』 を体系化したのが宗教であり、その意味で宗教は、万人の人生・日常と密接にかかわっているのです」 (同書2巻・61P)

 先生は “「信ずるか」 「信じないか」 を選択することはできない。 選択できるのは 「何を信ずるか」 ということだけなのです” と述べられています。
 したがって、宗教においても数多くある中で、どれも一緒で同じだと言うのは、味噌も糞も同じだと言っているようなものである。
 ゆえに、宗教の高低浅深・善悪邪正を厳しく正して行かなければなりません。 信ずる宗教の如何によって、人生の幸・不幸が決まってしまうからです。これが 「立正安国論」 の教えであります。

 真の宗教は理性に反するものではない
 佐藤  池田会長が語られている次の一節は、「信仰と理性」 のあるべき関係を的確に説明していて、実に見事だと思います。
 「何らかの信念が、その人の生きる基盤となっている。 だから、その人の信念それ自体は最大に尊重されなければならないことは言うまでもない。 しかし、その信念も 『理性』 と 『事実』 による検証(テスト)を受けなければ、自分の主観のなかで終わってしまい、他に対する普遍性をもちません。
 法華経で説かれる信が、解と一体になった信、すなわち 『信解』 であるということは、その信がたんなる主観とどまっていないことを意味している、と言えるでしょう。
 もちろん、仏の悟った根源の法は 『言語道断・心行所滅』(『摩訶止観』) で、言葉や理性の働きで把握し尽くせるものではありません。 しかし、言葉や理性のおよぶ範囲では、その働きを最大に尊重していくのが仏法の立場です。 仏の悟りは理性のおよぶところではないとしても、少なくともその悟りは理性に敵対し、理性的批判を拒絶するものではないのです。
 信解の 『解』 とは、『智慧』 のことです。 理性そのものではないが、理性と合致し、理性がその一部であるような 『智慧』 です。極限まで理性的でありながら、同時に全人格的である 『智慧』―― それを 『信』 によって得るのが 『信解』 です」
 (同書2巻・64~65P)

 『御義口伝』 に 「信は価(あたい)の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」(725P) と仰せです。
 池田先生は “その意味で、信と解は対立するものではないことはもちろん、信が解を支(ささ)えるというだけの静止的なものでもない。
 本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める 「解から信へ」―― この双方向の ダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが 「信解」 の本義といえるでしょう。
 そう考えれば、梵語の 「アディムクティ」 が 「志(こころざし)」 とも訳せることは興味深い。 成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。 智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯 ―― それが仏界です。 人間としての限りなき向上へ。 その 「志」 に進む両輪が 「信」 と 「解」 なのです”
 (同書2巻・78~79P) と述べられています。

 ――  池田会長は別の個所で、次のようにも述べています。
 「仏法の 『信』 とは、理性を振り捨てて盲目的に帰依するというような 『狂信』 では決してない。 敬虔(けいけん)な探求心を出発点として智慧を育んでいこうとする、理性的な精神の営みなのです」 (同書2巻・68P)
 佐藤  「信解品」 の章の終盤に、池田会長の次のような言葉もあります。
 「今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき 『信と知の統合』 です。 それは壮大な文明的挑戦です。 『信なき知識』 と 『理性なき狂信』 に引き裂かれた人間社会を、復興させる試みです」 (同書2巻・80P)

 戸田先生の巻頭言 「思想の混乱」 には、「世界の文化人が迷乱している思想に二つある。 一つは知識が即智慧であるという考え方である。 知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない」 と。
 池田先生は “今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき 「信と知の統合」 です。 それは壮大な文明的挑戦です” と。 そして引き続いて
 「また、生命という “親” のもとに、“放浪の息子(近代の知)” が帰還する物語ともいえる。
 「信解」。 それは現代という 「精神の漂流時代」 を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させていく キーワードと言えるのではないだろうか」
 と述べられています。 

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ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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