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「希望の源泉」(17)(「難」との向き合い方)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 17回は、「難」 との向き合い方に表れる 池田思想の卓越性 であります。
 今回も 「化城喩品」 の章の続きです。  (第三文明・2017/12月・53P)

 真の教育には師弟関係が不可欠
 いま、あらゆる知識が ネットで得られる時代になっても、多くの人が教授との師弟関係を求めて入学してきます。それは学生にとって、単に知識の伝授だけでなく、人格形成にとって絶対必要なことであるからです。
 法華経では、師弟関係の重要性がくり返し強調されています。この点について、対談者は次のように述べています。
 ――  仏道修行には師弟という人間関係のなかで得られる 「生命的感化」 が不可欠だからと思います。 日々の勤行・唱題で御本尊を拝すること、御書を学ぶことはもちろん重要ですが、御本尊も御書も物質ですから、当たり前ですが何か言葉をかけてくれるわけではありません。 だからこそ、池田会長という生身の師の言葉を通した 「生命的感化」 が、死活的に重要なのです。

 創価学会の組織をけん引している力は、世間的な単なる リーダーシップとは違うのである。そこには 「師弟関係」 が介在し、池田先生との 「生命的感化」 があるのであります。
 生命的感化とは、妙法の “仏界の生命による感化” とでも 言えるのではないかと思います。
 たとえば、幼き子を連れて はるばる佐渡まで訪ねた 日妙聖人、八十歳を超える老齢の身で 三回も身延に登山した 阿仏房、お二人のお姿を想像していただければ、ご理解いただけるのではないかと思います。

 あえて 「戦術的退却」 を選ぶ勇気
 広宣流布の途上には、「三障四魔」 「三類の強敵」 が競い起こるのである。創価学会の歴史においても、それぞれ大きな難を受け、それを乗り越えてきました。この難について、佐藤氏は次のように述べています。
 佐藤 勝  池田会長の歩みを詳しく見ていくと、要所要所に 「二段階の勝利」 があるのです。最初に難が訪れたときには戦術的退却を選び、数年後ないし数十年後に逆転勝利する。   
 たとえば、池田会長が無実の罪で選挙違反に問われて逮捕された 「大阪事件」 では、戸田会長を守るために、若き日の池田会長は罪を認めたかのような供述をし、その後の裁判で見事に無罪を勝ち取りました。
 また、第一次宗門事件では、表面上、宗門に謝罪する形で戦術的退却をしたものの、第二次宗門事件では宗門に完全勝利しました。 いずれのケースでも、最初に難が訪れたときに池田会長が戦術的退却を選ばず、突っ張り続けていたなら、創価学会は致命的打撃を受けていたでしょう。……
 池田会長は、そうした必要な時に戦術的退却ができる。 それは、最終的な勝利に対する確信がなければできないことです。 また、“自分にはすべての創価学会員を幸福に導く責任がある” という強烈な責任感が源となって智慧を湧かせるからこそ、戦術的退却ができるのでしょう。
 さらに敷衍(ふえん)して言うならば、大きな難が訪れたときに池田会長が決して玉砕(ぎょくさい)しょうとしなかったことと、現在の創価学会の 「与党化」 はパラレル(並列的)な関係にあります。


 佐藤氏は、世界宗教の大きな特徴は 「与党化」 にあると。それは 「反体制にならず、体制内改革を進めていく」 ためであると語っています。
 かつて、全学連の闘士が、いくら デモや反対集会で正義を叫び活動に励んだが、後から見たら何も変わってなかったと言っていた。このように反体制側からでは構造改革なぞ何も出来ないのである。ゆえに、暴力による革命に走りがちになる。
 創価学会は国家権力の側に同志を送り込み、数十年を費やして、体制の内側から日本という国の構造を改革する道を選んだのです。
 このように与党化の道を選ぶことは、非暴力の体制内改革で、平和な文化国家の建設を目指しています。これは、社会に対する強い責任をも引き受けることになるのであります。

 法華経では手段がそのまま目的となる
 「化城喩品」 のなかで説かれる 「化城宝処の譬え」 は、大要、次のような譬えです。
 ――  宝のある場所(宝処)を目指して砂漠を旅する隊商を、一人の導師が導いていく。 しかし、その途中で人々は疲労困憊(こんぱい)の極に達し、一歩も進むことができなくなります。 そのことを哀れんだ導師が、神通力によって幻の城(化城)を人々に見せ、その城のなかで休息を取らせます。 そして、人びとが十分に休息を取ったことを確認した導師は、幻の城を消し去り、「真の目標である宝処は近い」 と説く……。 この話のなかの 「幻の城」 は、仏が衆生を導くために説いてきた三乗の方便の教えを指し、「宝処」 は衆生が最終的に目指すべき一仏乗――仏の無上の悟りを指しています。

 一般的な解釈では、方便の教えは去年の カレンダーのようなもので、一仏乗(法華経)が明かされた後では無意味である、という捉え方になります。
 しかし、『御義口伝』 では、「化とは色法なり・城とは心法なり、此の色心の二法を無常と説くは権教の心なり・法華経の意(こころ)は無常を常住と説くなり、化城即宝処なり」(732P) と仰せです。
 法華経の真意は、無常の幻と思っていた化城が、実はそのまま宝処であると説くのである。

 佐藤  『法華経の智慧』 のなかでは、そのことが次のように解釈されていますね。
 「化城を方便、宝処を真実として別々に捉えた場合、方便は手段、真実は目的ですから、手段によって目的に到達するという発想になります。 それに対して 『化城即宝処』 ととらえる場合は、手段のなかに目的が含まれているということになります」

 「仏界を目的とするならば、九界はそれまでの過程となる。 しかし 『九界を脱却して仏に至る』 という発想では、九界と仏界は相いれないものとなり、九界即仏界にならない。 (中略) 法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。 化城即宝処なのです。
 その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的である。 つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。 仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです」
 (法華経の智慧2巻・177P)

 これは、前の 「授記品」 の章で、先生が “仏が歩んだのと同じ 「軌道」 を歩み続けること自体が成仏なのです” と論じたことと、同趣旨のものであると思います。

 佐藤  今引用した一節が、世の中の一部にある 「目的が正しければ、手段は間違ってもよい」 「目的を達するためなら手段を選ばない」 という発想に対する根源的批判でもあるということです。
 日本には、「革命という目的のためなら、暴力を使うことも、デマ宣伝を用いることも辞さない」 と考える政治勢力があります。 つまり、「目的さえ正しければ、そこに達するまでの過程における手段は、間違っていても汚れていても構わないのだ」 という危険思想です。 しかし私は、課程や手段が間違っていたなら、そもそも目的も正しくないのだと思います。 過程において暴力や ウソを平気で用いる組織や人間は、彼らが 「正しい」 と喧伝している目的も、実は間違っているのです。


 上記の危険思想を持つ政治勢力とは、日本共産党のことだと思います。
 ソ連邦が崩壊し、マルクス・レーニン主義は破綻してしまった。すでに西欧先進諸国では、共産党という名の政党は消滅して、一つもないとのことである。
 しかるに、日本共産党は、いまだに暴力による共産主義革命を夢想している。それ故に、党名も綱領も変えてなく、ソ連東欧型の共産主義と完全に決別していないのである。ゆえに、暴力やウソの プロパガンダ(宣伝)などを平気で用いている。
 先の都議会で、私立高校の授業料実質無料化は、公明党が強く要望して小池知事に実現させたものである。それを、あたかも共産党の実績であると言うのだから、開いた口がふさがらない。
 かつて、石原元都知事が 「他人の獲物を横からさらう。“ハイエナ” という下劣な ケモノと、よく似ている」 と議会答弁をしたことは有名な話である。

 佐藤  創価学会と日蓮仏法、ひいては池田会長の思想は、「目的を達するためなら手段を選ばない」 などという発想とは相いれないということですね。
 過程・手段がそのまま目的となる、という考え方――。 それは 「九界即仏界」 「方便即真実」 という法華経の法理から必然的に導き出されたものであるとしても、結果的に、創価学会が 「目的のためなら手段を選ばない」 とする危険思想に陥(おちい)ることを防いでいますね。 だからこそ、無政府主義にも国家主義にも陥らず、中道を行くことができる。 学会でいう 「人間革命」 が暴力に結びつくことは決してないのです。

テーマ : 法華経の智慧
ジャンル : 学問・文化・芸術

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お礼の一言が言いたくて

こんにちは、初めてお便り致します。
大聖人生誕の地に住んでおります。
昭和36年入信の両親の元、学会の庭で育った二世です。
昭和53年に鼓笛隊に入隊し12年間、数々の薫陶を受けさせていただきました。グループ長を10年、白ゆり長を14年、長年勤めた職場を早期退職し、昨年の11.18に地区婦人部長の大任を拝しました。子供はおりませんので、昭和17年生まれの母と昭和11年生まれの父の見守りをしています。父と同い年でしょうか?
このブログで深く読み伝える事を学ばせていただいております。また、楽しみでもあります。ありがとうございます。
寒さ厳しい季節となります。お体を大切に、風邪等召されぬよう祈っております。

Re: お礼の一言が言いたくて

 初めまして、お便り有り難うございます。
 三日ばかり留守をしていまして、遅くなってすみません。 
 私のブログをお読みくださり、そのうえ過分なお言葉を頂き有り難うございます。

>父と同い年でしょうか?

 私は昭和11年1月生まれで、来月で82歳になります。
 体力も気力もだんだん落ちてきておりますが、貴女さまのお言葉を得て、まだまだ頑張らなければと思いました。
 大聖人ご生誕の地、宿縁深しと思って来年栄光の年、11・18大誓堂5周年目ざして頑張りましょう。

 お父さま・お母さまを、くれぐれも大切にお願いします。
 ご活躍とご健康をお祈りいたします。

No title

初めまして。
常々疑問に思うのですが、佐藤氏は何故キリスト教徒を続けていて、仏教に帰依しないのでしょう。
つまり今でも仏教をキリスト教よ低級の教えと思っているのでしょうか。
そのような人物の言うことはいまいち信用できません。

もうひとつ

「目的を達するためなら手段を選ばない」 という発想に対する根源的批判でもあるということです。
 日本には、「革命という目的のためなら、暴力を使うことも、デマ宣伝を用いることも辞さない」 と考える政治勢力があります。 つまり、「目的さえ正しければ、そこに達するまでの過程における手段は、間違っていても汚れていても構わないのだ」 という危険思想です。

以前、日顕の芸者裁判で学会が負けた時、聖教新聞社に電話して「何故あのようなデマ(芸者写真)載せたのか?」と聞いたところ、「敵がデマを載せるからこっちも載せるんだよ!」と答えました。
聖教新聞社もデマを正当化するのか・・・と唖然としました。

Re: No title

 ブログをお読みくださり有り難うございます。

> 佐藤氏は何故キリスト教徒を続けていて、仏教に帰依しないのでしょう。

 信教は個人の自由であり、現実にお会いすることもできない人のことに、気を遣う必要はありません。
 創価学会員が学会を称賛しても、あれは“我田引水”である “手前味噌”であると言われるのが、せいぜいのところである。
 その点、外部の有名人が称賛してくださる方が、その影響力は大であり、我われとしても有り難いのである。
 ゆえに、そのままキリスト教神学を基にして、今のように日蓮仏法を論じていただける方が、新しい論点も比較できて、私としては有り難いと思っています。

 通常、外部のお方が、創価学会を讃えることは勇気のいることです。
 佐藤氏は、おそらく“創価学会のちょうちん持ち”になった。“大金をもらって転んだ”などの誹謗中傷を受けたであろうと思います。
 そのような中で、あえて創価学会の世界平和・広宣流布の活動に協賛してくださることは、諸天の普賢菩薩の役割りを果たしている方だと思います。

> そのような人物の言うことはいまいち信用できません。

 どのような人物の言うことでも、その内容が正義・正論なのか どうなのかによって、信・不信は決めるべきであると思います。
 むかし話に、羅刹(鬼)に身を投げて法を求めた、雪山童子の故事を思い出してください。

Re: もうひとつ

> 聖教新聞社もデマを正当化するのか・・・と唖然としました。

 もう大分前のことですね。
 日顕の芸者写真が本物かどうかということでしょうが、日顕宗が学会員よりご供養を受けて、広宣流布のためには使用せず、日顕はじめ坊主たちが、游戯雑談(温泉芸者遊びなど)に使っていたことは、周知の事実ではありませんか。

 創価学会といえども、構成人員は凡夫であり、その人が運営しています。まったく完全無欠ということはありません。
 ゆえに、重箱に隅を楊枝でつつくようなことすれば、アラはいくらでも出ています。
 要は、大聖人の大願たる広宣流布に戦っているのは、学会か・宗門か。もう勝・劣は決まっているでしょう。
 枝葉末節(宗門問題など)に囚われることなく、広宣流布の大願一筋に生ききって行きましょう。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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