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「希望の源泉」(14)(変わるのが「生きた宗教」)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 14回は、変わり続けることが 「生きた宗教」 の証し であります。  (第三文明・2017/9月・53P)

 はじめに、東京都議選の公明の完全勝利を喜ばれています。氏は 「自民党都連と決別し、都民ファーストとの共闘を選んだとき,快哉(かいさい)を叫びまいた。 自民党の驕(おご)りと、『創価学会は多少雑に扱っても協力してくれるだろう』 とでも言いたげな “甘えと緩(ゆる)み” を感じていたからです」 と語っています。

 「成仏へと向かう軌道」 のなかに仏がある
 ――  この章のもう一つのポイントとして、「成仏」 についての考察があります。
 「薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。 この説法を天台は 『述成(じゅつじょう)』 と位置づけています」 という解説を受けて、池田会長は次のように述べています。

 「何のために 『述成』 あるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、『成仏に至る菩薩道に間違いなく入った』 ことを、はっきりさせるためです。 (中略) 『間違いなく成仏への道に入った』 ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです」 (法華経の智慧 2巻・85P)
 ………
 要するに、成仏とは、“ゴールに到達してそこにとどまる” ことではなく、“成仏へと向かう軌道に入ったこと” それ自体が成仏なのだ、という捉え方ですね。

 一般的には、成仏を目指して修行し、成仏という ゴールに到達すれば、目的達成で そこに居続けられる、という イメージがあると思います。 じつは、「仏」 という一つの固定された実態があるのではなく、成仏へと向かう菩薩道に間違いなく入ったこと、それ自体が成仏なのである。 言うなれば、菩薩道という “軌道・プロセス” のなかに 「仏」 がある、というのです。

 佐藤 勝  『法華経の智慧』 で展開されている成仏観は、もっと動的で生成的です。 成仏を軌道として捉えるからこそ、そこでいう仏には悩みも葛藤もある。そして、その悩みや葛藤を悠々と乗り越えていく プロセスそのもののなかに、仏としての智慧が躍動するのだという考え方なのだと思います。
 「仏」 というと、現実世界に生きるわれわれとは次元の異なる存在である、という イメージを持つ人のほうが多いのでしょうが、創価学会における 「仏」 はそうではないのですね。 むしろ、衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である、と。
 これは誤解を招きかねないので慎重に言葉を選ばないといけませんが、私のような外部観察者から見れば、池田会長のような方こそまさに 「仏」 だと感じますね。


 佐藤氏は “衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である” とまで言ってくださっています。 そして、池田先生を “「仏」 だと感じますね” と。  総じていえば、広宣流布に戦う 我ら学会員は、すべて 「仏」 なのであります。
 日寛上人曰く 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」 と。 (文段集・548P) 

 テキストだけを絶対視する危険性
佐藤  成仏を 「生成の過程」 と捉えることに敷衍(ふえん)して言えば、池田会長の数多い著作もまた、その 「生成の過程」 のなかにあるものとして捉えるべきだと私は考えます。 というのも、何十年も前の池田会長の著作と近年の著作を比較して、細かな差異をあげつらって批判する人が、ときどきいるからです。 その時代時代に応じた文脈というものがあるのですから、部分的に主張が変わったとしても、創価学会は 「生きた宗教」 であるので、むしろ当然です。
 ………
 もちろん、一貫して変わらない根幹の部分はあるにせよ、変わってよい部分は柔軟に変わってきた。 その変化それ自体を 「変節」 や 「迎合」 と捉えて批判する人は、「生きた宗教」 とはどういうものであるかがわかっていないのだと思います。


 「生きた宗教」 の テキストは、時代に応じて変化していくことは当然である。
 氏は キリスト教の テキストの聖書もこれまで何十回も改定を繰り返してきている。 これも 「生きた宗教」 である一つの証である と語られている。
 また、創価学会が会則改正したとき、60年前の戸田先生の “弘安2年の御本尊” に関する指導を引き合いに出して、“今の学会指導は間違いである。けしからん” と批判する者も居たのである。
 戸田先生の時代は、日蓮正宗の教義を受け入れて、宗教法人格を取得し、広布の戦いをしていた。 今は破門され 別団体となっており、当時の状況とは まったく変化しているのである。
 そうであるからには、他教団の本尊や教義を信奉しなければならない謂れは一切ないのである。

 佐藤  また、創価学会には 「人間主義」 が根底にあるからこそ、「目の前の一人に、もっとわかりやすく法を説きたい」 との思いから、テキストを変えてよい部分は柔軟に変えることができる、とも言えます。 信仰においては、人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう。

 “人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう” と。 これこそが、創価の 「人間主義」 の考え方であると思います。
 ゆえに、大聖人の 「御書」 といえども、文字面に執着し、絶対視するのは間違いのもとになる場合がある。
 たとえば 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(328P) とあるからと言って、インド応誕の釈尊を本尊とすることは、大聖人の御正意に反します。

 次元が異なる文献学的真実と信仰
 ――  いわゆる 「大乗非仏説」(法華経などの大乗経典は釈尊の直説(じきせつ)ではなく、後世に作られたものだ、とする説) が仏教界で定説になっていても、そのことによって信仰が揺らぐわけではないのと同じですね。
 佐藤  そうでしょうね。 文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから。 そこを混同してしまったら、それは信仰者ではなく学者の目線になってしまいます。

 歴史上の “文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから” と。
 経文なぞ、むしろ 文献学的真実と違っていたり、証明ができないものが多々あるのである。 これは次元の違う問題であると、心に銘じて、自身の信仰心がふらつかない様に気を付けましょう。

 すでに、この シリーズで “法華経は直説か創作か” という関連ブログがありますので参考にしてください。
   参考: 関連ブログ ―→ ここから

テーマ : 法華経の智慧
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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