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「希望の源泉」(22)(決断の信仰 と 感化の信仰)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第22回は、創価思想という 「感化の輪」 の広がり であります。今回も 「見宝塔品」 の章の続きです。  (第三文明・2018/5月・53P)

 あらゆる生命を貫く 「リズム」
 前回、大地より涌出して、空中に住在する巨大な 「宝塔」 は、生命のことなんだと学びました。 微小な生命から 巨大な宇宙生命まで、すべての生命には、何らかの法則性や 「らせん」 あるいは 「渦巻き」 が見られると語っています。
 
 佐藤 優  私がこの後半部分を読んでまず印象に残ったのは、「仏法では、あらゆる生命を貫き、大宇宙を貫いて、何らかの法則性が存在していると説いています」 (法華経の智慧3巻・48P) という一節です。
 その言葉を受けて、池田会長は次のように語られています。

 「大宇宙には 『リズム』 がある。個々の生命のどんなリズムも、大宇宙のリズムと響きあっている。 “生きている” ということは、大宇宙と、われわれの生命すなわち小宇宙が、『共振』 することではないか、と思う」 (同書3巻・49P))
 佐藤  会長は、大宇宙のリズムとは、「『生きとし生きるものを成長させよう、向上させよう』 という慈悲のリズムです。あるいは慈悲の “波長” と言ったほうがいかもしれない」 と解釈したうえで、次のように説明しています。
 「生命は、この波長をキャッチできる “受信機” です。 どこにいようと、仏界の チャンネルに合わせれば、“自分も成長し、人をも成長させる” という慈愛の曲に包まれていく。 あるいは “音叉(おんさ)” を イメージしてもいいかもしれない。 同じ波長の二本の音叉があれば、一本を鳴らすと離れたところのもう一本も、おのずと鳴りだす」 (同書3巻・50P)
 リズム、波長、受信機、音叉による共鳴現象(レゾナンス)…… そのような、現代人にとってなじみ深い比喩を積み重ねて、仏法の 「法」 ということが平明に説明されています。

 生命は、慈悲の波長を キャッチできる “受信機” であると譬えています。 その波長はあるのですから、誰かが最初に鳴らさなければならないのである。
 先生は、「宝塔品」 で、十方分身の仏たちが釈尊のもとへと馳せ参じた姿は、あたかも 「令法久住(法をして久しく住せしめん)」 という音叉の響きに呼ばれて、たくさんの音叉が同時に鳴り出したかのような光景が、まぶたに広がります」 と述べられています。
 釈尊は 「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」(法華経・605P) と誓願し、大聖人は 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが(流布)るべし」(329P) と、広宣流布を遺弟らに命ぜられました。
 その本願を、しかと受け止められたのが、創価のご歴代の会長であります。 その流れを汲む我ら学会員も、一人一人が自立した音叉のように、広宣流布の響きを全世界に広げて参りましょう。

 「決断の信仰」 と 「感化の信仰」
 佐藤  私は信仰の二分法として、「信仰は決断だ」 と捉える立場と、「信仰は感化だ」 と捉える立場があると思っています。……
 「信仰は決断だ」 というのは、言い換えれば、自らの主観的判断、意思を何よりも重視し、個を重視する立場です。 それに対して、「信仰は感化だ」 というのは、人と人との結びつきによる相互影響を重視する立場ですね。
 私は、「信仰は決断だ」 という捉え方は非常に危(あや)ういものを孕(はら)んでいると考えます。 なぜなら、自分の意志とは常に脆(もろ)いものであって、ささいなきっかけで ポロポロと崩れていまったり、悪しきものから影響を受けて変質してしまったりするからです。……
 それに対して、「信仰は感化だ」 というのは、脆く儚(はかな)い自分の意志を絶対視せず、他者からの感化によって自らの歩む軌道を常に修正していく立場と言えます。 そちらの立場のほうが、間違った方向に進む危険性がはるかに少ないと思うのです。


 ――  「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(1088P) という日蓮の名高い言葉があります。 …… 自分の心などという、さまざまな 「縁」 に触れて常に揺れ動くものを 「師 」として絶対視してはいけない、という戒めです。 「信仰は決断だ」 という立場は、まさに 「自らの心を師としてしまっている」 のだと思います。

 佐藤氏は信仰について、「信仰は決断だ」 とするのと、「信仰は感化だ」 とする立場があると言っている。 そして 「信仰は決断だ」 というのは、非常に危ういものを孕んでいると言われています。 それは、“自らの主観的判断、意思を何よりも重視し、個を重視する立場” であるからですと。
 かつて明治時代に 大聖人の仏法を信じながら、国家主義・軍国主義に加担した者たちがいた。  田中智学(国柱会) や 本多日生(顕本法華宗)等、日蓮主義者と言われる者たちである。
 もともと 「神道」 は、教祖も居らず、まともな教典一つもなく、低級なる宗教である。 明治政府は中央集権化を図るため、国民の尊王心を利用して 「国家神道」 なるものを創り、国家の精神的支柱とした。
 西欧諸国との手前、明治憲法には、一応・信教の自由は謳われているが、事実は無きに等しいものであった。 そして 「神道は宗教に非ず」 という詭弁を弄(ろう)し、各宗教・宗派の最上に位置せしめ、特に戦時中は、国民全員に 「神社参拝と神札の護持」 を強要した。
 「摧尊入卑(さいそんにゅうひ)」(尊きを摧(くだ)いて卑しきに入れる)と言って、尊き法華経の教理をくだいて、卑しき神道に入れたのが、日蓮主義者たちであった。  この者たちの 「信仰は決断だ」 と決めた自らの主観的判断は、宗祖の御精神に反していたのである。
 たとえば、久遠実成の本仏の覚体は皇祖神であり、その末裔たる天皇こそがすべての教主であるとして、閻浮提内に折伏教化し、八紘一宇(広宣流布)を目指すと言って、戦争行為を正当化した。
 このように 「劣謂勝見(れついしょうけん)」(劣っているものを勝れていると見る) と言って、低級・低劣な 「国家神道」 を、国家の指導原理にし、最高の法華経を弾圧し捨てたことが、そもそもの間違いのもとであったのである。
 
 無意識の次元で起きる 「共鳴」
 大宇宙には慈悲の波長が常にあって、その波長に合わせるためには、受信機の ダイヤルを ファイン・チューニング(微調整)しなければならない。 それが日々の勤行・唱題になります。
 よく聞くことであるが “自分が変わったら、相手も変わった” と、まさに、自分の心と相手の心が 「共鳴」 するわけです。 しかも、その 「共鳴」 は無意識の次元で起き、また そのことを 「命が変わる」 「一念が変わる」 という言葉で表現されています。

 佐藤  説教や道徳によって変わるのではなく、無意識の次元、言い換えれば生命の次元における共鳴・感化で変わるのでしょうね。 だからこそ、創価学会の 「感化の輪」 のなかで生活し、活動していれば、誰もが変わっていけるのでしょう。 もっと難しい修行によって 「変わる」 のだとしたら、それは聖人君子とか 一部の宗教的エリートのための宗教になってしまい、民衆宗教、万人を救う宗教にはなり得ません。……
 創価学会は決してそうならないわけですね。 世界中の万人に向けて開かれているし、感化の輪と、日々自宅の御本尊に向き合う ファイン・チューニングによって、どこにいても、誰であっても、幸福の軌道を歩んでいける。 その点で、まさに世界宗教にふさわしい教えなのだと思います。
 

テーマ : 法華経の智慧
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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